後篇
前後篇お付き合いいただきありがとうございます。
こちらは前篇の真実を描いたものなので、未読の方は一つ前のお話もどうぞ!
アースグランツは理解していた。
胸の奥に沈殿する重みは、幼い頃から背負わされてきた「家」という巨大な影そのものだ。
「私が判断を誤れば、国が、民が、今より一層困窮する」
静かな書斎に、少年の低い声が落ちた。
窓の外では、晩冬の曇天が領地を覆い尽くし、日差しは弱く、さざめく風だけが冷たく吹き抜けていく。
アースグランツの生まれは、大国スウィーグ王国の中でも最も高貴とされる家系──ダフタント公爵家。
その名は建国以来、王家と並び立つほどの歴史を刻み、かつては他国から王族が降嫁してくるほど栄華を誇った。
かつての豪奢を思わせる重厚な壁飾りや、精霊紋が刻まれた家具が並ぶこの部屋でさえ、今はどこか冷えた空気が漂う。
それは、家の礎であった豊かさそのものが揺らいでいる証だった。
この地に住まう地の上位精霊の加護──それこそがダフタント家の力を支えてきた。
しかし、その加護だけでは凌げないほどの危機が迫っている。
今、公爵家には幼い頃から次期公爵として厳しく育てられ、弱冠十三歳にして全課程の教育を修了した秀才、アースグランツがいる。
彼が未来の安泰だと信じる領民も多い。
──だからこそ、彼はその期待を裏切れない。
だが少年の心は、領民の声援とは裏腹に、絶え間ない責務と焦燥で締めつけられていた。
来年の学園入学までに、婚約者候補を三人までに絞らなければならない。
本来ならば未来の政略を考える重要な案件だが、今の彼にとっては重荷でしかない。
「父上──公爵は手を尽くされているが、
流石に今年は冬を越せない民が出てくるだろう。
はぁ……。こんなことをしている暇はないというのに」
机に片肘をつき、こめかみを押さえる。
年齢に似つかわしくない深い溜息が、室内に滲むように広がった。
数年前から世界を襲う未曾有の大飢饉──精霊王の気まぐれ。
その名の通り理由も終わりも見えず、各地から食糧不足の悲鳴が届く。
一度政策を誤れば、その土地は立て直す間もなく息絶え、今日もまたどこかの領地、どこかの小国が静かに終わりを迎えたという報告があがってくる。
アースグランツもまた、それをただの噂話として聞き流せる年齢ではない。
数字として、政策の失敗の例として、冷徹に学び、そして恐れ続けてきた。
だからこそ、各国が国内婚へと舵を切ったのも理解している。
今は力を外に散らす時ではなく、血筋と資金と精霊加護を国内で循環させ、地盤を固め直す時期なのだ。
それは当然ダフタント公爵家にも適用され、アースグランツの婚約者選定もできるだけ身内からという厳しい条件がつけられた。
机の上に置かれた羊皮紙──婚約候補者のお品書き。
大っぴらには公表されないそれは、ダフタント公爵家のみに伝わる「婚約者選定のための調査書類」の一つだった。
分厚い羊皮紙が束ねられたそれは、公爵家の執務机の上に置かれると、まるで重しのように空気まで沈ませる。
選ばれる者も選ばれない者も、皆が密かにその到来を気にする──そういう種類の書類だ。
ちなみにダフタント公爵家側は、その中から選んでも選ばなくてもいい。
あくまで、部下が「こういう人がいますよ」と提示するための補助資料にすぎない。
しかし、お品書きに名前が載るだけで令嬢側には多少の箔がつく。
たとえ選ばれなくとも名誉であり、家の威光の証にもなる。
だからこそ、これには多くの視線と思惑が絡みつく。
アースグランツは、朝の淡い光に照らされながら、ぱらぱらと今朝方届いたお品書きをめくった。
紙のこすれる乾いた音が、静かな室内に小さく響く。
「セルダ、これで全てか?」
「はい。そのように伺っております」
側近セルダの落ち着いた声が背後から返る。
彼女の声はいつも冷静で、主であるアースグランツの思考を邪魔しない柔らかさがあった。
父や祖父の代にはこの国の姫や他国の王女の名もあったらしい。
だが、今の時代を反映するように、彼に送られた名簿は堅実で慎ましい顔ぶれが揃っていた。
精霊王の気まぐれによる大飢饉の中、華やかな政略はすでに過去のものとなったのだ。
もっとも、アースグランツはその規模に不満を抱くことはなかった。
そもそも想いを寄せる相手がいるわけでもなく、ただ淡々と家名の並びを文字として受け止めていた。
紙面に並ぶのは、近年交易を盛んに行う分家、代々公爵家に仕えている寄り子の家、叔母が嫁いだ侯爵家……。
いずれも茶会などで面識があり、各当主との関係も良好な家ばかりだ。
アースグランツは、さらさらと迷いなく上の三人に丸をつけた。
その様は、まるで領地の税収表に印をつける時と変わらない、冷静で事務的な手つきだった。
彼にとって婚約者選びは、情よりも責務に属するものなのだ。
丸をつけ終えると、彼は紙束をセルダへと手渡す。
「書類を父上の執務室に」
「よろしいのですか? これは、ご自身の唯一を決めるための……」
セルダのオレンジブラウンの瞳が、わずかに揺れた。
普段は理知的で影のないその瞳に迷いが見え、アースグランツはほんの少しだけ胸に重さを覚える。
だが彼はそれを表に出さず、淡々と言葉を返した。
「構わん。誰も領地を潤せる程の精霊と契約していないし、繋がりを重視している婚約なのだろう?
