7.執事の本心、三割の嘘
夕暮れを迎え、ジェイクは明日から本格的に館に住むため荷物をまとめに家に帰っていった。今日はアーシュに関する公務もないためリンクスも自由だ。ティキの一件が落ち着いたのかセドリックが戻ってきたところで姫様から離れ自分の部屋に向かっていった。
残されたイオンは戸惑いが隠せない様子でアーシュを見る。
「イオンはとりあえずこっち」
周りに人がいないことをちゃっかり確認したうえで、アーシュはイオンの手を引いて廊下の突き当たりの部屋の中にするりと入りこむ。イオンを完全に中に引き入れるとすかさず廊下に顔だけ出してセドリックに告げる。
「ディックも今日は部屋に戻って。夕食のときにはノックしてくれたらすぐ出ていくから。いいでしょ?」
「わかりましたが、お二人でおられる時には他の人を入れないように」
「言われなくてもわかってるわよ。困るのは私なんだから」
アーシュは静かにドアを閉め、一拍おいてからくるりと振り返ると、側らに佇んでいたイオンに思い切り飛びついた。
「わっ!なっ、なに?」
慌てるイオンに対し、アーシュはぎゅっと力を込めてイオンを抱きしめたまま動かない。イオンの肩に顔をうずめたアーシュの髪がふわふわと頬に触れる。
「あ……アシュリア……様?」
「二人のときはアーシュでいいって言ったでしょ」
「うん………。アーシュ……」
アーシュはゆっくり力を緩めて顔を上げると、イオンの額から布を取った。同じ色の髪、同じ色の瞳が現れる。
「やっとここまできた……。もう離れたくない」
「僕も……これからも傍にいたい」
「そうね。ずっと、ずっと……誰にも邪魔されずに傍にいられたら………。でも、それは言葉で言うほど簡単なことじゃない。これから、もっと越えていかなきゃならないことが出てくるわ」
「僕は、なんだってやるよ」
「フレイド……」
「もう嫌なんだ。生きているかもわからない、また会えるかもわからないアーシュのことを考えて胸が苦しくなるのは。今こうして目の前にアーシュがいることを確認できる。触れることだってできる。これは奇跡に近いことなのかもしれないけれど、現実だから。僕はそれを守るためなら何だってするよ」
「フレイドがそう言ってくれるなら……。もともと何だってしてやるつもりでいたけど、不安なことはやっぱりあったから。でももう恐くないわ」
アーシュはイオンから離れると窓際に歩いて行った。閉じていたカーテンを開いて闇の広がっていく途中の空を見つめる。
(私たちは一緒に生まれたんだもの。死ぬまでずっと一緒にいてやるわ。誰にも邪魔なんてさせない。それがたとえ神だとしても、私は最後の最後まで抗ってみせる)
決意を胸に振り返ると、イオンが頼りなげな顔でアーシュの方をうかがっていた。
「どうかしたの?フレイド」
部屋の中がだいぶ暗くなってきたのでランプに火を灯しながら尋ねると、イオンは言いづらそうに気になっていたことを切り出した。
「あのさ、僕の部屋って………あるよね?」
「あぁ、さっき案内のときに言わなかったから心配してるの?もちろん考えてあるわよ」
アーシュはにっこり笑う。あるかないかを聞いたのに、考えてあるという答えが返ってきたことにイオンは嫌な気がした。
「白の騎士は姫様と同じ階に住むって言ってたから、この階になるんだよね」
「ええ、そうよ」
とりあえず地下や屋外などのとんでもないところは免れた。
「それって、どこになるのかな……?」
「フレイドは私とずっと一緒よ。だからこの部屋が私だけじゃなくてフレイドのものにもなる。でも、さすがに限界があるし白の騎士としてのフレイドを姫の部屋に住まわせるわけにはいかない。そこで」
「そこで……?」
「普段の生活はディックの部屋でしてもらうことにするわ」
「…………えっ!」
まさかそうくるとは。イオンは予想を超えてきたアーシュの返答に妙な声を出す。
「なに?嫌なの?」
「いやっていうか……。セドリックさんはどうなの……?僕と一緒でいいって言ったの?」
「もちろん」
