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アイラブ桐生 1~3

作者: 落合順平

アイラブ桐生

(1) 序章・「やんちゃ」時代の想い出





 北関東の山懐にいだかれた織物の町・桐生市は、

私の青春時代がいまも静かに眠っている町です。



 「西の西陣、東の桐生」と歌われて

絹織物の町としてたいへんに隆盛を極めた、という古い歴史も持っています。

といっても、それはもう半世紀以上もむかしの話です。


 八木節のリズムと機織り機械が作り出すリズミカルな騒音は、

桐生では、ごく当たり前といえる日常の音であり、生活そのもののリズムです。

そんな桐生で、「やんちゃ」にすごした青春時代について、

少しづつ、書いてみたいと思います。




 私が生まれ育った桐生市は、

ほぼ三方をきっちりと山に囲まれています、いわゆる盆地に近い地形です。

しかも狭い市街地に、2本の河川が、東と西をそれぞれ流れます。

扇のように山裾から広がり始めた市街地は、10キロもいかないうちに

北から流れてきた渡良瀬川に阻まれてしまいます。

東は山懐に源を持つ、桐生川によって南北に断ち切られます。




 高い建物は見当たりません。

特に、市街地作りの基点とされた桐生天満宮付近には、

昭和初期から大正にかけて建てられた木造住宅が、約400軒のうちの

半数近くを占めています。

桐生の下町を象徴する細い路地が、ここにはたくさん残っています。

人一人がやっと歩ける細い路地がたくさん交差をする街、

それが私の桐生です。




 三角屋根で、「のこぎり屋根」と呼ばれた独特の形をした織物工場も残っています。

かつては織物の町として、全国から「おり姫」さんたちがたくさん集まってきました。

おふくろもその一人で、16歳のときにはもう一人前の「織姫」として

この下町で朝から夜中まで働いていたそうです。


 桐生はまた、 「桐生,着道楽、男のおしゃれ」と歌にもあるように、

機屋はたやの旦那衆が、着飾り、かつよく遊んだ町です。

絹産業をささえた機屋はたやの三角屋根の工場は、全盛期には数百に及んだと有ります。

其れを物語るように今でも市内の各地には、既に使われていないのこぎり屋根の工場が

200近くも残っています。




 織物の町には、男衆の働き場所はありません。

働き者の織り姫たちに支えられて、男たちは遊びにうつつをぬかします。

地元の名士や旦那衆たちが、芸妓をはべらかせ華やかに遊んだ北関東いちと言われた、

花街がここの一角に有りました。




 それが「仲町通り」と呼ばれる歓楽街です。

驚ろくべきことに歓楽街の入口には、名士たちのロータリークラブが本拠を構えています。

事業に成功して、地位と名声を勝ち取った地元経済界の男たちの社交の場、

「桐生倶楽部」が、地中海風の洋式建築で、デンとそびえています。

飲み屋街にはまったくもっての不釣り合いです。




 この路地を、桐生芸者も歩きます。

置き屋が一件だけあり、10名近い芸妓が籍を置いてます。

日中を浴衣姿の芸妓が歩き、正装をした男たちが黒塗りの乗用車で

「桐生クラブ」に乗りつけて豪勢な食事をしてから、日暮れと共にネクタイを緩め

割烹や小料理屋が立ち並ぶ、飲み屋街の路地に消えて行くのです。



 それが仲町という歓楽街の、ごく当たり前の光景です。

この街の人々が織りなした古い歴史と、長年続いてきた機織りの機械の音が

すべてそのまま、私の「ゆりかご」でした。





 1970年代に入ると、経済が急速に成長を始めます。

田舎の町にも、勢いに乗ってさまざまな使い捨て文化と、大量消費と言う波がやってきました。

学生と高校生の多い桐生には、学生運動や安保闘争などという時代の波までも、

ついでに押し寄せてきました。



 平穏に暮らしてきた若者たちの間にも、こうした時代の波が静かに浸透をはじめました。

やがて、戦争を知らない世代が、安保闘争に立ちあがります。