適当に上から三人選んでおいた。顔合わせの日程も組んでおいてくれ」
その言葉に、セルダのまつ毛がかすかに震える。
制服の端正な縁取りも、きっちりと結い上げられた髪も、すべて普段どおりなのに──彼女の内側で小さな動揺が広がったのが、アースグランツにも伝わった。
けれど、その揺れはほんの一瞬。
すぐに、彼女はいつもの穏やかで冷静な表情へと戻った。
「……承知いたしました。行ってまいりますね。
あと、帰りにキッチンへ寄ってお茶をお持ちしますので、きりのいいところで休憩を取りましょう」
「いや、忙しいんだ。あと一時間は……」
「若様?」
じ、と見つめられる。
幼いころから変わらない、語気より先に視線で制するタイプの叱責だった。
アースグランツは昔からこの視線に弱い。
結局、少年らしい素直さが勝ち、すぐに折れた。
「あぁ、わかったわかった。でも目を通すだけならいいだろ?」
「……約束ですよ?」
ゆっくり安心したように目を細めたセルダは、ほっとした気配を残して部屋を出て行く。
扉が静かに閉まる音が、妙に心に残った。
きっと、婚約者候補の一人と正式に婚約しても、順当に婚姻を結んでも
この、セルダとの心地よい関係は変わらないのだろうな。
そう、どこか甘えるような気楽さを胸に抱きながら、アースグランツはまた山のように積まれた書類へ手を伸ばした。
紙の束は相変わらず重く、仕事は果てしない。
だが、先ほどより少しだけ、その重みを背負う心が軽かった。
◆
セルダ・アマーシュ子爵令嬢の実家は、代々ダフタント公爵家に仕える由緒正しい家柄だ。
その歴史は古く、公爵家の記録庫をひもとけば、代々の当主の傍らに必ずアマーシュの名が記されているほどである。
父は公爵領に剣を捧げる騎士団の団長。
母は公爵邸の侍女長。
領民からも「アマーシュ家に任せておけば公爵家は安泰」とまで言われるほどの家であり、幼い頃の私は、その重みをまだ深く理解していなかった。
そんな両親を持つ私はなんの疑問もなく、七歳の頃、アースグランツ様──当時は次期公爵と発表されていなかったのでそう呼んでいた──の側近として、お仕えすることとなった。
その知らせを受けた日の夜、母が少しだけ目を赤くしていたのを覚えている。
誇りと、娘が大役を担うことへの覚悟の混じった、あの静かな涙を。
座学も実践も自信があった。
幼いころから両親や兄姉に鍛えられ、剣術・礼儀作法・精霊学・領政学とあらゆる科目で同年代では頭一つ抜けた成績を収めていた。
女ながら側近に望まれたと聞いたとき、その誇らしさと期待に胸が熱くなった。
私は自分こそがふさわしいと、疑いもなく思い込んでいた。
しかし一方で、私は知っていた。
一年代上の側近に任じられた人たちが、すぐその任から解かれていることを。
理由は公表されないままだが、皆どこか怯えたような表情で辞めていった。
なにかあるのかもしれない──。
それでも私は大丈夫だ、と根拠のない自信を抱きつつ、その日を迎えた。
◆
そして、初めてアースグランツ様と対面した日。
私は息を呑んだ。
まず、その天使のような容姿に大きな衝撃を受けた。
色素の薄い白金の髪は朝の光を浴びてほのかに輝き、澄んだ春の湖のような、一等星をはめ込んだような瞳は見る者の心を静かにしてしまう不思議な透明さを持っていた。
小柄な身体に似合わず、まっすぐに立つその姿は幼いながら威厳があり──
まるで絵本からこの世に迷い込んだ王子様を目の当たりにしたかのようだった。
そんな私に、アースグランツ様は真正面から問われた。
「お前は、己の考えを持って行動できるか?」
年齢に似つかわしくない深い眼差し。
その瞳に射すくめられ、心臓が早鐘を打つ。
私は一度だけ唇を結び、覚悟を込めて答えた。
「はい。もしアースグランツ様を失うことがあろうとも、
私は必ずこの身を賭して、ダフタント公爵家をお護りいたします」
静寂が降りた。
広い執務室に、私の鼓動の音だけが響いているように感じられた。
幼い身でありながら本心から放った言葉。
その重さを、彼はどう受け止めたのだろう。
しばしの沈黙のあと。
「……ああ、お前──セルダは合格だ。明日からはここで働くように」
その瞬間、緊張でこわばっていた身体から力が抜け、胸の奥に温かいものが広がった。
幼いながらも、自分が選ばれたという確かな実感があった。
アースグランツ様は、幼いながらにこれから世界で起こるであろう大飢饉を予期していた。
それが契約している地の上位精霊の力らしい、と後になって私は知った。
曰く、精霊王はただ気まぐれに災害や飢饉を起こしているのではなく、
人間たちが生み出した膿を世界から排出するために、計画的に負となる出来事を起こす行為なのだという。
そして精霊王と近しい上位精霊であれば、世界の流れのようなものがなんとなく予期できるのだ、と。
アースグランツ様は、その予兆を確かに感じ取っていた。
だからこそ「精霊王の気まぐれ」が起こる数年前から、公爵領では独自の対策が急速に進められた。
当主たちの先見と、若き次期公爵──そしてその側近である私も、例外ではなかった。
そのため私は、それはもう馬車馬のごとく働かされたのだが、それはまた別の話だ。
夜も眠れぬ日が続いたが、一度も不満を抱かなかった。
あの方が未来を見据えているのだから、私はその隣で支えるだけだと、自然に思えたのだ。
とにかく我が主は、私の一歳下ながら非常に聡明な方だったのだ。
幼い日の出会いから今日まで、その印象は少しも揺らいでいない。
◆
そんな出来事から、早くも八年が経った。
季節は何度も巡り、屋敷の庭木が伸びたり刈られたりするのを横目に、私たちはそれぞれの歳月を重ねてきた。
