2.再会のとき
どれほどの時が経ったのかわからない。ゆっくり瞼を押し上げると、見慣れない天井が視界に映った。
体がだるい。起き上がろうとすると背中がぎしぎしと軋んだ。やっとの思いで体を起こすと激しい頭痛に襲われ、フレイドは両手で額を押さえた。ぐっと目をつむると浮かぶ、見たこともない悲しげな表情の母親。水しぶきを上げて吸い込まれてゆく体。川底から見上げた川面の輝きに、他人事のように綺麗だななどと考えたこと。しかし、その後の映像は何も浮かばない。
それどころか。
「僕……誰だっけ…?」
フレイドは母親に橋から突き落とされた瞬間のことしか覚えていなかった。あのときに見た母親の顔はしっかりと覚えているのに、名前が出てこない。自分の名前さえ出てこない。とても大切な人がいた気がするのに、それも思い出せない。ぼんやりと、光のようなものが心に訴えかけてくる。絶対に忘れてはいけないと。
「なんだろう……。僕、好きな子でもいたのかな?」
あまりに頭が痛いのでフレイドは再び横になった。
生きている。それだけは確かだった。
がちゃりと音がして人の入ってくる気配がした。フレイドは反応するも起き上がれず、頭をそちらに向けて確認する。
「おっ。目が覚めたか」
目が合うなり表情を明るくして言ってきたのは体格のいい男だった。森や山に住む男特有の猟師服を着ている。フレイドもこの手の人たちとは関わりが深かったのでよく知っている。
「すみません。ここはどこですか?」
ゆっくりと起き上がろうとするフレイドを側に寄ってきた男が制する。
「無理すんな。ここは東の国の南西に位置する森の中さ。森っつってもすぐに町に行ける距離だけどな。それにしても、すげぇ生命力だな。川から引き上げたときにゃ、すっかり冷たくなってたから、もう駄目かもしれんと思ったんだが」
「助けてくれたんですね」
「まぁ、拾ったって感じだったがな」
はは、と男は笑った。それから自分はユルガだと名乗った。
「お前、名前は?」
「………すみません。僕、自分の名前も、自分がどこの誰なのかも、思い出せないんです」
「記憶がないのか」
「川に突……落ちたことだけはわかってるんですけど、その前後がさっぱり……」
「落ちたときにどこか打ったのかもしれないな。まぁ、そのうち思い出すかもしれんし、思い出せなくとも生きてはいけるさ」
「……ありがとうございます」
「やっぱり顔色が悪いな。何か作ってくるから、とにかく食べて早く元気になれ」
ユルガはにっと笑って食事の用意をするためキッチンの方へ向かった。
とても温かい人だ。身元もわからない自分を助け介抱してくれている。それにあの言葉。思い出せなくとも生きてはいける。まったくその通りだと思った。
(でも、僕は忘れちゃいけないことを忘れている。他の何を失ってもそれだけは胸に抱いていなきゃいけないことを、僕はどこに落としてしまったんだろう)
再び見つけるためには、やはり生きなければと思った。自分が死ぬのはここではないと、なんとなくだが魂がうったえかけてくる。
生きなければ。そして探さなければ。フレイドは小さな拳を握りしめて心に誓った。
フレイドはユルガからイオンという名をもらって小屋でともに暮らした。だいぶ後で知ったことだが、イオンというのはユルガが昔飼っていた猟犬の名前で、その犬が死んでからちょうど一年を迎えた日にフレイドを川で見つけたらしい。不思議な出会いではあったが、べつにユルガはフレイドにイオンの影を重ねたわけではない。そもそも犬と人間だ。実のところは単にセンスがなく、いい名前を思いつかなかっただけ、ということだ。
フレイドことイオンは、小屋で過ごしているうちに少しずつ記憶が戻ってきていた。自分の本当の名前も、住んでいた森のことも、母親の作るあたたかいスープのことも、そして自分が何よりも大切にしていた双子の女の子のことも。
だが、イオンはそれをユルガには言わなかった。戻った記憶を秘密にしたまま、新しい生活を営み続けた。フレイドはイオンとして、ユルガと明るく毎日を送ることを選んだのだ。