政治の深淵をよく理解しないままに、若者たちが熱病のように首都・東京へ

連日、抗議のデモ行進に押しかていくようになりました




 そんな時代を背景に、私の青春の「放浪」が始まります。

最初のやんちゃは、「家出」です。

しかしそこの説明に至るまでに、まず私の初恋の話から始めたいと思います。

私にとって欠かせない、永遠の人、レイコをまず紹介したいと思います。






アイラブ桐生

(2) 序章・ 「天満宮」から始まる街




 桐生は3方向を山に囲まれて、盆地の様な地形を持つ街です。

扇のように広がっていく市街地の真ん中を、

どこまでも直線で貫ぬいていく「本町通り」が背骨のように走ります。

この背骨を中心にして、さらに碁盤の目のように、主な通りが東西へ交差をします。

これらの間をつないでいるのが、狭い軒下を縫うように

曲がりくねりながら続くていく、桐生独特の路地の数々です。


 


 本町通りの出発点に、桐生天満宮が鎮座をしています。

ここが、桐生の町作りの出発点といわれています。

天満宮の鳥居前は本町一丁目と呼ばれ、ここから市街地が、

南と東西へ向かって飛び立つときの鳥のように、その両翼をひろげます。





天満宮まで直進してきた本町通りは、この鳥居の手前で右へ迂回をします。

隣接する群馬大学の敷地の脇を通り抜け、さらに、梅田のダムがある最奥地に向かって

ひたすら山間を北上します。

本町通りにかわってその延長線上に現れるのは桐生天満宮の石畳です。



 この界隈には昭和初期からの木造家屋が、たくさん密集をしています。

織物の町・桐生を象徴する独特の三角屋根の織物工場も、かなりの数で残っています。

商店街の中心となるのは、本町五町目です。





 商店街の中心地に当たる、そこの交差点から、

一筋東へ入ったところに、桐生最大の歓楽街 「仲町通り」があります。

入口には(昨日、紹介済みの)名士たちの社交の場、「桐生倶楽部」がそびえています。

「仲町通り」が名士や旦那衆、商工業の関係者たちが好んで使った歓楽街とするならば、

もうひとつ、国鉄桐生駅のすぐ東に、庶民たちの憩いの場とも呼べた、

庶民的な「盛り場」がありました。

 


 「カニ川通り」と呼ばれています。

「カニ川」は、織物工場の動力として水車を回すために、渡良瀬川から

市内に引き込まれてきた用水濠のひとつです。




 呑んで遊べる、準・赤線地帯とも呼べた場所でした。

庶民たちが中心で、気安くも呑めてかつ遊びもできた飲み屋通りだったようです。

国鉄両毛線・桐生駅のすぐ東に位置していて、その入口には交番もありました。

用水濠の河川の上に、桟敷を敷いただけの簡易な作りのお店が、肩を寄せ合うようにして、

たくさん並んでいたのを今でも覚えています。




 小学生の頃に、よくオヤジを迎えに行きました。

お店の(若い)お姐さんたちから,飴やお菓子、お土産などをよく貰いました。

おそらく父子ともに、よく顔を出した『常連組』だったと思います。






 「坊やも早く、遊びにおいでね。」




 あのときの、あの言葉・・・・

しかしあの当時、小学生だった私には、お姐さんのその真意は

まったく、理解することはできません。


 「あと、もう少し早く生まれていれば・・・」




 まったくその通りでした。

『吉原』などの公娼制度が存在した日本では、娼婦の廃止を求める運動が明治の初期から、

自由民権関係者やキリスト教団体などによって『婦人の解放』を旗印に、

根強くすすめられていました。

敗戦後の1956年(昭和31)に、ようやく「売春防止法」が制定されて

半世紀以上も経た後に、ようやく実現したという歴史をもっています。





 女性の地位向上と確立をその第一目標としてきた

この「娼婦廃絶」の運動は、実は群馬県から発生をしています。

戦後民主主義のもと、ついに「赤線地帯の廃止」と、「売春防止法」を生み出しました。

本当に、もう少し早く生まれていたら、良い思いが出来たのに(笑)