そして私はつい先日、十六歳の誕生日を迎えた。
若様も立派に大人びてこられた。
幼い頃に時折見せていた儚い気配は、いつしか年齢とともに薄れていき、代わりに男性らしい凛々しさが芽生えている。
背筋の通った立ち姿、軽やかに振るう腕、ふとした瞬間に息を呑むほど頼もしい横顔。
年月が若様をこうも変えるのかと、間近で見ていたからこそ実感できた。
つい最近、背の高さも私を追い越された。
あの時は、彼が照れ隠しのように笑いながら、
「ようやく女性をエスコートしてまともに見えるようになったか?」
と冗談めかしておっしゃっていたが、本当はずっと気にしておられたのだと思うと、胸の奥がほんのりと温かくなった。
可笑しくもあり、どこか愛おしい。
その感情を悟られまいと、私はただ静かに微笑んだ。
そんな若様も、今年で十五歳になられる。
ダフタント公爵家には古くからのしきたりがあり、十五歳になると三人の婚約者候補を選び、そして学園卒業――十八歳の春に一人を正式に婚約者として選ぶ。
その後は花嫁修業のため、公爵邸に身を移すことになる。
選ばれなかった二人にも、公爵家が責任をもって良縁を準備するのが常で、その周知は貴族社会の隅々にまで行き渡っていた。
ゆえにお品書き――婚約候補者の名簿に載ること自体が、大いなる名誉として扱われる。
だが昨今、この国を揺るがす未曾有の大飢饉「精霊王の気まぐれ」が発生し、国内外の情勢は荒波のように揺れ動いていた。
それは大陸でも屈指の強国と謳われるスウィーグ王国とて例外ではなく、公爵家も例外ではない。
その影響で、若様のお品書きにも、より自国の、そして公爵家に縁の深い家々が慎重に選ばれることになったのだが――
「ど、どうしてアマーシュ子爵家に……?」
その丸を付ける瞬間が、たまたま視界に入ってしまった。
いけない、と思ったが、どうしても目が離せなかった。
手にしていた書類の束を胸に抱えたまま、私は廊下で完全に固まってしまった。
頬に熱が集まり、顔が真っ赤になっているのが自分でも分かる。
若様の執務室を退出した途端、それまで張りつめていた「側近」としての仮面が、ぱたりと剥がれ落ちてしまったのだ。
お品書きには家名しか書かれていない。
だが内容は「若様と同年代のご令嬢」の中から選ばれたもの。
アマーシュ子爵家で十五歳のご令嬢といえば、私――セルダ以外にはいない。
胸の中でどくどくと脈打つ音が、やけに大きく響く。
喜びではない。恐れでもない。
ただ混乱と、理解の追いつかない熱が心を占めていた。
その状態のまま、お品書きを公爵様の執務室に届ける時間まで、私はずっと心が浮ついたままだった。
◆
「セルダとアースグランツは恋仲だったかな?」
ゆったりした声でそうおっしゃったのは、このダフタント公爵家の当主――オルダーソン公爵。
若様よりも深く、海底のように澄んだ瞳が、動揺を隠せない私をじっと見つめてくる。
「め、めっそうもございません!」
声が裏返った。
情けない。
でも否定しないわけにはいかない。
「じゃあ、あまり見ずに流したとか? まったくあの子は……」
公爵様は、飽きれたように頭を抱えられた。
しかし、どれだけ弁明しようとも、書類にはすでに若様の署名がある。
それは、決定が覆らないことを意味していた。
「他にアースグランツはなにか言っていたかな?」
「あ、えっと、初顔合わせの日程を組んでおけと……」
「へぇ、セルダは信頼されてるんだね。えらいえらい」
ぽん、と大きな手が私の頭に乗った。
驚きで瞬きをすると、手のひらの温もりが髪越しにじんわり伝わってきた。
「……公爵様?」
「あぁ、セルダは娘みたいなものだから、つい。ごめんね」
おずおずと視線を上げると、撫でていた手はもう引かれていた。
胸の奥に、小さな波紋のような感情が広がっていく。
これは、なんだろう。
「日程は決まり次第共有させていただきます。
私はこの後若様にお茶をお淹れする予定があるので、これにて失礼いたします」
「ありがとう。あの子の傍に飽きたら、いつでもおいで」
「……? はい、承知いたしました」
最後の言葉だけは意味が分からなかった。
だが公爵様は雇い主である。疑問を抱いても、はいと答える以外の選択肢はない。
とはいえ――あの方の傍を離れることなど、そうそう起こり得ない。
もし離れる時が来るとすれば、それは……追い出される時だけだと、私は思った。
◆
「……これは父上の方に問い合わせなければ進まないものだったか」
アースグランツは、書類の山を前にそう独りごちた。
集中していた思考の糸を、意図的にゆっくりと手放す。
張り詰めていたものが切れる感覚が首元にまで広がり、頭を回すと、こきり、と骨が抗議するような音を立てた。
肩も重い。
まるで何かにしがみつかれているかのように、じんじんと痛む。
――あとでセルダにマッサージでも頼むか。
お茶を飲みながらなら、きっと彼女は快く受けてくれるだろう。
窓の外へと視線を移す。
秋の入り口に差しかかった庭は、夏の名残をほのかに抱きつつ、ゆっくりと色を変え始めている。
公爵家の屋敷は広く、外気に比べて室内の温度が一定だが、それでも今日は暑いのか涼しいのか分からない、曖昧な空気が漂っていた。
少し動けば汗ばむのに、じっとしていると肌寒い――そんな季節の境目ならではの居心地の悪さが、屋敷全体に満ちている。
先ほど選定した婚約者候補三名との初顔合わせの儀も、あと三週間ほどで執り行われる予定だ。
重い案件だが、日程調整に関してはセルダに任せておけば大丈夫だろう。
――彼女は優秀だからな。
胸の奥で、自然とそんな確信が芽生える。
しかし、ふと気づけば、そのセルダの帰りが遅い。
