前篇
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「マリンは将来、公爵夫人になるのよ」
その言葉は、幼いわたしの世界の中心にあった。
庭に差し込む朝の光よりも、王都の鐘の音よりも早く、胸の奥に根を張った言葉。
まるでわたしが生まれた瞬間から定められていた運命のように、繰り返し聞かされてきた。
けれど不思議と重たさはなかった。
母が言うと、どんな野望も夢物語みたいにきらめいて見えるからだ。
「わたしがその公爵夫人になったら、お母様は嬉しい?」
幼いわたしは、膝の上に広がる絵本を閉じ、甘えるように問いかけていた。
窓の外では、風に揺れた庭木の影がゆらゆら踊っている。
その陰影が、母の横顔をやさしく撫でていたことを、今も覚えている。
「ええ、とっても」
母はいつもの調子で微笑むと、ふわりと腕を回して抱きしめてくれる。
あのときの温もり、胸元に顔を埋めたときに香った甘い花の匂い。
同じ家に住んでいるのに、なぜか母の匂いだけは特別だった。
その安心感は、小さなわたしには世界の全部より大きかった。
――わたしのお母さんはすごい人だった。
その感情は、幼いながらに揺るぎなく胸にあった。
お母様はただ優しいだけじゃない。どこか物語のヒロインみたいに強くて、美しくて、まっすぐで。
わたしが知る限り、誰よりも誇らしい女性だった。
やがて、母は決まって語り始める。
どんなふうに父と恋をして、どうやって周囲の反対を押し切って結婚し、
そして今、子爵家の妻としてどれだけ頑張っているか――という武勇伝を。
その語り口は、まるで長い冒険劇を読み聞かせるようだった。
王都の社交界から父の故郷の話まで、どのエピソードにも情熱が宿っていて、
聞いているだけで胸がわくわくした。
ふたりの恋が反対された場面では、母は少しだけ誇らしげで、
子爵家に嫁いでからの苦労話のときは、どこか楽しそうで。
幼いわたしには、どこまでが本当でどこまでが脚色なのか分からなかったけれど、
それでも――母が幸せそうに語る姿が好きだった。
今はお父さんと一緒に、子爵家の事業である商いのお仕事をしているのだとか。
帳簿をにらむ父の隣で、軽やかに助言し、必要なら自ら商人のもとへ出向く母の姿が目に浮かんだ。
家の空気はいつだって活気に満ち、母が歩くたび、部屋に光が差し込むように感じられた。
――こんな恋愛劇のヒロインみたいな人が自分の母親なんて。
幼いながらに、すごいな、と思っていた。
母の語る愛情に満ちた物語、父と並んで歩む姿、抱きしめてくれるあの温もり。
どれもこれも、わたしの小さな世界をやさしく包んでくれた。
◆
「やっとこの日が来たわね」
母の弾む声が、朝の陽光が差し込む化粧室に満ちた。
窓辺には薄桃色のカーテンが揺れ、わたしの心臓も同じようにふわりと跳ねる。
ついに――わたしは見事、ダフタント公爵家の婚約者候補に選ばれた。
鏡に映る自分の頬は、期待でほんのり熱く色づいている。
婚約者候補という立場は、学園在学中に令嬢の本質を見極めるための期間らしい。
だから今は三人の候補のうちの一人にすぎないけれど、胸の奥には確信があった。
きっとわたしが選ばれるはず。
今日は、その三人の婚約者候補と、わたしたちの婚約者との初顔合わせの日。
朝から胸が高鳴りっぱなしで、落ち着いていられなかった。
わたしは一番お気に入りのドレスに身を包み、鏡の前で何度も回ってみせる。
お化粧も、侍女にお願いして丁寧に整えてもらった。
仕上げに最近流行りの香水をふわりと纏うと、甘い花の香りが周囲に広がった。
「あぁ、マリン……。私はあなたを誇らしく思うわ」
胸がきゅっと高鳴り、小さい頃の癖のまま、ぎゅっと抱きついた。
母の胸元の温もりと香りは、いつだってわたしを安心させてくれる。
「えへへ、どう? かわいい?」
くるりと回ると、フリルとリボンをあしらった桃色のドレスがふわっと広がる。
髪の毛も女の子らしくふわふわに巻いたおかげで、鏡の中のわたしはまるでお伽噺のお姫様みたいだった。
「ええとっても。あなたもマリンになにか言ってあげて」
母が近くにいた父へと視線を向ける。
「そうだな……。うん、かわいいと思うよ」
「もう! ちゃんと褒めて!
