家族
「先輩には、ほんと迷惑かけてばっかりですね」
後輩の水木と度々訪れるいつもの居酒屋。彼女の失敗を先輩である自分が泥をかぶった時、決まって彼女は奢らせてくださいと私をここに連れてくる。当然立場や給料から本当に奢ってもらったことは一度もない。ただ後輩のケアとして少々面倒ながらも付き合っている、いわば儀式の一環だった。
「あそこは少々癖があるからね」
先方への再見積もりの提出が少し遅れた。言葉にすればただそれだけのことだ。
決して期日に遅れたわけではない。ただ期日ギリギリの夕方であったことと相手が悪かった。小うるさいクライアントからすれば彼女の対応は向こうの言う”誠意”の足りなさという認識に繋がり格好の餌食となった。
私が同行して結果的に少し値下げする結果となってしまったが、要は難癖をつけて若い女性を困らせて楽しむ下衆親父の戯れだ。仕事でなければ考えるまでもなく縁を切るような相手だが、会社として利益をもたらす贄だと思えばまた見え方は変わってくる。そうでも思わなければやっていられない。
「私、営業得意だと思ってたんですけど、向いてないかもですね」
これ見よがしに溜息をつきながらグラスを空ける。
「ああ、向いてないよ」という本音の代わりに「これぐらいのミス俺も含めて皆あるよ」と建前で濁す。いつもの事だ。本当はそれなりに自信があるのは見ていてわかる。だからこそ褒めて欲しい、認めて欲しいという欲求がありありと透けて見える。
ーー若いな。
一回りも違えば性格や見た目が若々しいのも当たり前だ。異性としての観点からすれば水木は美人の類だ。横に連れて歩いているとすれ違いざま、あからさまに視線を向ける男は多い。そんな女が今仕事終わりの流れとはいえ、目の前で無防備にシャツの第一ボタンを外し酒に酔いながらくだをまいている姿を見れば、私はきっと羨望と嫉妬の的だろう。
「あまり飲み過ぎるなよ」
「その時は家まで送ってくださいよ」
「大人なんだから一人で帰りなさい」
「私といるの嫌なんですか?」
「論点をすり替えるな」
「先輩こそはぐらかさないでください」
わざとらしく頬を膨らませる様があざとく古臭いなと思わず苦笑が漏れる。絡み酒はいつものことだが今日は普段よりもしつこい。スマホをちらっと見る。私も暇ではないのだ。
「そろそろ出るぞ」
席を立ちなかば強引に会計を済ませる。ちょっと待ってくださいよと慌てる水木の声が後ろから聞こえるが構わず店を出る。
「待ってくださいって」
ぐいっと腕に水木が絡んでくる。
「まだ帰りたくないです」
水木が私の二の腕に顔を埋める感触がする。
「水木。やり過ぎだ」
「分かっててやってます」
「じゃあ離れろ」
「先輩だって分かってていつも一緒にいてくれるじゃないですか」
どうやらこの女はひどい勘違いをしているらしい。
「不倫でも私構いませんから」
ぎゅっと水木の腕を掴む力が強くなる。仕事中でも私の左手にはしっかりと指輪がはまっている。水木が気付いていないわけがない。これまでも飲みの最中「奥さんに怒られますよね」なんてわざとらしく口にしてくることが何度もあった。その度これも仕事だからの一言で終わらせてきた。
もちろん、彼女と一線を超えるような関係は持っていない。いくら世間的に彼女が美人だろうがスタイルがよかろうが私にとっては何の魅力もない。故に仕事の為と思っての儀式が無駄な時間の浪費だったと心が冷えていく。私は水木から腕を引き抜く。
「どうやら君に私はもう必要ないらしい」
水木がぽかんと情けなく口を開く。たまらなく腹の立つ醜い顔だった。
「今後自分のミスは自分でケリを付けられるようにするんだな」
営業は得意なんだろと付け加える。こんなくだらない女にフォローは不要だ。
「私には帰る場所があるんだ。君と違って」
見せつけるように彼女の前に左手をかざし、その場を後にする。まだ追いかけてくるかとも思ったが、さすがにそこまで馬鹿ではなかった。
『今日も遅くなるの?』
スマホに映る彼女からの連絡に胸が痛んだ。仕事とはいえやはり女と関わるべきではなかった。
『ごめんね。今から帰るよ』
すぐに既読とお疲れ様の言葉が返ってくる。
ーー早く帰りたい。
私には帰るべき場所がある。それがたまらなく幸せだ。
*
「ただいま」
「おかえり」
穂波が今日も出迎えてくれる。愛しい娘。遅くに帰っても必ず出迎えてくれる。年頃の女子には嫌われるものだと覚悟していたが、今のところ穂波にそういった空気はない。嫌われようが娘を育てることに変わりはないが、好いてもらえている今をもっと大事にするべきだろう。
「父さん帰ってきたよ」
穂波がリビングに戻りながら声を掛ける。
「おかえりなさい」
入れ替わるように妻がやってくる。そのままふわっと私に抱きつき、流れるように唇をさっと奪われる。
「お疲れ様」
既に目元は淫靡なものに変わっている。仕事での疲れはかき消え、思わず心の奥底の本能が疼いた。
「ただいま、美穂」
たまらず私も妻を強く抱きしめる。
長く黒い髪がさらさらと指を通っていく。薄い丸眼鏡が今日もよく似合っている。