「イオン、水汲んできてくれねぇか」
「わかりました」
ユルガの人の好さがそうさせたのか、イオンは素直な少年に育っていた。いたずら好きのやんちゃな一面は影を潜め、よく言うことを聞き、よく働く。男の子にしては少し大人しいくらいだった。
まるで本当の親子のように生活を共にしていたが、イオンはどうしても双子の片割れ、アーシュのことが忘れられなかった。あれからどうしているだろうか。自分と同じように少しずつ成長しているはずのアーシュは、今どんな風になっているだろうか。自分より少しだけ鼻が低くて、瞳の大きいアーシュ。いつもおそろいで切っていた髪は伸びているかもしれない。金色でふわふわの髪。きっと伸ばしても可愛いに違いない。
会いたい。この手で触れたい。また一緒に笑いたい。
しかしイオンはユルガの元を離れなかった。今いる森の場所もわかっているし、かつて住んでいたあの森の場所も地図の上では把握している。探しにいけないわけではない。それでもこの家を出てアーシュに会いに行かなかったのは、あの日の母親の行動に何か意味があると考えていたからだ。
実の子を川に突き落とした母親。事実だけみれば残酷だ。しかし最後に見たあの悲しげな顔とか細い声。母親はイオンが憎くて突き落としたのか。たとえ都合のいい考えだとしても、何か理由があったのだと思いたい。
(僕は生き残ってしまった。でも、きっとあのとき僕はいなくなったんだ)
そんな自分が変わらぬ姿で二人の前に現れていいのか、イオンは答えの出ない毎日を送り続けていた。
(僕がアーシュを探すことで、もしアーシュが不幸になったりしたら……。会えないことより、その方が辛い………かもしれない)
「どうした?考え事か?」
汲んできた水を瓶に移していると、ユルガが顔を覗き込むようにして聞いてきた。イオンは慌てて笑顔を作る。
「な、なんでもないです」
「いや。なんでもないような顔はしてなかったぞ」
どれだけ深刻な表情をしていたのかと、イオンは自分の頬をつまんで引っ張りながら、内心ひやひやした。ここを出て自分の兄妹を探しに行きたいなんて、悟られてはいけない気持ちだ。
だが、ユルガはまったく違うことを感じ取ったようだ。
「イオン……。お前、もしかして勉強したいんじゃないか?」
「はっ?」
「いや、会ったときから賢そうな顔をしていると思ってたんだ。だが、ここじゃ生きるための知恵は教えてやれても勉学となるとてんで話にならない。なんせ俺が勉強をせずに育ってきたからな。勉強をするとなると先生が必要だ」
「ユルガ?何の話を………」
「お前くらいの歳になるといろんなことに興味が湧くもんだ。俺みたいな奴は頭で考える必要のないことにばかり興味が湧いたが、お前はそうじゃないんだろう。不思議な物事や理解できないことを自分のものにするためには知識ってもんが必要だ。だが、あいにくここにはそれを得ることのできるものが何もない。イオンがいくら難しい顔をして考えていても、解決しないことばかりだろうよ」
「いや、そういうことで難しい顔をしていたわけじゃなくて……」
「よし。今度町へ行ってみよう。そこでダメならさらに東の街だ。きっとたくさんのことを学べるぞ。いい先生がいたら少し遠くたって通えばいい」
聞いてくれそうもないのでイオンは諦めた。確かに知識はあった方がいいし、なによりユルガが自分のためにしようとしてくれている。それを断る理由など、イオンには見つからなかった。
まるで自分のためかのようにウキウキした表情で、ユルガは満足げだ。こんな日々も、かつての小屋での毎日に負けないくらい幸せだった。
しかし、幸せと思えた暮らしは急に終わりを告げた。約束した町へ行くこともかなわず、イオンは再び大切な人と引き裂かれてしまったのだ。
それは突然訪れた。イオンだけでなく、この森に住む全てのものにとって突然だったことだろう。