父の執務室へ書類を届け、その足でキッチンに寄るだけのはずだった。
いつもなら十分もかからない工程が、今日はすでに十五分を超えている。
「まったく……父上のお喋り好きも困ったものだな」
ため息とともに漏れた独り言は、決して責めるものではなかった。
父の子ども好きな性質――それは屋敷の者なら誰もが知る、穏やかで温かい一面だ。
そして、このダフタント公爵家において、セルダは皆から娘のように扱われていた。
血の繋がりではない。
それでも、家族に近いものとして受け入れられている。
それは、この公爵家にアースグランツただ一人しか子がいないことに起因している。
理由は二つあった。
一つは、アースグランツを産んだ母が、出産後まもなく命を落としてしまったこと。
もう一つは、その後、父が誰とも再婚しなかったことだ。
――スペアがいない。それは王家でも貴族でも、重圧の種になる。
だがアースグランツには、六歳の頃の記憶がある。
セルダが自分に仕えると決まった日。
幼かった彼は、確かに胸の底から安心した。
自分と同じくらいの年頃で、同じ未来を目指して歩む存在。
その時の安堵は、今でもはっきりと脳裏に残っている。
そんな思い出を胸の片隅でなぞりながら、アースグランツは数時間ぶりに椅子から腰を上げた。
木製の椅子がぎしりと小さく鳴く。
長時間座っていたせいで、身体が硬い。
セルダのことは、領地を守る戦友とも、親友とも、どれも違う。
けれどアースグランツは、人として彼女のことが好きだった。
色目を使うわけでもなく、必要以上に距離を詰めることもない。
良い行いは素直に褒め、悪いと思えばしっかり忠告してくれる。
――きっと仕事仲間という言葉がいちばんしっくり来るのだろう。
そんなことをぼんやり考えながら、父の執務室の前に辿り着いたアースグランツは、扉に耳を寄せた。
微かな話し声がする。
どうやら中ではまだ会話が続いているらしい。
邪魔をしてはいけないか――そう思い、アースグランツは控えめにノックをした。
返事はなかったが、父が話している声の合間を縫うように、ゆっくり扉を開ける。
「失礼します、私ですが──」
「へぇ、セルダは信頼されてるんだね。えらいえらい」
父の柔らかい声が耳に届いた瞬間、アースグランツは思わず言葉を飲んだ。
父が自分に向けるのとは違う、どこか甘い響きがその声にはあった。
ずるい、とは思わなかった。
嫉妬でもなかった。
ただ――理解が追いつかず、胸の内に戸惑いが広がる。
いつも隣にいるはずのセルダに、自分はこんな風に接したことがない。
そんな事実が、思いもよらない形で胸の奥に刺さってくる。
セルダは少し照れているような、それでいて嬉しそうな表情で、父に頭を撫でられていた。
撫でられるのを拒むでもなく、慌てるでもなく、受け入れている。
その姿がなぜか――妙に胸に痛かった。
「──あの子に飽きたら、いつでもおいで」
扉の隙間から、父と目が合った。
その瞳は、一瞬だけ挑発的で、まるで試すような光を宿していた。
しかしそれもほんの刹那。セルダが退出のためにこちらへ歩きだすと、父はもう表情を消し、視線を手元の書類へ戻してしまった。
アースグランツはセルダに気づかれぬよう、足早に自分の執務室へ戻る。
椅子に腰を下ろし、何もなかったかのように姿勢を整えた。
だが胸の奥には、得体の知れないもやもやが渦巻いていた。
それが嫉妬なのか、焦りなのか、あるいは別の何かなのか――
アースグランツには確かめようも、言葉にする術もなかった。
◆
初顔合わせの前夜。
アースグランツは、普段なら決まった時刻に眠りにつくはずの身体が、妙に言うことを聞かなかった。
胸の奥がそわそわと落ち着かず、明日という日が怖いような、けれどどこか楽しみなような、不安と期待が絡まりあったような感覚が、寝台の中でいつまでも残っていたからだ。
――こんな気持ちになるのか。
その事実に気づいた時、彼は少しだけ笑ってしまった。
結局、浅い眠りに沈んだのはいつもよりだいぶ遅い時間。
そして案の定、翌朝は目覚ましにも気づかないほど深く眠ってしまっていた。
「しっかりしてくださいね。
奥方様がいらっしゃれば、私は就寝中の若様の自室に入れないのですから」
カーテンを引く音とともに、柔らかい朝の光が寝台に差し込む。
寝起きの頭に響くのは、セルダの落ち着いた声だった。
彼女の細い指が金の髪に触れると、眠気の残っていた意識がじわりと覚醒していく。
指先が丁寧に髪を梳き、温かい掌で全体を整え、香りの弱いワックスを薄く馴染ませていく。
その作業の一つひとつが、幼い頃から変わらない日常の一部でありながら――今日はなぜかくすぐったく思えた。
「その時はフライパンで叩き起こしてくれ」
「ふふ、奥方様がお可哀想ですわ」
柔らかな笑い声が耳に触れ、アースグランツは無意識に口元を緩めた。
仕上げにセルダの指先が軽く髪を整えると、鏡の中には今日も彼女によって外行きの顔を与えられたアースグランツが映っていた。
自分自身への関心が薄い彼は、身だしなみの良し悪しを判断することに長けていない。
だが鏡に映る整えられた白金の髪、引き締まった表情、気品に満ちた立ち姿――それらが社交界では否応なしに視線を集める容姿であることは理解していた。
「それでは一時間後、南の庭園にて初顔合わせとなります。
私は準備があるので一度若様から離れますが、なにかあればお呼びください。
すぐに参ります」
「ああ、ご苦労。頼んだぞ」
鏡越しにそっと手を振ると、セルダは深く礼をして退室した。
扉が閉じる音がやけに静かに響く。
屋敷全体が、今日という行事に浮き立っている気配に満ちていた。