あなたはマリンのことをもっとちゃんと見てあげて?」
母がおどけるように腕を絡め、父は困ったように笑った。
そのやり取りはいつも通りで、まるで恋愛小説の主人公たちが目の前にいるみたいで、思わず見惚れてしまう。
そんなわたしの視線の先で、父の表情がふと引き締まった。
「でもね?」
くるりとわたしに向き直った父の手が、突然わたしの肩に置かれた。
その手は思っていたよりずっと強く、指が食い込んで少し痛い。
「そのドレスは初対面の方と会うにしては適切ではない。
もう少し落ち着いたものを着なさい」
胸が、どくりと跳ねた。
……否定された。
父に、わたしが。
今まで一度だってそんなことはなかった。
父はいつも仕事ばかりで、わたしのことには口を出さない人だった。
趣味にも食事にも、まして服装に意見されたことなんて一度もない。
ショックで、視界が滲む。
涙が今にもこぼれそうになる。
「嫌! わたしはこのピンクのドレスを着て行きたいの!」
だって、これが一番わたしをかわいく見せてくれる服なのに。
どうして分かってくれないの?
「それにお母様も言っていたわ。
わたしこそダフタント公爵夫人にふさわしいって!」
すぐ横で母が、そっとわたしの目元の涙を指でぬぐってくれる。
うんうんと頷きながら、父へと睨むような視線を向けていた。
父の顔は苦くゆがんでいた。
その表情が逆に胸をざわつかせる。
「まだアースグランツ公子に会ったこともないだろう?」
──アースグランツ様。
それが、わたしの将来の夫の名。
心の中でそっと繰り返すだけで、胸がときめいた。
「あら、お名前まで素敵だわ! 絶対彼のお嫁さんになるんだから!」
「そうね。そのために毎日、美容やお洋服のお勉強も頑張っているものね」
「ふふ、お母様の言う通りにしたらわたし、お姫様にでもなれちゃうかもしれないわ!」
母とふたりで、幸せな未来を思い描きながら笑い合う。
しかし父は、その輪に入らないまま静かに言った。
「そうか。なら、今日は参加できない旨を伝えておこう」
「なっ……!」
父の契約している金色の精霊が、ふわりと宙に浮かび上がった。
明るい光を残しながら、窓の外へすっと飛び出していく。
その光景が信じられなくて、言葉が喉に貼りついた。
「お前たちは今日、屋敷の外に出ることは許さない。
大人しく自室にいなさい」
「どうしてお父様?