焼ける木の臭い。体の奥を焦がすような蒸した空気。イオンが一人で泊りがけの使いに出ることができるようになってから間もなく、まさにその使いから帰ってきたイオンの目の前で森は赤く燃えていた。
山火事だ。呆然と立ち尽くすイオンの周りでは忙しなく人々が行きかっている。どれくらいの時間が経っているのかわからないが、今さっき起こったという様子ではなく、火事は広範囲に広がり、今は少しでも損害を抑えようとまだ火のまわっていない箇所の木を伐採して燃え広がりを食い止めようとしているところだった。
聞こえてきた会話によると、消火活動を行ったがとても間に合わず、少しでも火事の広がる速度を落として、あとは雨を待つしかない状態だという。なぜ突然山火事など起こったのか、原因は不明のようだ。
「ユルガ………」
家のあったあたりは完全に火の中だった。もし逃げ遅れていたら……。考えたくないが、心配で胸が押しつぶされそうになる。
この火の中に飛び込んで探しにいくなど無意味だろう。まだ森の中にいて生き残っているとは考えられない。もし無事だとしたら、どこかに避難したか、皆と一緒に木の伐採を手伝っているはずだ。
「イオンじゃないか?」
聞きなれた声に呼ばれ、イオンはすぐに振り返った。そこにはいつも町で世話になっている小間物屋の店主が立っていた。
「無事だったか」
「僕はちょうど森を離れていたんです。おじさん、ユルガは……。ユルガは無事ですか」
問い詰めるようなイオンに店主は困った様子で視線を外した。
「わからないんだ。今のところ見つかってない。あいつもどこかへ出かけていたりすりゃいいんだが」
それはないと思った。イオンが森を離れるとき、ユルガは森でやることがあると言っていたのだ。嫌な光景が頭に浮かび、イオンは振り払うように頭を振った。
「火事が収まったらひょっこり現れるかもしれん。あいつはこれしきのことでくたばるような奴じゃないからな」
「…………」
「もしかしたら、西側に逃げたのかも。そうだとしたら火が消えるまでこちらにはやって来れんからな。なに、そんな顔をするな。おれはお前が生きててくれただけでも十分うれしい」
「おじさん……」
そのときすでにイオンの中で影の子の力が動き出していたことなど、当の本人は知る由もなかった。
結局ユルガは戻ることなく、イオンは小間物屋の店主のもとで世話になることになった。山火事が完全に収まってから何度か森に行ったが、ユルガの痕跡は何一つ見つけられなかった。死んでしまったのかも生きているのかもはっきりしない。イオンは、ユルガはきっとどこかで生きていると信じて墓をつくるのはやめた。
イオンは小間物屋でもよく働いた。相変わらず大人しく、控えめな性格のままだったが、どこか自然と周りと馴染んでしまう不思議なところがあるイオンは、店主にも息子のように育ててもらった。
店主には子供が二人いたが、どちらも今は別の街で商売をしていた。奥さんは少し前に亡くなった。そのときはイオンも知っている。
「イオンは本当によく働くな」
「そうですか?」
「そうだとも。おれの息子たちよりよっぽど商売の素質がある。どうだ、イオン。おれの店を継がないか」
店主は夕飯の席で酒を飲みすぎると毎回のごとくこんな話をした。そのたびにイオンは曖昧な返事をしてつきあってやる。どんなことを言ったところでどうせ明日には覚えていないのだが、イオンはそこに店主の本音がみえて、つい曖昧に流してしまうのだ。
本当は息子に家を継いでもらいたい。早く帰ってこい。それが店主の心だった。
イオンはその話をされた日の夜には決まってユルガのことを考えた。顔も見たことのない実の父親よりもよっぽど父親らしいユルガ。もしユルガが自分の家族になったら……。そんな空想に思いを馳せて、眠る直前にはいつも決まって双子のアーシュのことを思っているのだった。
そんな夜を何度となく迎えたある日、イオンは自分の体に起こった異変に気が付いた。
いつものように目覚めてまず顔を洗い、着替えをしようとしたときだ。窓にうっすらと映った自分の体に違和感があった。イオンは気になってそのあたり、横腹のあたりを首を曲げて見てみた。