(絶対嘘だ。アーシュが嫌って言わせなかったんだ)
胃のあたりが急にキリキリいいだした。これからの生活を考えると精神的ストレスを考えずにはいられない。
嫌いなわけではない。確かに嫌いではないのだ。だが、人には苦手というものがある。イオンにとってのセドリックはまさにその苦手人物にあたった。口数も少なく何を考えているのかわかりづらい。そうかと思うと冷たい声でしっかりと釘を刺してくる。アーシュを第一と考えているのは確かだろうが、陶酔しているわけでもない。彼が基準としているものがなんなのかイオンには図れないがために翻弄されるのだ。
(あの人はたぶん、僕のことを良く思ってないと思うんだよな……)
容赦がないことは地下室での特訓でお墨付きだ。
「これからはディックとなるべく一緒にいるようにして」
「えぇっ?なんで?」
「ディックは今一番私に近いところにいるの。だからそのディックと一緒にいれば私とも一緒にいれるでしょ。私とフレイドが二人でいつもいたら怪しく思われるじゃない」
もっともな考えだが、イオンは素直に首を振れなかった。いつも一緒にだなんて心臓がもたない。
「ア……アーシュ、あのね………」
思い切って訴えかけようとしたところにノックの音が重なった。
「ディックが呼びにきたのかしら。もし違ったら困るからフレイドはちょっと待ってて」
「あ………」
アーシュはイオンの横をするりと抜けて扉を少しだけ開けると外に出ていってしまった。チャンスを逃したイオンは肩をがっくりと落としながら重いため息を吐く。
(これがアーシュといるために越えなきゃならない試練……)
そんなわけはないのだが、イオンにとって大きな壁であることは違いなかった。
すぐにアーシュは戻ってきた。
「さっき昼食を食べた部屋に行くわよ。今夜は二人だけね。リンクスはお兄様に呼ばれて出かけてるみたいだから」
「お兄様って、第一王子の?」
「ええ。イーガスお兄様はリンクスと親しい仲なの。あんまり詳しいことは知らないんだけどね」
ふぅんと頷いているイオンの額にアーシュは素早く布を巻くと、手を引いて部屋を出た。
すぐ外にはセドリックが待っていた。上から注がれる厳しい眼差しをうけ、アーシュはぱっとイオンから手を放す。
「本当目ざといわね」
「困るのはあなた様なのでしょう?」
ごもっとも。アーシュは口答えすることなく、セドリックの少し前を歩いていく。イオンは後方をおずおずとついていく。ひとつ下の階に降りる階段の手前でアーシュが突然振り返った。
「そういえば、今夜からイオンのことよろしくね」
なんで今?と心の中で突っ込むイオンをよそに、視線を受けたセドリックは恐いくらいの笑顔を作ってイオンを見る。
「ええ、もちろんです。ただ、彼が私の横でぐっすり眠れればよいのですが……ね」
「……っ…」
イオンは声にならない声を漏らして真っ青になった。残念なことに顔の半分は隠れているためアーシュにはわかってもらえなかったようだが。
「大丈夫よ。私ね、二人はうまくやっていけると思うの」
(アーシュ……。少し会わない間に君の目は節穴になってしまったのか……。この人と僕がどうやったらうまくやっていけるって?頼むから冗談はやめて………)
イオンはこの日の夕食の味もよくわからなかった。
「あの、セドリックさん」
ここはアーシュの部屋の隣にあたるセドリックの部屋である。
アーシュが眠る頃まで一緒にいたイオンは、寝顔を見届けてからここへやって来た。一応ノックはしたのだが応答がなかったのでそっと開けると、セドリックはちゃんと居り、椅子に座って難しそうな書類に目を通していた。
失礼しますと小声で言って入っても、セドリックは気付いていないのではないかと疑うほどに関心を示さなかった。だから思い切ってイオンは声をかけたのだ。
「なんですか?」
書類から目を離さないままセドリックが応える。
「あ、あの……。僕と一緒なんて、本当は嫌……ですよね」
「…………べつに」
(今の間はなに!それでもって最後にべつにって、僕はどうしたらいいわけ?)