廊下を行き交う使用人たちは、いつもより歩みが速く、表情には緊張と期待が混じっている。
まるで小さな祭りの準備でもしているかのように、キッチンからは慌ただしい物音が響き、シェフが腕を振るう声が遠くまで届いていた。
あれほど人数の多い公爵家の使用人たちが慌てているということは、きっとどこかで人手が足りていないのだろう。
その中心で働くセルダにも、負担がかかっているはずだ。
――迷惑をかけているな。
そんな思いが胸をかすめる。
だが、時間まではまだ余裕がある。
アースグランツは気持ちを落ち着けようと、執務机に向かい、書類に目を通したり、短い読書をして過ごした。ページをめくる音が、静かな部屋に規則正しく落ちていく。
けれど文字の意味が頭にすっと入ってこない。
胸の奥で小さく波立つ緊張が、思考をどこか曇らせていた。
それでも、彼は時刻まで淡々と、その静かな時間を守り続けた。
◆
使用人たちの休憩室は、朝から小さな祝祭のように賑わっていた。
普段は簡素で静かな部屋なのに、今日は空気そのものがきらきらと揺れているようで、話し声さえも弾んで聞こえる。湯気の立つポットの香り、布の擦れる音、誰かの抑えきれない笑い──どれもが、この屋敷では滅多にない「期待」の匂いに満ちていた。
私は用意された椅子に腰かけ、鏡の前でそっと言った。
「すみませんアマンダさん……こんなきれいなドレスをお貸しいただいて」
鏡越しに映るアマンダが、頼もしさと誇らしさを滲ませて微笑む。
「いいのよ、せっかく若様の婚約者候補に選ばれたのですもの。
使用人一同張り切ってセルダちゃんを送り出せるのが、光栄で仕方ないわ!」
その笑みは本当に眩しく、私を映す鏡よりもずっとまぶしい気がした。
私は今、まるで屋敷の誰かが丹精込めて作った人形のように飾られていた。
レースを重ねたドレス、肌にひやりと吸い付く繊細な手袋、少し重たく感じる豪華な髪飾り。
普段の仕事着とはまるで別物で、胸の奥がそわつく。
若様の初顔合わせの日を組んだのは私だ。
使用人たちの配置、動線、お茶菓子の準備、給仕係──すべて指示書にまとめた。
だが、そのどこにも「セルダ」の名はない。
本来は率先して手を動かし、裏方で場を支える立場のはずなのに、今日は何もしないということ。
皆に「どうしたの?」と心配されたが、
「申し訳ありません。当日私は、その、外に用事がありまして」
と、曖昧に笑って誤魔化していた。
侍女長である母が、あっさりばらしてしまうまでは。
結果、明るくておしゃべり好きな使用人たちの間を、噂は一瞬で駆け抜けた。
この手のシンデレラストーリーめいた話題は珍しく、皆きっと飢えていたのだろう。
同じ屋敷で働いている以上、隠し通せるはずもなかった。
むしろ、最初から自分の口で話したほうが、よほど恥ずかしくなかったかもしれない。
アマンダが私の髪を整えながら、ふと懐かしむように言った。
「セルダちゃんは姉さんみたいに、髪は雪みたいだから。
肌も白いし若いからお化粧も乗りやすくて羨ましいねぇ」
「雪……」
私は鏡の中の自分と目を合わせた。
秋の葉の色をした瞳が囁いた。
灰色に濁ったような髪。
雪は雪でも、何度も踏まれ、煤け、溶け残ったような色だ。
白でもなく、黒でもなく、どっちつかず。
半端な色。
──それは、私がずっと抱き続けている劣等感だった。
母のような純白でも、父のような深い黒でもなく。
どちらの背中にも、完全に追いつけないまま。
アマンダの手がぱっと離れた。
「さぁ、できたよ! 皆に見てもらいなっ」
椅子がゆっくりと回され、私は鏡越しではなく、直接使用人たちの視線と向き合った。
その瞬間、胸が少しだけきゅっと縮む。
皆、涙ぐんだような、嬉しそうな、でもどこか寂しげな顔をしていた。
「セルダちゃん、立派になって……」
「ええほんとうに。初めて会った時はこんなに小さかったのに」
「若様も見る目がありますね!」
嬉しさと照れと気恥ずかしさで頬が熱くなる。
これほど多くの人にまともに見つめられたことなど、今までなかった。
母がそっと私の頭を撫でてくれた。
「もし選ばれてたとしても、あなたなら大丈夫よ」
ドレスに触れないよう、少し遠慮がちな手つきで。
けれど、その温もりは確かに母のものだった。
幼い頃に感じた柔らかさを思い出し、胸の奥がじんわり熱くなる。
「……はい。精一杯、頑張ってきます」
その言葉を口にしたとき、勇気と不安がひとつになって胸の奥で揺れた。
でも、確かに私は微笑んでいた。
控えめに、けれど誇らしく。
セルダは、少し不思議な心地に包まれながら、そっとはにかんだ。
◆
アースグランツは、南の庭園へ赴いた。
自宅であるはずなのに、今日はどこか落ち着かない。廊下を歩く足音が、いつもの屋敷よりもやけに反響して聞こえ、空気までもがきゅっと張り詰めているようだ。
胸の奥に、期待と緊張がひっそりと混ざり合う。
初顔合わせという重さが、肩に乗ってくる。
それでも足取りは迷わず、決められた時間に合わせて庭園へ向かった。
そして南の庭園の門を抜けた瞬間、よく通る声が響いた。
「アースグランツ・ダフタント公子のご登場です」
青空の下、深い青と赤のドレスの裾が一斉に広がり、女性たちはぴたりと頭を下げて静止した。
庭園は手入れされた花々の香りに満ち、陽光が白いテーブルクロスの上に柔らかく反射している。晴れた午後特有のまぶしさが、視界を少し揺らした。
だが、その場に女性が二人しかいないことに気づき、アースグランツは眉をわずかに寄せた。
「頭を上げよ。
此度は個々人、学園入学前の貴重な時間を割いてくれたこと、大変感謝する。
私のことは気軽にアースグランツと呼んでくれ」
声を発した瞬間、自分が思っていたより陽射しが強いことに気づく。