「なっ……」
そこには大きな模様が浮き上がっていた。痣と思いたかったが、あまりにもはっきりとした色の分かれ方と、触れても痛みなどまったく感じないことで、それが得体のしれないものだと認識させられた。
イオンは怖くなってタオルでごしごしとこすってみたが、模様には何の変化もなかった。すれた肌が少し赤くなっただけだ。
「なんだよ……これ………。こんなの今までなかったのに……」
イオンは慌てて鏡の前にいったが、確認できるのは今のところこの横腹の模様だけだった。体に見慣れぬものができることがこんなにも気持ちの悪いことだとは思わなかった。何かの病か、神のいたずらか。得体の知れないものに自分の体が支配されるような気がして、イオンは身震いした。
場所が場所なので、服を着てしまえば隠れてしまう。イオンはとりあえず店主には黙っていることにした。しばらくすれば消えていくかもしれない。そんな淡い期待もあった。
しかし、模様は消えるどころか段々とその色を黒く変えていき、いつしか刺青〈いれずみ〉のようにイオンの体に定着した。
(なんて姿だ……。まるで負の烙印みたいだ)
イオンは落胆し、模様の部分に手を当ててうずくまった。涙は出ないが心が苦しい。それが自分のことではなく、アーシュのことを考えているせいだと気付く。もしアーシュにも同じような模様ができていたら。あれだけよく似た双子なのだ。体だって同じかもしれない。
アーシュは女の子だ。あの白い肌にこんな禍々〈まがまが〉しい模様が刻まれたら……。
そのとき、一階の店の方でがたんっと物音がした。店主が何かしているにしては不自然な音だった。イオンはすぐに服を整えて下に降りていく。
「……お…おじさんっ」
目に入ったのは帳場の前に倒れている店主の姿だった。急いで駆けより呼びかけてみるが、意識がないのか返事の返ってくることはなかった。
「そんな……、昨日まで普通だったのに」
一人ではどうにもならないと判断したイオンは店を飛び出し近所の家々に助けを求めた。すぐさま人が集まり店主は医者のもとへと運ばれ、離れたところにいる息子たちに伝達が飛んだ。
結局、店主はそのまま帰らぬ人となった。目を覚まさぬまま数日間続いていた微かな呼吸は、息子たちの到着とともに途切れた。まるで最後に会えるのを待っていたかのようだった。
医者や周りの人たちに店主のことについてさんざん聞かれたが、イオンは何も答えられなかった。普段一緒にいてもなんの変化も感じ取れなかったのだ。死因についても医者は病としたものの、詳しいことまではわからない様子だった。
店は上の息子が継ぐことになり、店主の葬儀は静かに執り行われた。しかしその場にイオンの姿はもうなかった。
数年で大事な人を二人も失くしてしまった。悲しみは当然ながらあったが、それとは別に言い知れない罪悪感がイオンの胸を占めていた。自分を大切にしてくれた人がいなくなる。まるで自分という存在がそうさせたかのような……。
イオンはこの町にいることすら許されない気がして、一人きりで、誰にも告げずに出て行った。
それからの暮らしはまるで綱渡りのようだった。
金もなく、住むところもないイオンはあてどなく町を渡り歩いた。しかし、不思議なことにイオンはどこへ行っても最低限の生活を送ることができた。知っている人などもちろんいないし、自分に売り込めるだけの何かがあるわけでもないのだが、不思議と誰かが声をかけてくれる。贅沢な暮らしは望めなかったが、少なくとも仕事と住まいは与えられ続けたのだ。
だが、それと同時に不幸なことも次々訪れた。自分を雇い生活の手助けをしてくれた人たちが、必ず何らかの不幸に見舞われたのだ。そのたびにイオンは居場所を失い次の町へ移動することとなった。
ある者は事故で亡くなり、ある者は突然借金を抱え夜逃げするしかなくなった。最もひどかったのは水害で町自体が大きな被害を受けたときだった。
