地上はもう存在しない
灰が降る音を、僕は毎朝聞いている。
地上はもうない。そう教えられて育った。けれど、僕の名前は“アサヒ”だ。朝の光を意味するらしい。光なんて、見たこともないのに。
町〈ネリス〉は、火山灰に覆われた世界の地下にある。百年前の大噴火で、空は閉ざされた。地上に残ったのは、焼けた街と凍った灰だけ。人類は生き延びるために地下に潜り、人工の灯りと再生された空気で生きてきた。
僕が生まれたときにはもう、外へ出ることは“禁忌”だった。
灰の音は、天井の換気管を通して聞こえる。小さく、さわさわと砂をこするように。
僕はその音を聞くのが好きだった。生きている証拠のような気がして。
授業ではいつも、過去の世界の映像が流される。青い海。広がる空。鳥と呼ばれる生き物が飛んでいたらしい。
教師は言う。「それらは、過去の幻想です。地上はもう存在しません。私たちは地下で永遠に生きていくのです」
けれど僕は、どうしてもその言葉を信じられなかった。
青い海を見たことはない。でも、心のどこかで知っている気がした。
母がよく歌っていた子守唄に、そんな光景があったからだ。
“灰の海を越えて 青にたどり着けるなら そこに君がいる”
母は病気で早くに死んだ。その歌だけが、僕の中に残った。
◇
ある日の放課後。
地下通路の隅で、友達のユマが僕を手招きした。
「アサヒ、見せたいもんがある」
「また違反コードとかじゃないだろうな」
「ちげーよ。マジの秘密だって」
ユマは設備管理班の息子で、よく保守区画に潜っては怒られている。いつも騒がしいくせに、今夜は妙に真剣だった。
僕は渋々ついていく。足元に照明が等間隔で並び、空気がひんやりしている。壁の鉄は古く、ところどころ赤茶に錆びていた。
「なあユマ、ここ、許可なしで入っていい場所じゃないだろ」
「いいんだよ。もうすぐ閉鎖される区画だし。誰も来ねぇ」
そう言って彼は、金属扉を開けた。重たい音が響き、冷たい風が吹き抜ける。
そこは、僕の知らない世界だった。
壁の向こうに、広い空間があった。崩れかけたトンネルの先に、黒く口を開けた出口。
その先に――灰が、降っていた。
僕は息を呑んだ。
白い粉が静かに舞い、足跡を覆っていく。
空があるのかどうかもわからない。けれど、そこに“上”があった。
風が吹き、僕の頬をかすめた。
「これが……外?」
ユマがうなずく。「たぶんな。親父が昔、ここで風を感じたって言ってた。オレも確かめたくてさ」
「でも、放送では……」
「信じんなよ。あんなの、誰の声かもわかんねーじゃん」
彼は小石を拾って、ぽいと投げた。灰の中に吸い込まれていく。
その瞬間だった。
灰の向こうで、何かがきらめいた。
遠く、水平線のような光。揺れて、消えて、また光った。
「見たか? 今の!」
ユマが興奮して叫ぶ。僕は言葉を失っていた。
あれは、海だ。
教科書で見た、あの青。
けれど、青くない。灰の色の中で、淡く光るだけだ。
まるで、誰かが“思い出”を灯しているように。
そのとき、放送が鳴った。
〈外部区画に侵入者を確認。至急退避してください。繰り返します。地上は、もう存在しません〉
無機質な女の声。
僕の耳に、その言葉が突き刺さった。
「戻るぞ!」
ユマが僕の腕をつかむ。
でも、僕は足を止めた。灰の光が、どうしても目から離れなかった。
「ねぇユマ。もし、あの向こうが本当の空だったら……」
「何言ってんだよ! ここで死ぬ気か!」
「僕、確かめたいんだ」
言った瞬間、自分でも怖くなった。
でも、胸の奥が熱くなる。
母の歌の続きを思い出していた。
“光を信じるなら 君はまだ生きている”
僕はヘルメットを外した。
ユマが青ざめる。
「アサヒ、やめろって! 酸素、足りねぇんだぞ!」