お父様はリーズ子爵家から公爵夫人を排出できることを、嬉しいと思わないの?!」
声が震えた。
怒りか、悲しさか、自分でも分からなかった。
使用人がそっと腕を取ってきて、わたしはそのまま自室へ運ばれていく。
父を振り返ると表情はどこか悲しげだった。
その表情が胸に刺さって、痛かった。
◆
「結局、お手紙を出すこともできなかったわ……」
思わず零れた独り言が、馬車の中に淡く響いた。
窓の外を流れていく街並みは、春の空気に包まれて、どこかきらきらとしている。
けれどその明るさとは裏腹に、胸の奥はぽつんと空いたような寂しさで満たされていた。
今日は学園の入学式当日。
馬車に揺られながら、わたしは名前しか知らない――いえ、名前と噂だけを知っている婚約者へと思いを馳せていた。
アースグランツ・ダフタント公爵令息。
それがわたしの婚約者。
実際に会ったことは一度もない。
それなのに、父の仕事の関係で、どんな人物なのかは自然と耳に届いていた。
すごく賢くて、優しくて、金髪碧眼で、まるで絵本の中から抜け出してきた王子様のような方だ――と。
馬車の揺れがわずかに大きくなるたび、胸の鼓動もそれに合わせて弾む。
不安と期待が入り混じり、胸の真ん中に収まりきらずにもぞもぞと暴れていた。
「……でも、わたしに会ったらすぐ好きになってくれるわよね」
呟く声は、どこか甘くて、どこか必死だった。
お母様がよく言ってくれたのだ。
わたしのことを砂糖菓子の妖精みたいだと。
淡いピンクゴールドの髪。
光が当たると、とろりと溶けた蜂蜜のように柔らかく輝く。
いちご色の瞳。
鏡を見るたび、自分でも「甘そう」と思ってしまうくらい鮮やかで可愛らしい。
肌は白くて、父譲りのすっきりした骨格のおかげで顔も小さい。
動作は昔から細かくて、感情がそのまま仕草に出てしまうせいか、小動物のようだとよく言われた。
――全部、お母様が教えてくれたこと。
母が信じてくれるから、わたしも自分を信じてこられた。
だからこそ、会ったことのない彼にも、きっとわかってもらえるはずだと思いたい。
馬車の中、わたしは両手をぎゅっと膝の上で組んだ。
彼に会うのは初めて。
でも胸の中では、ずっと前から知っているような気持ちでいっぱいだった。
――今日こそ、運命が動く日だと。
◆
「さぁ! アースグランツ様を探すわよ!」
気合いを入れて口にした瞬間、胸の奥がきゅっと高鳴った。
わたしは大きな講堂の前に立っていた。
学園の象徴でもある巨大な建物は、まるで神殿のように荘厳で、足を踏み入れた途端に空気がひやりと澄んだものへ変わる。
天井には、色とりどりのステンドグラス。
朝の太陽を受けて七色の光を床へ落としている様子は、まるで神様が祝福を降らせているかのようだった。
真っ白な壁や柱は教会を思わせ、歩くたびに靴音が柔らかく反響する。
わたしの席は真ん中あたり。
公爵家などの身分の高い人は一番前に座るが、この講堂は奥へ行くほど段差で少しずつ席が高くなっている。
だから、後ろ姿だけなら――きっと見つけられるはず。
わたしは胸をどきどきさせながら、目を皿のようにして前列を探した。
(どこ……? どこにいるの、アースグランツ様……?)
金髪、碧眼、気品のある雰囲気。
想像の中では何度も会っているのに、現実の彼の姿がわからない。
でも、彼は必ずここにいる。
そう思うと、胸が熱くなった。
「──静粛に! これより入学式を執り行う。
着席がまだの生徒は、すぐに割り当てられた席へ向かうように」
厳かな声が響き渡り、はっとして周囲を見ると、すでにほとんどの生徒が席についていた。
夢中になりすぎていた自分に気づき、慌てて椅子へ腰を下ろす。
その後、学園長の長い挨拶が始まり、生徒会長の声が続いた。
この学園における学びの意義、精霊と世界の関わり、今後の社会情勢について――。
どれも立派な話なのに、頭の中にはまったく入ってこない。
(アースグランツ様はどこ……?)
視線は何度も最前列へ。
この国では金髪は比較的多い。
でも、彼はきっとその中でも際立つ美しさを持っているはずだ。
光に透けると輝くような、少し色素の薄い金――そんな想像が頭から離れない。
しかし見つけた最も美しい金髪の令息は、白銀の髪をきっちりと結った令嬢と寄り添うように座っていた。
ふたりの距離は近く、まるで既に夫婦のよう。
胸がちくりと痛む。
アースグランツ様は公平な方だと聞いている。
卒業まで誰かひとりに肩入れすることなどないはず。
わたしは会ってすらないから、一歩出遅れているのは事実だけれど――。
(大丈夫。きっと大丈夫……!)