午後の太陽は容赦なく照り付け、深い青のドレスをまとった女性──セルダの姿を際立たせた。
その光景を目にしただけで、アースグランツの心臓はわずかに跳ねる。
なぜ、セルダがここに。
しかし動揺を悟られるわけにはいかず、表情だけは平静を装う。
「アヴァンセ侯爵家が次女、カノレーヌです。
お会いできて光栄ですわ」
「アマーシュ子爵家が長女、セルダでございます。
ご機嫌麗しゅう、……アースグランツ様」
カノレーヌは物静かで落ち着いた気配をまとっていた。
艶やかな黒髪が風に揺れ、トパーズ色の瞳が陽光を受けて深く輝く。
アースグランツの叔母が嫁いだ家の令嬢であり、血も近い。
地の精霊との縁が深いという家柄ゆえ、彼女の佇まいにもどこか研ぎ澄まされたものを感じる。
一方セルダは、ドレスの色よりも緊張の色のほうが濃かった。
「若様」と呼ぶ癖が抜けず、敬称に口が引きつっているのがはっきりとわかる。
普段のセルダからは想像できないほど表情が強張っていて、アースグランツは内心で「面白いな」と小さく呟いた。
そして、ようやく腑に落ちる。
──彼女は今日、婚約者候補としてここにいるのだ。
認識した瞬間、胸の奥のざわつきはさらに増した。
その心のもやがなになのかはわからないままだけれど。
アースグランツは気を取り直し、周囲を見渡しながら問いかけた。
「……それで、あと一人はどうした?」
セルダが、控える執事に確認しようとした。
「リーズ子爵令嬢ですね。家からの連絡はなにも……」
セルダは慣れた動きで執事へ指示を出そうとする。
早馬の到着、精霊からの交信、何か情報はないかと。
その横顔は、普段の職務の延長線のように自然で、彼女らしかった。
だが、カノレーヌが静かに口を開いた。
「彼女なら、家でダダをこねて父親に
『それなら公爵家には行くな』と止められているところよ」
「は?」
アースグランツだけでなく、セルダもわずかに目を丸くする。
予想外に明瞭で断定的な口調だった。
「なぜそう言い切れるのですか? アヴァンセ侯爵令嬢」
「カノレーヌで結構。わたくしの生家は占星術が得意なの。
その延長線上で、こういったことができるわけなのだけれど……」
カノレーヌは静かに白いガーデンテーブルに何かを置いた。
ごとん、とわずかに重い音。
それは丸く透き通る水晶だった。
「地の精霊が作ったものだから、色々できるわ。
精霊を辿って……ほら、これがリーズ家の令嬢よ」
水晶の内部がゆらりと揺れ、まるで目が一点に固定されたように、視界が映し出される。
部屋の中を縦横無尽に飛び回る映像──おそらく、リーズ家の誰かの契約精霊の視点だろう。
そして、甲高い声が響いた。
『嫌! わたしはこのピンクのドレスを着て行きたいの!
お母様も言っていたわ。わたしこそダフタント公爵夫人にふさわしいって!』
『まだアースグランツ公子に会ったこともないだろう?』
『あら、お名前まで素敵だわ! 絶対彼のお嫁さんになるんだから!』
「……」
午後の太陽は燦々と降り注ぎ、花々はその光を反射して輝いている。
にもかかわらず、庭園の空気だけが一瞬で凍りついたように感じた。
声も出ないほどの、気まずい沈黙が流れた。
「……わたくしの家もリーズ子爵家とは取引しているけれど、当主はまともなのよ?
なぜこんな娘が育ったのか不思議なくらいだわ」
あまりにも遠慮のない言葉を、カノレーヌは菓子皿に視線を落としたまま吐き出した。
軽くついた溜息は白くはないはずなのに、まるで目に見えるほど冷ややかで、テーブルの空気をさらに冷やす。
フォローのつもりなのだろうが、どう考えてもフォローになっていない。
アースグランツも、横で硬直するセルダも、返す言葉に困って一瞬黙り込んだ。
アースグランツ自身、リーズ子爵家の当主と何度も商談をしている。
そのたびに感じていたのは、当主の理性的で聡明な人柄だった。
だからこそ、娘がなぜこうなったのか理解しがたいというカノレーヌの意見は否定できず、むしろ同感だった。
ふと視線を落とし、紅茶の表面に映る自分の顔を見る。
冷静に見えるが、胸の内では不穏な波がゆっくりと揺れていた。
「それにしても、彼女をここまで増長させているのは……。
発言からして子爵夫人か?」
アースグランツは推測を口にする。
娘の言動の元がどこにあるのか、これまでの無数の言動を思い返せば自然とそこに行き着いた。
「可能性は充分にありますわ。
本来、子爵令嬢がお品書きに載るなんてありえませんもの。
ありもしない盲言をそのまま娘に吹き込んだという線が妥当でしょうね」
カノレーヌは肩を小さくすくめた。
赤いドレスの胸元できらめく宝石が陽光を反射し、彼女のため息までも優雅に彩っているが、その内容は容赦ない。
自分の家から未来の公爵夫人を排出した――その幻想に取り憑かれた子爵夫人が、娘を舞い上がらせたのだろう。
まるで愚かな芝居を延々と見せられているようだ、とアースグランツは思った。
しかしそう現実は甘くない。
こんな女を迎えたら損どころの騒ぎではないだろうな、とあの時の行動を恥じた。
カノレーヌは小さく首を振り、もう一度深い溜息を落とす。
「そもそもわたくしとしては、公爵家に嫁ぎたくはありませんの。
今年ようやく次期侯爵として認められ、当主の精霊とも仮契約をしましたわ。
ゆくゆくは婿を取る予定でしたのに……。
はぁ。誰かさんの迂闊な行動のせいで」
陽光を浴びた黒髪が揺れ、彼女の吐く息だけが少しの弱音と棘を含んでいる。
家の重圧と期待、そして一族の未来を背負わされた女性の声音だった。
「かと言ってわたくしが退けば、二分の一であの頭のおかしい娘が公爵夫人になるでしょう?