 さて、私が生まれて育った

桐生市の概略の紹介は、このへんで一度締めくくります。

前置きはこのあたりでさておいて、いよいよ本題にはいりましょう。




 桐生では、日光国立公園まで続く山裾が近くなった北部一帯のことを、

昔から「山手」や「山の手」などと呼んでいました。

本町通りと桐生川に挟まれた東一帯が、煩雑な庶民たちの下町と呼ばれました。

これに相対して比較的ゆったりと家を構え、閑静な住宅街の雰囲気があったことから

本町通りと山の手通りに挟まれた一帯のことを、

下町からは畏敬の念も込めて、そんな風にも呼ばれていました。



 レイコは山の手の出身の『お嬢さん』でしたが、

既にお分かりのように、私のほうは完璧に、正真正銘の下町生まれです。


 





アイ・ラブ・桐生

(3) 序章・ 初恋は、あくまでもほろ苦く




 山の手通りは、JR桐生駅が基点です。

前橋市と桐生を結ぶ私鉄の上毛電鉄・西桐生駅を経由してから、

市内西北の山裾沿いを、時計回りに桐生天満宮と、市内循環バスの車庫がある

天神町まで続いていく環状の生活道路のひとつです。




 途中には、市内を一望できる「水道山」へ登る道が有り、

坂道には名画を集めた、小じんまりとした美術館があります。

斜面に造られた動物園と遊園地へもこの山の手通りから分岐をしていきます。



 古くから市民に親しまれてきた通りです。

すぐ近くまで迫ってきている山裾と、その周辺には

散策にはうってつけの、景観が沢山点在をしています。

吾妻山あずまやまへ向かう本格的な登山道も整備されていますので、

休日や行楽の季節にはたくさんのハイカーたちがやってきて、

いつもと違う賑わいぶりを見せてくれます。





 山の手通りの平日の昼は、静かそのものです。

朝と夕に学生服とセーラー服が頻繁に往来をしますが、

あとは、人通りの乏しい静かな路に変わります。



 私の初恋のお相手、M子さんは、この通りに面した女学校へ進学をしました。

山の手通りは、JRと私鉄の二つの駅から降りた大学生と、

高校生たちが、ともに通学のために歩きます。




 M子とは、幼な馴染として普通に付き合いました。

M子もレイコも、同じ山の手のお嬢さんです。

お互いに幼い時からの遊び友だちで、おっとりしているM子とは正反対に

レイコはいつも元気にはしゃぎ回る女の子でした。





 桐生天満宮の周辺に住む女の子たちは、

M子とレイコをはじめとして、7~8人でひとつの仲良しのグループを作っていました。

のちに湯西川へ行って芸妓修業をはじめる清ちゃんも、小学校3年生くらいから

いつのまにか、このグループに混じって遊んでいました。

また後になってから、桐生ではじめてのゼロ歳児保育園「なでしこ」をたちあげる

女子高卒業の四天王たちも、やはりこのグループの中に居ました。



 あまり男の子達を寄せ付けない、この(少し元気すぎるグループに)