そう言い聞かせているうちに、式は終わりへ近づいていた。
「それではこれにて閉式とする。各生徒は教室に移動するように」
厳かな声が講堂に響き、椅子の足がこすれる音が一斉に起こる。
わたしは立ち上がったものの、結局、探し求めた婚約者の姿を見つけることはできなかった。
胸の奥が少ししぼむように痛い。
期待に満ちていた心に、薄い霧がかかったような気持ちになりながら、わたしは肩を落として教室へと向かった。
◆
教室で担任の紹介と、明日からの細かな連絡事項を聞き終えると、今日はそのまま解散となった。
初日特有の緊張がふっとほどかれ、ざわめきとともに椅子が引かれる音があちこちで重なる。
あたたかい木の香りが満ちた教室だった。
古い歴史を感じさせる板壁は陽の光を柔らかく反射し、窓から差し込む午後の光が机の上に淡い影を落としている。
わたしは初めてできた友達と、その場に残って他愛のないおしゃべりをしていた。胸の奥が少し浮き立つ。こんなふうに同年代の子と自然に話すのは、考えてみれば初めてのことだ。
そんなときだった。
「もし? そこのかわいらしいご令嬢」
澄んだ声が、教室の空気を軽く震わせる。
楽器の触れる前の音のように、澄んでいてよく通る声。
振り返ると、冬の木漏れ日を思わせる静けさをまとった黒髪の令嬢が立っていた。
凍てつくほど冷たいわけじゃなく、けれどやさしく触れただけで崩れてしまいそうな、薄氷のような雰囲気。
その佇まいだけで、思わず背筋が伸びた。
「えっと……。わたしになにか?」
「落としましたわよ、ハンカチ」
彼女の白い手のひらには、わたしのお気に入り──うさぎの刺繍をあしらったハンカチが広げられていた。
見つめただけで胸がぎゅっとなる。
お母様からもらった大切なものだ。
「あ、ありがとうございます!」
思わず勢いよく頭を下げてしまう。
だって、本当に失くしたくなかったから。胸の奥でじんわりと温かいものが広がる。
そんなわたしの必死さがおかしかったのか、黒髪の令嬢は扇子をふわりと広げて微笑んだ。
橙色の地に銀糸が織り込まれたその扇子は、細工ひとつとっても高価なものだとわかる。
彼女の雰囲気に、驚くほどよく似合っていた。
「ふふ、それにしても『かわいらしいご令嬢』と呼ばれて、
あなたは迷いなく振り返るのですね」
彼女の橙色の瞳がすこし細められる。からかうようで、けれど嫌味のない柔らかな表情。
「……? はい。みんなの顔を見て判断しました」
わたしは事実を述べただけだった。
話しかけてくれた人の多くは平民か、せいぜい同じ子爵家くらいの身分。
とくにわたしがリーズ子爵家と知ると、ほとんどの令息令嬢がすぐにビジネスの話をし始める。
正直、内容は理解できないけれど、とりあえず頷いておけば満足してくれるので、とりあえずそうしている。
だからか顔立ちも会話も似たり寄ったりで、化粧っ気もなくて、制服の着こなしも地味なものばかり。
「真面目で堅実」という印象はあるけれど、それだけだ。
わたしはただ、それを正直に言っただけなのに──
「なっ……!」
「あの子、リーズ子爵のご息女なのよね?」
「流石にあれは、ねぇ」
背後からひそひそとした非難の声が上がった。
教室の空気が急に冷たくなったように感じる。
でも、なぜそんなふうに言われているのかわからなかった。
嘘なんてひとつも言っていないのに。
「──マリアさん、あなたのその真っ直ぐなところは美点です。が、」
ぱちん、と扇子が閉じられ、にこやかな彼女の顔があらわになる。
近くで見ると──地味だと思っていた印象は一瞬で覆された。
整った顔立ちに凛とした空気。
肩の周りには、お父様と同じように金色の光の玉がふわりと浮いている。
それが彼女の美しさをさらに際立たせていた。
わたしが「かわいい」なら、彼女はきっと「美しい」と呼ばれるのだろう。
「貴族として生きるなら、充分気をつけなさい」
そっと扇子の先端で顎を掬われる。
けれど、わたしは彼女の整った顔のことばかりが気になってしまって、なにを言われているのかほとんど頭に入らなかった。