それだけの被害が周りで巻き起こる中、イオンだけはいつも無事だった。生活そのものはひどい状態のときもあったが、それでも命の危険にさらされたことなど一度もない。イオンは常に助かり、代わりに周りの者が不幸な目にあっていく。
そして、その事実に悩むイオンの身体には、着々と黒い模様が広がっていった。最初の町で初めて見た横腹の模様はそのままで、同じような模様が背中、足、腕と確実に増えていく。
イオンは服の下にそれらを隠してごまかしていたが、ついに五つ目の町で顔にまで模様が浮き出てしまった。鏡で見るたびに泣きたい気持ちになったが、それでもイオンは必死で生きようと進み続けた。
生きて、いつか必ずアーシュに再会する。そのときもしアーシュの身体にも同じ模様があったとしたら、自分だけは受け入れることができる。その思いがイオンを動かし立ち止まることを許さなかった。
ほぼ全身と言っていいほどに模様の浮き出たイオンは、やはり初対面の段階で非常に気味悪がられた。不吉なものだとして近寄らない者もいるくらいだ。しかし、それでもやはりイオンは拾われた。下人としてのきつい仕事だったが、少しばかりの賃金と狭いながらも住むところを手に入れた。
イオンを拾った男はとても良い人とは言えなかったが、一緒に働く者たちはイオンに優しかった。それは単に周りの者たちが幼かったからだとも言える。イオンと共に働く者たちは、子供ばかりだったのだ。イオンもまだ大人の部類には入れないが、それでも一番年長なのではないかと思えるほどだった。
子供は非常に素直だ。最初にイオンを見たときは遠慮もなしに気持ち悪がって、触られることを拒む子もいたくらいだったが、イオンの優しい面を見るにつれて、自分たちの方からイオンに寄っていくようになった。今ではすっかり懐いている。
「イオン、今日はふわふわのパンがもらえる日だよ」
「ふわふわ?なんで?」
日が暮れて仕事場から帰る途中、駆け寄ってきた小さな男の子はイオンの周りをぐるぐる回りながら楽しそうに言った。一緒にいた子たちも、なんでなんで?と興味深々の様子だ。
「今日、おやかた様の買い出しに荷物持ちで一緒にいったんだ。そしたらふわふわのパンがいっぱい売っててね、いっぱい買ってきたんだ」
「へぇ」
いっぱい買ったからといって自分たちに食べさせてくれるとは限らないのだが、男の子がまるで自分の手柄のように自慢げに言うので、イオンはうれしそうに頷いた。
「あったかいスープもあったらいいなぁ」
「それならわたしはりんごが食べたい」
「え、えっ、じゃあわたしはケーキ!」
完全に話がすり替わって子供たちは自分の食べたいものを口々に言い合い始めた。それらが全て並んだら大層なごちそうだ。
「どれもおいしそうだね。でも、みんなで食べたらなんだっておいしいよ、きっと」
言うだけはただなので自由にさせておいてもよかったのだが、あまりに思いが飛躍すると現実の夕飯にがっかりしかねない。イオンは適当なところで子供たちの空想を終わらせるためにそう言った。
「そうだ。イオン、知ってる?」
「なにを?」
「明日ね、この町を光の姫様が通るんだって」
イオンと右手をつないで歩いていた女の子が、下から瞳を輝かせてイオンに教えた。
「光の姫様?」
初めて聞く言葉にきょとんとするイオンを見た女の子たちは、飛びかかりそうな勢いで口々にまくしたてた。
「イオン知らないのっ?」
「西の国のお姫様のことだよ」
「太陽みたいにキラキラしてて、すっごくかわいいんだって」
女の子たちは光の姫の話をしながら明らかに表情が輝きはじめている。それぞれに思い描く姿があるのだろう。
「そのお姫様がここを通るの?」
「うん。倉庫の横で商人さんが話してるのを聞いたんだ」
「でも見れるかなぁ。きっとたくさんの人が集まるだろうし、お仕事してるときだったら見に行けないよね」
「ちょっとくらい抜け出しても平気だろ」
「ダメだよ。見つかったらすごく怒られるよ」
子供たちはどうやって仕事場から抜け出すかを必死に話し合っていたが、結局いい案も浮かばないまま家まで着いてしまった。