新手の嫌がらせか。どうせなら面と向かってお前なんか大嫌いだと言われた方がよっぽど気持ちがいい。
「本当にいいんですか?セドリックさんが嫌って言わないと、僕本当にずっと一緒にいますよ?」
セドリックは眉間に皺を寄せて小さく息を吐くと、書類から目を上げてイオンを見た。
「私はべつにいいと言っているでしょう。あなたこそ、私が嫌ならアシュリア様にお願いすればいいじゃないですか。あなたのお願いならきっと聞いてくれますよ」
「僕は嫌だなんて………」
「なら、なんの問題があるのです?お互いいいなら、構わないじゃないですか」
「それは……そうなんですけど………」
(嫌とか、嫌いとかじゃないんだ。だけど、なんていうか………)
「なんですか。まだ不満という顔をしてますが」
「…………」
セドリックは立ち上がってイオンの前まできた。身長差があるのでぐっと顔を上げて見上げたが、それでも布をつけたままの顔ではセドリックの表情を確認できなかった。
「相手の本心を知らないと満足できませんか」
「そっ、そんなつもりじゃ……。僕は、なんていうか、セドリックさんがアーシュのために我慢してるんじゃないかと思って。もしそうなら、僕がアーシュに言っ……」
イオンは急に胸倉をつかまれて引っ張られた。見えなかったせいもあるが、完全に油断していたイオンはあまりの驚きに息を詰まらせる。
「会ったときから思ってましたが、本当に胸糞悪いガキですね、あなたは」
「っ!」
「本当のことを言ってくれないと夜も眠れないというのなら、いいでしょう、私の心の内を明かして差し上げます」
セドリックは乱暴にイオンの額の布を引き外すと、現れた金色の瞳に冷たく燃える視線を注ぎながら怒涛〈どとう〉のごとく言い放った。
「あなたのおっしゃる通り、私はあなたのことが嫌いで嫌いで仕方ありません。なぜあなたのような人がアシュリア様の双子の兄妹なのです。同じ顔、同じ色の髪、瞳。体の線も細く後ろ姿などそっくりだ。声ですら時々同じに聞こえるほどで、嫌でも双子なのだと思い知らされる。なのに、あんなにも強く生きておられるアシュリア様に比べ、あなたは薄っぺらく弱々しく、心の内が空っぽだ。なんのために。なんのために同じ姿で生まれてきたのか」
セドリックは返す言葉も出ないイオンの胸倉をつかんだまま、強い力で側らのベッドに押し倒した。襟元にあった手が緩く首にかけられる。
「美しき光を纏〈まと〉った影の子。生きているというだけであの方に愛される存在。憎いに決まっているでしょう。今ここで殺してしまいたいくらいだ。だが、私にはできるわけがない。こんなにも似た姿のあなたを、私は手にかけることができない……。本当に、憎たらしいガキだ」
「…………」
びっくりした。としか言いようがなかった。恐いも悲しいも、怒りもなく、ただびっくりしたのだ。自分で導いた結果のはずなのに、イオンは呆然としてしまった。
「どうです?満足しましたか?」
セドリックはイオンの上からどくと冷たく見下ろした。
「本心……ですか?」
「三割くらい嘘をつきましたが」
(三割って、どの部分だよ)
イオンは天井を仰いだまま起き上がらなかった。セドリックは椅子に戻ると、先ほどのことなどまるでなかったかのような平然さで書類を見始める。同じ部屋にいるのにお互いの空間が切り取られているように交わらない。違和感はこれでもかというほどあったが、嫌悪感は不思議と存在しなかった。ぽつりと、セドリックが独り言のように言った。
「そのまま眠ってしまいなさい。私はレイラと交代で休息をとることになっていますから。あ、手元の灯りはこのままにさせてください。書面が見えないので」
「…………」
「どうしました?気分もすっきりしてよく眠れるでしょう」
イオンはむっとして一度だけセドリックを見たが、何も言い返すことなくベッドにもぐり込んだ。
(あんなこと言われたあとにぐっすり眠れるわけないだろ)
そんな奴いたら見てみたいね、とまで思ったイオンだったが、疲れていたのか結局眠りに落ちてしまった。すやすやと、小さな寝息が聞こえてきて、セドリックは小さな溜息と共に書類から目を上げた。
(本当に憎たらしい。同じ顔で、あの方が見せたことのない表情をする……)
少しずつ雲が広がり、先ほどまで明るく闇夜を照らしていた月は、ぼんやりと淡い影を投げかけるだけになっていた。