怒られる雰囲気でもなく、聞き返す勇気もなく、とにかく頷いておく。
「は、はい」
「よろしい。わたくし、聞き分けのいい方は好きよ」
にっこり微笑むと、周囲のクラスメイトたちの険しい表情も一気にほぐれた。
教室の空気が、さっきまでの緊張が嘘みたいにやわらいでいく。
「あぁ、申し遅れました。わたくしはカノレーヌ・アヴァンセ。少々精霊術を嗜んでおります。
マリンさんもみなさんも、よい学園生活にしましょうね」
そう言って、カノレーヌはひらりと裾を揺らしながら教室を後にした。
その後ろ姿を、誰もが目を奪われたように見送っていた。
「すごいですわよね、カノレーヌ様……」
「まさか、わずか十歳で高位精霊と契約された、あのアヴァンセ侯爵家の?」
「光栄ですわ! そんな方と共に学べるなんて……!」
ざわめきが一気に広がる。
わたしはその声を聞きながら、小さく呟いた。
「へぇ……。やっぱり、あの子ってすごい子なんだ。
わたしのこと知ってたみたいだし、友達になれるかな?」
胸の奥が、期待とも不安ともつかない温度でそっと震えた。
◆
学園に入学して一ヶ月。
わたしはまだ、アースグランツ様を見つけられないでいた。
一週間目は言い訳ができた。
忙しいのだと、もしかしたら生徒会に誘われているのかもと想像を巡らせて。
しかしもう一ヶ月。
徐々に焦りが出始める。
アースグランツを探さなくては──。
その思いだけで胸がいっぱいになり、わたしは学園の廊下を勢いよく駆けていた。
会ったことも話したこともない婚約者に、胸の奥で形にならない焦りが膨らんでいく。
(会ったら絶対、好きになってくれるはずなのに……)
それが信じられたのは、お母様がそう言ってくれたから。
だからこそ早く会って確認したかった。
彼が本当に、わたしの未来になる人なのかどうかを。
けれど探し回るうちに、気づけば人混みの中で肩をつかんだり、走る勢いでぶつかったり、廊下で立ち止まっている生徒の陰から突然ひょいと顔を出したり──
そうれをされた生徒たちには、嫌な顔をされた。
そしてついに、背後から凛とした声が飛ぶ。
「マリンさん、周囲のご迷惑ですわよ」
瞬間、心臓が縮むような感覚がした。
振り返ると、カノレーヌが立っている。
橙の瞳が、わたしをまっすぐに見つめていた。
ただ冷静なだけなのに、そのまっすぐさがまるで全身を射抜く矢のように鋭く感じられる。
「ちょっと……探しものをしていただけです」
声が震える。
まわりの視線が刺さるようだった。
なぜこんなに胸がざわつくのかわからない。
「理由はどうあれ、他人にぶつかったり、走り回ったりしてはいけません。ここは学園で──」
「っ……!」
その言葉の続きを聞く前に、胸の奥に鋭い痛みが走る。
まるでわたしのすべてを否定されたようで、呼吸が乱れた。
「さぁ、みなさんもうよろしいでしょうか?
彼女にはわたくしから注意しておきますので、どうか」
カノレーヌが深々と頭を下げて、人の波がはけていく。
しかしわたしの中にはどす黒い感情が渦巻いていた。
(どうしてそんな言い方を……? わたしが悪いことをしたみたいじゃない)
気づけば、唇が勝手に動いていた。
◆
「カノレーヌ様が、嫌なことを言ってきたの……!」
涙声で訴えると、周囲の令嬢数名が目を丸くした。
わたしは胸に手を当て、さも深く傷ついたかのように震えてみせる。
自分でもうまく説明できないほど、心が波立っていた。
止められなかった。
けれど──
「そんなこと、あり得ませんわ」
「そうですわよ。カノレーヌ様が、そんな意地悪をするはずないでしょう?」
口を揃えたように同じ返事が返ってくる。
否定の言葉がわたしをぐいと押し返してくるみたいで、頭が真っ白になる。
「申し訳ありませんが……。
マリンさんをいじめて、カノレーヌ様に得などありますの?」
その言葉は、刃のように鋭く刺さった。
心臓が、ひゅっと縮まる。
(……得? わたしに価値なんてないっていうの?)