西の国のお姫様が通るということだけで、まるでパレードが通るかのように楽しみにしている。そんなにすごいものなのだろうかと、イオンは首を傾げた。ただ、西の国の姫という言葉はイオンの心に響いた。西の国はイオンがかつて住んでいた場所だ。あの丘から眺めていた白い壁に囲まれた大きな城。その中にいたであろう姫とは、どんな人物だろうか。いつかアーシュを連れて行くと、根拠のない約束をしていた幼い頃。もし実現していたら会えたかもしれないお姫様。
イオンはふっと笑ってしまった。あれだけ目を輝かせて子供たちが語ってくれたというのに、姫様に興味が湧いているかと思いきや結局アーシュのことを考えている自分がいる。時間が経つほど、薄れるどころか強くなる思いに、時々自分でもうんざりすることがあるくらいだ。
そろそろ動き出すときなのかもしれない。いつか会えると信じるだけの今までに終わりを告げ、探しに飛び出すときが迫っているのだろう。まだはっきりと覚悟を決めてはいないものの、このまま思い続けていたらいつかその時を迎えることは明白だった。
子供たちは夕飯の席につく直前まで明日どうやって仕事場から抜け出すかを考えていたようだが、その日の夕飯のテーブルに男の子の言っていたとおりのふわふわのパンと、チキンのたっぷり入ったスープにりんごまで並んだことで、すっかり気を良くして光の姫のことなど忘れてしまったようだった。
明くる日、イオンは子供たちを送り出した後、一人別の場所に向かって家を出た。朝方、親方が少し苛々した様子でイオンに仕事を頼んできたためである。
通常ならイオンになど頼まなくとも用が足りるのだが、今日に限っては時間がないのだという。理由はあの光の姫だ。その一行が通るせいで町が人で溢れかえり、用事を済ませるのに一苦労するらしい。
「ったく、神様じゃあるまいし、拝んだって何ももらえやしねぇのに」
表に出る間際、親方がぶつぶつ言うのが背中に聞こえた。
イオンは布でしっかりと体を覆い、だいぶ高くなった太陽の光に目を細めながら歩き出した。ここに着いた頃には顔にまで黒い模様が浮き出ていたため、フードを深く引いて顔まで隠すようにしなければ白昼の町を堂々と歩くことはできない。見られたからといって何かあるわけではないのだが、異様な姿は見るものに嫌悪を与え思いもよらない問題事を起こしかねない。すみやかに用を済ますためには、こっそりと人影に隠れて移動することが一番だった。
渡された地図を手に通りを右へ左へと進んでいく。さほど広くないうえに、入り組んだ路地などがあまりない町だ。親方の簡単すぎる地図でも十分たどり着けるが、イオンは少しもたついていた。仕事場以外、あまり表に出ることのないイオンには初めて見る光景ばかりなのだ。しかも親方が危惧〈きぐ〉していたとおり人が多い。皆そわそわと、用もないのに表に出てはしきりに光の姫の話をしているのだ。イオンが今通っているのは家々の並ぶわりと狭い道で、光の姫の一行が通るとは到底思えないような場所なのだが、それでも目に見えて騒がしい様を思うと、実際通る道の辺りはどれほどのものなのかイオンには想像もできなかった。
(親方じゃないけれど、本当に神様でも通るんじゃないかと思うな)
イオンは目印だと言われていた、古びた靴の絵の描かれた看板がぶら下がる家の横の路地を入っていった。建物の影に入ると急に薄暗くなる。イオンは体中の模様と共に影の中に溶け込んでゆくような気がして、ぶるっと身を震わせると早足で目的の家まで向かった。
ところどころ色の剥げ落ちた戸の前にたどり着き言われたとおり三回叩くと、中から額に傷のある大きな男が顔を出した。ものすごく強面だが、親方も似たようなものなので特段びっくりすることもなく、イオンは使いで来たことを告げ約束の品を受け取った。男が渡してきたのは束ねられた書簡だった。それを持ってきた布で包んで帰ろうとしたとき、突然家の奥の方からすさまじい人々の歓喜の声が湧きあがって聞こえてきた。