長年懇意にしていただいている家が没落するのは、我が家とて不本意ですもの」
言葉のひとつひとつが鋭く現実的だった。
彼女は占星術師でもある。
未来予知のような予感を含んだ言い方は、アースグランツをわずかに背筋寒くさせた。
「だから、お願いがあるの。セルダさん」
カノレーヌは突然、ガーデンテーブル越しに身を乗り出した。
ドレスの裾が風にそよぎ、セルダの手をそっと掴む。
近付いた彼女のトパーズのような黄金の瞳には、星の瞬くような光が宿っていた。
「アースグランツ様の心を射止めなさい」
「えっ!?」
セルダの顔が一瞬で真紅に染まる。
普段冷静な彼女がここまで乱れるのを見るのはアースグランツにとって初めてだった。
「わたくし知っているのよ?
あなた、婚約者候補に選ばれた時、すごく浮かれていたでしょう?
いつも冷静なのにとっても乙女な表情だったわね」
「そ、そんなことは……」
「あら図星かしら? かわいいわ。
でもあなたは『このまま主従として一緒にいれれば充分』とも言っていたわね」
セルダは震える指で小さく頷いた。
俯いた横顔が夕暮れのようにほんのり赤く染まり、その姿にアースグランツの胸は大きく揺れた。
まさか――自分に対してそんな想いを抱いていたとは。
心の深いところで何かがほどけていく感覚に、立派なはずの自分の精神まで呆気なく揺らぐ。
「考えてみなさい。その場合、あの娘が将来主人になるのよ?
あんな娘に仕えたいと思う? わたくしだったらまっぴらごめんだわ。
『セルダは気に入らないから解雇ね!』と、公爵夫人となった娘が屋敷の人事に口を出してイエスマンしか残さないのがオチでしょうね」
――容易に想像できる。
アースグランツは眉間を押さえ、苦い予感に胃の底が冷えるのを感じた。
確かに、彼は婚約に興味がなかった。
屋敷を任せられれば誰でもよい、とさえ思っていた。
しかし、だからこそ選ばれる側のセルダの立場は危ういのだ。
真面目で、誠実で、優しい彼女が――あの娘の支配のもと、蔑まれ、排除される光景が、あまりにもはっきりと脳裏に浮かんだ。
早くに母を亡くし、深い愛情を教えてくれる存在を得ないまま育った自分。
その欠落が今、痛むほど理解できた。
「わたくしは全力でセルダさんを支援するわ。お金も時間も厭わない。
だからお願いよ。アースグランツ様の心を射止めてちょうだい」
自分の目の前でその言葉を言い切るカノレーヌの覚悟に、アースグランツは一瞬言葉を失った。
セルダは涙を溜め、震える指で自分の手を握りしめている。
その涙の意味を考えるだけで胸が痛くなり、同時に、守りたいと初めて思った。
「……アースグランツ様も。
いつも見ておりましたが、セルダさんのことが好きでしょう?
特に、公爵様の執務室前で感じた心に澱が溜まっていくような感覚。
今感じたセルダさんへの気持ち。
それを俗に、恋というのですわ」
その言葉が胸に落ちた瞬間、呼吸が止まった。
恋。
今まで理解できなかった感情の正体を、たった一言で言い当てられてしまった。
アースグランツはセルダを見つめる。
深い群青のドレスをまとい、困惑と羞恥の混じる瞳で自分を見ている女性。
何年も側近として教育され、感情を抑える術を身につけた彼女が、自分のことでこれほど動揺している。
胸が、じん、と熱い。
「……そうか」
呟くように漏れる声は、いつもより少しだけ震えていた。
名前がついた途端、世界が鮮明になった気がした。
愛しいとはこういうことか。守りたいとはこういうことか。
「どうやら私は、もうとっくの昔にセルダに心を射抜かれていたようだな」
自覚した瞬間、胸が熱に溶けるようだった。
これまで彼女に抱いていた好感は、ただの信頼でも、好ましさでもない。
彼女だからこそ、嬉しく。
彼女だからこそ、安心できた。
「左様ですか。では、これ以上はわたくしはお邪魔でしょう」
カノレーヌは椅子を押し、ゆったりと立ち上がる。
身を翻す動作は優雅で、その赤いドレスは陽に照らされて宝石のように輝いた。
「これからあの娘と同じ学園に入学すると存じますが、
くれぐれも遭遇しないようにしてくださいね。
わたくしも極力手を回しますが、会えば絶対、面倒に発展するので」
アースグランツもセルダも即座に頷いた。
面倒事は避けるに越したことはない。
カノレーヌは満足げに微笑み、優美な足取りで裏門へ向かう。
執事が指示を出し、馬車が音もなく横付けされた。
「ではお二人とも、末永くお幸せに」
軽く手を振り、カノレーヌは馬車に乗り込んだ。
真紅のドレスは最後まで華やかに揺れ、やがて庭園の影へ消えていく。
彼女の姿が完全に見えなくなったところで、アースグランツは静かにセルダへ向き直った。
「対外的に言えないが、私はもうセルダ以外を選ぶつもりはない。
それくらいセルダとの日常が愛しいし、これからも大切にしたいと思っている」
風がそよぎ、セルダの横髪が頬にかかる。
アースグランツは自然に手を伸ばし、その一束をそっと耳にかけた。
触れた指先に、彼女の体温がやわらかく宿る。
「セルダ、好きだ」
胸の奥から溢れる熱をそのまま言葉にした瞬間、世界が広がるようだった。
「……はい。私も、アースグランツ様のことをお慕いしております」
涙ながらに微笑むセルダは、どんな宝石より美しかった。
自らが灰色と称する髪は、陽光に照らされると白銀のように輝き、風に揺れるたび雪の粒がきらめくようだった。
アースグランツはその美しさと、彼女が自分を想ってくれる奇跡に胸を熱くしながら、そっとセルダの肩を抱き寄せた。
◆
馬車の扉が重々しく閉まると、車輪が軋みを上げてゆっくりと動きだした。
豪奢な内装の中で、カノレーヌは背もたれに体を預け、小さく息を吐いた。