胸の中でその言葉が火のように燃え上がって、息が苦しくなる。
(わたしだって……わたしだって……!)
◆
お昼休みは、基本一人で過ごすようになった。
誰になにを言ってもわたしの味方はいない。
とぼとぼとただ歩く。
そのとき、近くを歩く女子生徒たちの噂話が耳に入る。
「そういえば聞いた? アースグランツ公爵令息の婚約者候補って……」
「えぇ。その中にカノレーヌ様の名前があるらしいわ」
「やっぱり天才って違うわよねぇ」
胸に落ちた言葉が、次の瞬間、内側から破裂した。
「ちょっと精霊術ができるからって、内心わたしを見下していたのね!?」
噂話をしていた女生徒たちがびくりと肩を揺らす。
しかしわたしは真っ先にカノレーヌを探していた。
口から飛び出した叫びは、もはや自分の意思ではなかった。
なにかがわたしを支配していく。
頭の中が真っ赤になり、周囲の音が遠のく。
気づけば、少し先を友人と共に歩いていたカノレーヌの背中が視界に入る。
胸の奥の熱が、一気に腕に流れ込んだ。
(許せない……! わたしを馬鹿にした……!)
その瞬間、わたしはカノレーヌの背に向かって腕を伸ばしていた。
指先が彼女の肩に触れ、力任せに押し出す。
「──きゃ……っ!」
軽い悲鳴とともに、カノレーヌの姿が前方へ傾く。
廊下の光が彼女の黒髪に反射して、きらりと揺れた。
わたしの胸の中では、熱と冷たさが同時に渦を巻いていた。
(やってやった……! わたしを見下した罰よ……!)
そう思った瞬間、指先がかすかに震えた。
我に返った、といったほうが正しいかもしれない。
カノレーヌを突き落とした場所は、よりによって──
学園の正面玄関へと続く、長くて広い大階段だった。
昼下がりの陽光が真っ白な石段に反射して、まぶしいほどに輝いている。
生徒たちの姿が絶えず行き交い、笑い声や話し声が入り混じり、ここは学園でもっとも人目が多い場所だ。
そんな場所で、わたしはやってしまった。
突き飛ばされたカノレーヌの身体が、ふわりと宙を漂うように傾き、階段の端まで吸い込まれるように滑っていく。
その光景は、まるで時間がゆっくりと歪んで見えるようだった。
「──きゃあっ!!」
周囲から悲鳴が上がった。
色とりどりの制服が一斉に揺れ、騒然とした空気がその場を包み込む。
石段と靴が擦れる音、息を呑む声、誰かが叫ぶ声。
すべてが波のように重なり、胸の中がぐらぐらと揺れた。
(落ちてしまう……! 本当に、落ちて……!)
わたしの手が震えた。
どうして震えているのかわからない。
後悔なのか、恐怖なのか、あるいはこの行動を正当化しようとする自分自身への困惑なのか。
けれど幸いにも、階段の途中で数人の生徒が反射的に体を支え、カノレーヌは辛うじて転落を免れた。
石の床に強く打ちつけられたらどうなっていたか――想像するだけで、背中が冷たくなる。
大階段に広がったざわめきは止むことなく、むしろ勢いを増していく。
「危なかった……!」
「押したの、見えたわよ!」
「学園の中であんな野蛮な……!」
階段に吹き抜ける風が、わたしの頬をひどく冷たく撫でた。
今さらながら、足の先がじんじんとしびれ始める。
(どうして……どうして、あんなことを……?)