男の強面にはびっくりしなかったイオンだが、これにはさすがにびっくりし、思わず男の体の隙間から家の奥を覗いてしまう。それを見た大男はふんっ、と鼻を鳴らして呆れた声で言った。
「俺の家じゃねぇ。家の裏が騒がしいんだ」
言われてよく聞くと、確かに家の中ではなく全体的に家の裏側の方から声は押し寄せてくる。
「この裏はちょうど町を横断する大通りになってる」
「もしかして、噂のお姫様が?」
「それしか考えられねぇだろうな」
イオンは見てみたいという興味にかられるどころか、妙に冷静になっていく自分に驚いていた。こちらもさほど興味がないらしい男に対し、頭を下げて帰り道を歩き出す。戸の閉まる小さな音をかき消すほどに、町全体が雄叫びのような歓声で包まれていた。
人々の心を揺さぶるほどの存在。同じ人間に生まれていながら、忌み嫌われるような容姿の自分と光に包まれた姫君。なぜそんなことが起こるのだろうか。たとえ神様がいたずら好きだったとしても、少々やり過ぎではないだろうか。
(西の国の姫様は東の町でさえあんなに歓迎されている。きっと西の街や城ではもっと崇拝されているんだろう)
ただ眺めるだけだった幼い頃には、西の国の姫の話は聞いたことがなかった。森の中にはそれを語ってくれるような人物はいなかったが、北の村でも一度も聞いたことがない。非常に勇敢だという王様の話は時々聞いたことがあったが、それ以外は覚えていないほどに王族については語られていなかった気がする。
(アーシュが知っていたらすごく会いたがっただろうな)
イオンは昨日瞳を輝かせて熱く語ってくれた女の子の顔を思い出す。自分と同じだけ歳を重ねているアーシュだが、間違いなくあの女の子たちと変わらない勢いで見てみたい!とイオンに迫ることだろう。
路地を進み通りへ近づくにつれ人々の歓声が大きくなってきた。足取りが重くなる。イオンはなんとか人混みを避けて家に帰りたかったのだが、路地から見える通りにはこれでもかと人がひしめき合っている。光の姫の一行が通っているであろう道からは少し距離があるのだが、それでもなんとかして見ようとする人々でごった返しているのだ。
イオンは悩んだ末、来るときに通った道を使うことを諦め路地を引き返した。この騒ぎが落ち着くまで待ってから帰るのもひとつだが、それではわざわざ親方がイオンを送り出した意味がなくなってしまう。早く帰らないと何を言われるかわからない。
イオンは家の前に積み上げられていた木箱に目をつけると、ひょいひょいっと軽やかに上り始めた。皆見物に夢中のようで路地には誰も出ていない。それをいいことにイオンは他人の家のベランダに飛びついてよじ登ると、そこからさらに壁の溝や突起をうまく利用して屋根まで上ってしまった。
実のところ、これくらいのことはイオンにとってなんでもない。もともと俊敏だったが、生きていく過程で特別練習したわけでなくとも軽やかな動きが身についていた。来るときもこうして屋根の上を伝ってくれば、人々をよけながらうろうろする必要もなかったのだが、なにせ今は昼である。人様の家の屋根を拝借して駆け抜けるには、あまりに目立つ。イオンはもう少し離れた場所までと決め、身を隠すように低い体勢を取りながらこそこそと移動しはじめた。
屋根に上ってちらりと視線を通りに向けると、男も女も、大人も子供もわからないほどに人が道の両脇に並んで、口々に声を張り上げながら揺れ動いているのが見えた。町を横断する広くて長い道には、ゆっくりと歩みを進める姫様の一行が、装飾品をきらきらと輝かせながら流れてゆく。農家の小屋にいるものとは別物のような立派な体躯の馬が何頭も通り過ぎ、そこに跨〈またが〉る兵士も光を浴びて誇らしげに見えた。
興味がないと思っていたのに、いざ見てしまうと心が惹きつけられる。イオンはそこから動くのをやめ、屋根に張り付くようにしてしばし眺めた。