柔らかなクッションが呼吸の震えを吸い込むようだった。
「まったくもどかしいですわね。……でもこれで、未来は変わる」
窓の外では庭木が淡い光を受けて揺れ、赤いドレスの裾にかすかに反射が刺さる。
カノレーヌは祖父譲りの黒髪にそっと指を滑らせ、その手つきはまるで過去そのものを撫でるようだった。
◆
──母は哀れな人だった。
胸の奥がじん、と重くなる。
幼い頃から胸に刺さっていた棘が、こうして思い返すたび少しずつ疼き出す。
母は、代々ダフタント公爵家に仕える名門子爵家の娘でありながら、公爵家を乗っ取ろうとした悪女に地位と職を奪われた。
そして最終的には、公爵家が昔から懇意にしていた侯爵家に身を寄せるよう、アースグランツ公爵から命じられたのだという。
「もう、公爵家に私の居場所はないの。
昔からいた使用人たちも辞めさせられたわ。
……だから、これでいいのよ」
母は、そう言って笑おうとした。
けれどその瞳は濁っていた。
あの時の光景が、まるで昨日のことのように胸に迫る。
さらに公爵は続けたという。
「あの女を選ぶべきではなかった。
セルダ、お前こそが私の真実の愛だ」
いつも会ったらそう言う公爵。
母の顔が強ばるを、カノレーヌは今でも覚えている。
幼い自分には意味がわからなかったが、今なら理解ができる。
──母はほんとうに哀れな人だった。
公爵に抵抗しても無駄だった。
「今身を隠せているのは誰のおかげだ?」
「騎士団長であるお前の父を、国境に送るぞ」
そんな言葉で追い詰められ、母はすべてを諦めた。
心を、人生を、未来を。
その結果生まれたのが、わたくし──カノレーヌである。
母は、わたくしを見ようとしなかった。
瞳の色は違えど、中に煌めく星々はダフタント公爵家の血を示していたから。
その星を見るたび、母は公爵に縛られていた日々を思い出してしまったのだろう。
母は一日中、庭を見つめ続けていた。
風が吹いても、色とりどりの花が咲いても、何も映さない瞳で。
そこに、なんの意味もなくわたくしはいた。
物言わぬ人形のように、ただただ静かに存在していただけだった。
そんな母娘を見かねたのが、アヴァンセ侯爵夫妻だった。
夫妻は昔、娘を亡くしており、後継者がいなかった。
だからこそ母を娘として、わたくしを孫として迎えようと懸命だった。
最初は利用したいのかと身構えた。
しかしその優しさに、どれだけ救われたかわからない。
「暇でしょう? もしよければ、占いをしてみない?」
しわしわの手で水晶球を持ってきたのは、ダフタント公爵家からこの地に嫁いだ侯爵夫人だった。
光の加減で水晶の内部に虹色の光が走り、部屋が静かに明滅したのを覚えている。
暇だと思っていたわたくしは、二つ返事でその誘いに乗った。
指示されるまま水晶に手を触れた瞬間──
視界の奥に、知らない景色が広がった。
若い頃の母。
アースグランツ公爵。
二人は書類に顔を寄せ、時には激しく議論し、時には仲睦まじくお茶をしている。
わたくしの知る二人ではなかった。
そこにいたのは、互いを信じ、支えあった者同士の姿だった。
「……あら、カノレーヌは精霊様に愛されているのね」
侯爵夫人はそう言い、わたくしの頭を優しく撫でた。
その温もりが、胸の奥に溜まっていた孤独を溶かしていった。
どうやらわたくしには占星術の才能があるらしい。
過去も未来も、そして今という瞬間さえ鮮明に見える──そんな力が。
それから侯爵夫妻はわたくしを支え続け、礼儀も学問も、精霊の扱い方も教えてくれた。
そしてわたくしは暇さえあれば過去を見て、たくさんのことを記録した。
──あの、マリン・リーズという女。
現在公爵夫人である彼女は、幼い頃から母親に洗脳されていた。
すぐに感情的になるし、女主人としての役目すら果たせるかわからないほど頭の悪い人。
ちょっと都合の悪い噂話でも聞かせて、激昂しやすくなる術をかけたら、すぐに問題行動をしそうだなと思った。
そんな少女時代だった。
気づけばわたくしは十五歳になり、上位精霊との仮契約も果たしていた。
ふよふよと宙に浮かぶ黄色い光の玉。
その光は、わたくしを呼吸するように包み込み、静かに煌めいている。
「ねぇ、精霊様」
思わず声をかけた。
過ぎ去った過去、変わらなかった未来──すべてが胸を締めつける。
「もし、わたくしとあなたの力を合わせたら、過去を──未来を変えることはできるかしら?」
精霊は少し驚いたように明滅し、それから大きく丸を描いた。
──是。
その答えは、胸の奥に熱い灯をともした。
わたくしはそっと微笑む。
すぐさま侯爵夫妻に話を伝えた。
「おばあさま、おじいさま。
わたくしちょっと過去に行って、おかあさまを幸せにしてきますわ」
正気を疑われるかと思った。
だが二人は穏やかに頷いた。
「そういえば、昔そんなこともあったなぁ」
「大丈夫。たとえ未来が変わっても、カノレーヌは私たちの大切な孫よ」
胸が熱くなる。
ああ、自分は愛されているのだと、はじめて実感した。
そして自分の才能が、努力が、未来を変える力になることを誇らしく思った。
「では、行ってまいります」
その言葉を口にした瞬間、空間が淡く発光しはじめた。
無数の光の粒子が渦を巻き、世界に一条の道を開く。
現れたのは、淡く光る扉。
過去へとつながる、運命の扉。
カノレーヌは赤色のドレスの裾を整え、深く息を吸った。
震える指で扉に触れ、その向こうを見つめる。
未だ見ぬ過去へ。
そして、変えるべき未来へ。
少女は一歩、光の中へ踏み出した。
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