なぜか私だけが、好意的に受け入れてもらえました。

そのきっかけは、ちょっとした武勇伝からです。

いつも天満宮の境内で遊んでいたこのグループへ、別の小学校の悪がきたちが

たまたまからんだ事が有りました。




 稽古帰りに、其れを見つけ、

得意の柔道で、2、3人を投げつけて窮地を救った覚えがあります。

以来、ただのボディガードとして指名をうけることになりました・・・・

ただし、このことが後になって父親に知られ、たいへんこっぴどく叱られました。

「おなごなんぞを助けるために、柔道を覚えさせているわけでは無い。

力や技を使う前に、もっと頭を使わんか、この馬鹿ったれ。

第一、素人を相手に柔道の技など掛けてなんとする。修業が足らん、このうつけもの!」

うちのおやじは、常にこういう男です。



 それ以降、特になにごともなく中学にすすみ

それなりに、異性に関する興味も出て来てこの女子のグループ内でも

男子に関する噂がチラホラと始まりました。

レイコが誰それからラブレターをもらったということで、

有頂天になって喜んでいたのも、丁度この頃の出来ごとした。

機嫌を良くしたレイコが、

『あなたも誰かとつき合えば、あなたはやんちゃだから、

M子みたいなタイプが似合いだわ」と勝手に世話をやきはじめました。

それが中学2年の時のことで、こうして私はレイコの仲介で

M子と正式に付き合うことになりました。






 順調に(?)交際をすすめていましたが、

お互いの高校進学を機に、会う回数も一緒に居る時間も極端に少なくなり始めました。

私にしてみれば、柔道と演劇と言う相反する二つのかけもちの部活動で、

多忙を極めただけの話ですが、共通の友人であるレイコがまた、

ここでも気を揉み始めました。



 高校へ進学してから2カ月ほどたったある日、レイコから電話がかかってきました。

「至急の用事があるから、明日の通学時に、

桐生駅の北口にまで来て。」と、命令半分に呼びだされました。

身に覚えが無いまま、言われた通りにわざわざバスを乗り換えて、

桐生駅の北口へ出向きました。

バス停には、笑顔のレイコと、少し緊張気味のM子の二人が立っていました。




 「別にこれという、用事はないけれど久しぶりでしょう。

 たまには、3人で歩きましょう。」




 というだけで、そのくせレイコは二人を置いてさっさと先を急ぎます。

ちょうど通学の時間帯ということもあって、それぞれ電車が着くたびに、

たくさんの高校の制服が、一斉に山の手通りを歩きはじめます。

なるほど、これなら目立たないと言う訳か・・・

そんな風に納得をして、それから三人で歩く日課が始まりました。




しかし三人ともが、それぞれ別の高校です。

そのうち、いつのまにかレイコ姿が消えてしまいました。

制服が夏服に変わるころには、あたりまえのようにM子と二人きりが定着をしました。

中学時代から高校にかけての私は、勉強はそこそこに放課後ともなると、

柔道部と、演劇部をかけもっていた文武両道の美少年でした!



 そこのあなた。今、クスッと笑いましたね!




 特に柔道は、

「どうせやるなら、本格的に徹底してやれ」

というオヤジの武道好きと、独自の教育方針のために、

汽車で40分もかけて、県都・前橋市の道場まで通う羽目になりました。

当時まだ、小学校の3年生だったと思います。

柔道着を担いで、一人で数年間にわたり前橋の道場まで通い続けました。

柔道は、礼に始まって礼に終わる武道ですが、私の初恋もまた、

いつの間にかはじまったものの、柔道によって終わる事になりました。





 せっかくの、通学時の山手通りでの語らいも、1年も持たずに終わることになります。

私の柔道熱が、埼玉県にある名門の強豪道場へと飛び火をしまいました。

柔道のみ選択して、埼玉にある伯父の家へ居候をしながら、

高校生活の残りの2年間を、柔道三昧で過ごすことになってしまいました。




 無事に卒業をして、やっと桐生に戻ってきたころには、

すでに初恋のM子さんには、(留守中に)別の男の子が存在をしていました。

この時にまた・・・

仲介役のレイコが、誕生日用に買ったプレゼントを届けてくれることなりました。

小学校に入る前から、初恋のM子さんと、

このおせっかいなレイコはいつも仲良く一緒に居ます。



 やがて短大に進学したレイコとは、そのまま音信不通になりました。

風の噂では、保母になると決めたようですが

楽器演奏が大の苦手で、ピアノに苦戦しているようだという、

そんな噂も聞きました。



 (へぇ~、あいつ、保母志望なんだ。)




 

 私のやんちゃ時代の物語は、実は、この「おせっかいな」レイコと、

偶然に数年ぶりに、再会するところからはじまります。





 



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