右の方向に一台の馬車が見えてきた。二頭の白馬がひく馬車は、これまた白く、蔦を模った装飾は金色に輝いて眩しく光っている。おそらくあの中に姫がいる。誰もがそう考えたことだろう。しかしイオンは予想を反した光景に度肝を抜かれて思わず口を開けた。
なんと、噂の姫様は自ら馬に跨っていたのである。馬に乗るための身軽な服を身に着けることもなく、まずそんな恰好で馬に乗る者はいないだろうという裾の広がったドレスを纏っている。傍にはお付きの者がしっかりといるし、馬の歩みも非常にゆっくりとしていたが、それでも一国の姫君がきらびやかなドレスをひるがえして立派な馬に跨る姿はなかなか見られるものではない。
(すごいな。この町のためにわざわざ馬車を降りたのか……)
まさか馬車はお飾りというわけではないだろう。移動中は使用しているが、この町を通過する際わざわざ降りたのだと思われる。自分の姿を見るために集まった人たちに対するサービス精神とでもいったところか。それにしてもただ降りるだけでなく馬に乗るとは、なかなかおてんばな姫様である。
光の姫。そう呼ばれている所以〈ゆえん〉が、近づいてくるにつれイオンにも理解できた。馬に跨りにこやかな微笑を浮かべる姫様は、色が白いというレベルを通り越して白く輝いて見えたのだ。太陽の光すべてを集め己の輝きに変えているかのような姿は、とても美しく、だが人間離れしていた。
なんとも不思議な光景にイオンは釘づけになり、自分の持つ真っ黒な色とは対照的な真っ白な色を持つ姫をまじまじと見つめた。
そのとき、ふいに光の姫が顔を上げた。ばちりと視線が合う。
「……えっ………」
信じられないものがお互いの目に映った。
光の姫は微笑を崩すことのないまま、目だけはしっかりとイオンをとらえ、対するイオンは口をあんぐりと開けたまま、状況を把握しようと必死に見つめる。
「……えっ………えっ?……アー……」
届くはずのない声を出しかけてイオンはバランスを崩し、次の瞬間には光の姫の視界から消えた。
体のいたるところが軋むように痛かった。重い溜息が出る。
情けなくも屋根の上から転げ落ちたイオンは、ベランダの手すりや外壁についた灯りなどにぶつかりながら落ちたため、なんとか大事を免れていた。命は助かったものの、打ち付けた衝撃は夜になった今でも引くことはない。
親方のところまで運んでくれたのは、あの大男だった。音を聞いて出てきた男は、空から人が降ってくるというあり得ない事態にさすがに驚いた様子を見せたが、イオンが呻〈うめ〉きながらうずくまっているので、仕方なく担いで運んできたのだ。
使いで出されたはずが逆に手間をかけてしまい、当然ながら親方にはこっぴどく怒られた。その結果が今である。イオンは夕飯にもありつけず、一人家の外に締め出されていた。
だが、そんなことを気にするよりも、イオンの頭は光の姫のことでいっぱいだった。見間違えではないはずだ。相手もしっかりと自分を見ていた。でも、それならばなぜ驚いた顔をしなかったのか。名前を呼ぶこともなかったのか。
(探していたのは、僕だけ?会いたかったのは、僕だけ……?)
光の姫。西の国の王族。結びつかない現実がイオンを混乱させる。間違いだったのか。絶対に間違いではないと言い切れる強い思いがあったが、証明できるものはなにもない。いくら夜風で頭を冷やしても、わからないことばかりだ。
また重い溜息が出た。
体も重い。心も重い。ずっと思い描いていた出会いは、こんなものではなかったはずだ。わからない。どうしても、わからない。
ぐるぐると行きつく先のない考えにとらわれていたイオンは、背後に忍び寄る気配に気付くことができなかった。暗闇からふっと手を伸ばされて、はじめて危機を感じ取る。
イオンはとっさに体をひねり、その手を逃れた。打ち付けた節々が悲鳴を上げていたが、構ってなどいられない。ぐっと歯を食いしばり、イオンは駆けだそうと身を屈めた。
しかし、影はイオンの体をやすやすと捕まえると、その口を塞ぎ、抵抗する間も与えず手とうで意識を奪ってしまった。倒れ込む体をしっかりと受け止め、影は軽々とイオンを抱きかかえると姿を消した。