「大丈夫。少しだけ、風を感じたい」
僕はゆっくりと歩き出す。
足跡のたびに灰が舞い、白い霧のように広がる。
遠くで風が鳴っていた。泣き声みたいに、優しく。
目の前に、崩れた塔の影が見えた。
その向こうに、光る海。
僕はその景色を胸に刻もうと、目を細めた。
――その瞬間、世界が鳴った。
地面が震え、灰が雪崩のように落ちてくる。
警報音が鳴り響き、赤い光があたりを染めた。
視界のすべてが、壊れていく。
「アサヒ!!」
ユマの声が遠ざかる。
僕は倒れ込み、息を吸った。
灰の匂い。焦げた金属の味。
それでも、空を見上げた。
そこには確かに、薄い青があった。
ほんの一瞬、灰の切れ間に覗いた“空”。
僕は泣きながら笑った。
――やっぱり、あるじゃないか。
視界が白く染まる。
音が消えた。
僕は、灰の中に沈んでいった。
◇
気がつくと、そこは病室のような場所だった。
天井には蛍光灯。耳の奥に、規則的な電子音。
隣のベッドで、ユマが目を伏せていた。
「……生きてたのか、アサヒ」
喉が焼けるように痛い。声が出ない。
ユマが苦笑する。
「外の放射線濃度が高くてさ。もう二度と外には出られねぇらしい。……お前、ほんとバカだよ」
僕はかすかに笑った。
灰の匂いが、まだ鼻の奥に残っている。
「なあ、ユマ」
声が擦れていた。
「俺、見たんだ。青いの。ほんの少しだけど、空みたいな色を」
「そんなわけ……ないだろ」
ユマは言いながら、目を逸らした。
でも、その頬を伝う涙を、僕は見逃さなかった。
彼は信じたいのだ。
僕と同じように。
部屋のスピーカーが小さくノイズを鳴らした。
〈再構成プログラムを開始します。地上再生区域、計測不能。生存確率、〇・〇三パーセント〉
機械の声。けれどその最後の一言に、僕は耳を疑った。
〈しかし、風の流動を確認〉
ユマが顔を上げる。
僕は微笑んだ。
風が、ある。
それだけで、十分だった。
◇
退院してからの数週間、僕は地下都市の片隅で静かに暮らした。
治療の影響で、体は弱っていた。階段を上るだけで息が切れる。
けれど毎晩、母の歌を思い出していた。あの青の光景を、胸の奥で何度も繰り返した。
“灰の海を越えて 青にたどり着けるなら”
母はきっと、この世界の果てを知っていたのだろう。
僕の名前に“アサヒ”とつけた理由も、今なら少しわかる。
光は、信じるものの中にしか生まれない。
だから、僕は決めた。
もう一度、歌おう。
地上に届かなくても、誰かが聞いてくれると信じて。
その夜、僕は古い放送局に忍び込んだ。
電力はまだ通っていた。マイクをつなぎ、スイッチを入れる。
スピーカーがノイズを吐き、静寂が落ちる。
息を吸って、僕は歌った。
「灰の町で、生まれた朝を、君に届ける」
声が震え、涙が滲んだ。
でも、やめなかった。
もし誰かが、この声を聞いてくれるなら。
もし地上に、まだ風が吹いているなら。
ノイズの向こうで、風が鳴いた気がした。
放送を終えたあと、僕はマイクの前に座りこんでいた。
喉が焼けるように痛かった。けれど、不思議と心は穏やかだった。
暗い部屋の中、機械のインジケーターがかすかに明滅している。灰色の光。それだけが僕の証明だった。
どれくらい時間が経ったのか。
ドアの外で足音がして、ユマが現れた。
髪に煤がついて、息を切らしている。
「お前、また無茶して……!」
「怒るなよ。ちゃんと地下から放送できたんだ。誰か、聞いてくれてるかもしれない」
「聞いてどうすんだよ。希望なんか、今さら……」
ユマは口を噤んだ。
でもその目の奥には、怒りよりも、哀しみがあった。
「なあ、ユマ。さっき、外気圧センサーのログを見たんだ」
「またそういう危ねぇ話を」
「ほんの一瞬だけど、風速データが動いてた。つまり……」