胸の奥から込み上げてくる何かを押さえつけるように、わたしは唇を噛んだ。
◆
その日のうちに、事態は事件として扱われた。
学園中がそれを目撃していた。
否定する余地などどこにもない。
教師たちに呼び出され、重苦しい空気の中で事実確認が行われる。
誰の声も冷たく、手元の書類には殺人未遂という言葉さえ記されていた。
幸いカノレーヌが無事だったこと。
大きな怪我がなかったこと。
それだけが、唯一の救いとして語られた。
けれど──
「学園としては、これ以上の在籍を認めることはできません」
その一言で、わたしの世界は音を立てて崩れ落ちた。
椅子に座っているはずなのに、足が地に着いていないような感覚。
胸が締め付けられ、吐き気にも似た苦しさが喉元にこみ上げる。
(わたし……退学……?)
「自主退学という形をとれば、家名に傷がつくのを最小限にできます」
静かに告げられた選択肢は、逃げ場ではなく引導だった。
教室のざわめき、友人の笑い声、講堂の天井の光、
アースグランツを探して駆け回った廊下の景色……
それらがすべて、遠いものに感じられる。
わたしが思っていた未来は、何ひとつ、わたしを守ってはくれなかった。
震える手で書類を持たされる。
ぺらりとした紙が、こんなにも重い。
「……はい。……わかりました」
その言葉を言った瞬間、
わたしの学園生活は、あっけなく幕を下ろした。
(どうして……こんなことになったの……?)
胸の奥で、かすれた声がいつまでも響いていた。
◆
マリンは、長い帰路のあいだずっと胸の奥がざらついていた。
幼い頃から見慣れた実家の門が見えてきても、安堵よりも、古傷に触れられるような鈍い痛みのほうが勝っていた。
家の中は以前よりも荒れていた。
床には紙の束や空の瓶が転がり、壁に掛けられていたはずの装飾品の多くがなくなっている。
沈んだ光の中、かつては温かいと信じていた場所が、今はまるで誰かの不幸を吸い込んでしまったかのように色を失っていた。
そして、開口一番、母から浴びせられた言葉は鋭い刃そのものだった。
「役立たず」
その一言で、胸の奥がぎゅっと縮み、呼吸が浅くなる。
ずっと昔にも同じ言葉を聞いた気がした。
母は苛立ちを隠そうともせず、荒れた部屋を行き来しながら声を荒げた。
「私はどれだけ頑張ってもお義母様とお義父様に認めていただけなかった……。
いびられても我慢して我慢して、仕事でもあの人とぶつかって……!
あんたが公爵夫人になれば! 私はあの人たちの上に立てたのに!!」
言葉を聞くたび、胸の中で何かがひたひたと崩れていくのを感じた。
――わたしの幸せではなく、母の名誉のために。
そのために育てられたのだろうか。
そんな思いが頭をよぎり、息が詰まる。
「え……お母様は、わたしが幸せになれるからって」
口からこぼれた言葉は、震えていた。
母は一瞬こちらを見たが、すぐに顔を歪め、怒気をそのまま吐き捨てる。
これじゃあお母様が幸せになるためだけに、わたしが育てられたみたいじゃない?
心の中で自分に問いかけたその言葉は、現実の重みとなって胸に落ちていく。
けれど母は、その揺れなど意にも介さず、苛立ちをさらに募らせる。
「ああもうイライラする! なにもかもうまくいっていたのに!」
母はそう叫び、乱雑に置かれた瓶から酒を煽った。
ひと息で半分ほど飲み干すと、視線も定まらないまま紙束を乱暴に払う。
積み上げられていた書類が一気に崩れ、ひらひらと床に舞い落ちた。
その中で、一枚だけが白く反射して目に映った。
落ちてきたそれを、条件反射のように拾い上げる。
紙の端には、見慣れた判子の枠と、誰かの名前が書きかけになっていた。
――離婚届。
喉が音を立てて乾いた。
……ああ、だからお父様のものがなかったのね。
実家に戻ったときから、違和感はあった。
彫刻品も、使用人の姿も、お父様自身の気配すら消えていた。
気づきたくなかった。
気づいてしまえば、戻る場所が本当になくなる気がしたから。
けれど――真実は、紙一枚で突きつけられた。
わたしの世界は、こうして崩れていったのだった。
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