「風が吹いたって言いたいのか?」
「うん。地上が、生きてる」
ユマは俯き、笑いかけたように息を吐いた。
「……お前、ほんとにどうかしてるな」
でもその声には、少しだけ震えがあった。
◇
それから数日後。
地下都市では異変が起きていた。
空調システムが不安定になり、気圧のバランスが崩れている。
人々は不安を口にし、放送局には問い合わせが殺到した。
「また外気漏れか」「感染じゃないか」「何か隠してるんだろう」――。
その混乱の中で、僕とユマは呼び出された。
行政局の係官が無表情で言った。
「お前たちは外部区画への不正侵入の容疑がある。灰域への接触は厳禁だ」
ユマは反論しようとしたが、僕が止めた。
「俺たち、ただ確かめたかっただけです。……本当に外が死んでるのか」
係官は薄く笑った。
「信じたくないのは自由だ。だが真実は変わらない。地上は、もう存在しない」
あの放送と同じ言葉だった。
まるで、人間じゃない何かが繰り返しているような、冷たい響き。
ユマが机を叩いた。
「なら、なんで風が吹いたんだよ!」
部屋が静まり返った。
係官が何かを言おうとして、口を閉じる。
その沈黙が、すべてを物語っていた。
――彼らも、知っているのだ。
本当は、何かが変わり始めていることを。
◇
夜。
僕たちは再び、外郭通路にいた。
灰が降る世界の入り口。かつて母の歌を思い出した場所。
警備が強化されていたが、ユマが古いアクセスキーを使って突破した。
「お前、懲りてないな」
「もう怒られるくらい、慣れた」
軽口を交わしながら、僕らは通路を進む。
崩れた隔壁を越えた瞬間、冷たい風が頬を打った。
本当に、吹いていた。
灰の中に、わずかだけど、確かな風の流れ。
「な……あったかい」
ユマがつぶやく。
僕は頷きながら、遠くを見た。
灰の向こうで、光がちらついている。
あの日と同じ場所。
あの日よりも、少し強く、眩しい。
胸が高鳴った。
僕たちはゆっくりと坂を上る。
足跡のひとつひとつが、灰の上に残る。
そのたびに風が吹いて、白い粒子を舞い上げる。
視界の先に、崩れた塔が見えた。
あのとき、僕が倒れた場所だ。
灰の中から、何かがのぞいている。
金属の骨組み。朽ちた看板。
そして、ひとつの窓。その向こうに――青が、あった。
「海……か?」
ユマが息をのむ。
でも、それは水面ではなかった。
灰の中に埋もれた鏡のようなガラス片が、かすかな光を反射しているのだ。
それでも、僕には十分だった。
青い幻でも、構わない。
僕は、確かにそれを見た。
風が吹く。
灰が舞い、空が揺らぐ。
その下で、僕は口を開いた。
「ねえユマ。……もし、また地上に人が戻れたらさ」
「どうする?」
「学校、建てたい。海のこと、空のこと、ちゃんと教えられるような場所」
「お前、教師にでもなる気かよ」
「悪くないだろ」
ユマは笑った。
それは灰の世界では滅多に聞けない、あたたかい笑い声だった。
僕はその音を胸に刻んだ。
◇
その夜。
町の放送が突然切り替わった。
長いノイズのあと、聞き慣れた声が流れる。
〈本日二十二時をもって、再構成計画を実行します。地上観測班の記録を開示します〉
次の瞬間、スクリーンが点滅した。
映し出されたのは――雲の映像だった。
灰の切れ間から、確かに光が差していた。
青い空。
風に揺れる海。
そして、遠くで鳥が飛んでいる。
人々が息をのむ。誰かが泣き出す。
それは信じてはいけないはずの光景。
けれど、もう誰も目を逸らせなかった。
放送の中で、ノイズ混じりの声が続いた。
「灰の町のすべての人へ。君たちの世界は、まだ終わっていません」
ユマが僕を見る。
僕はマイクを握りしめ、うなずいた。
「行こう。地上に」
◇
地上への通路は、もう半分崩れていた。
照明が消え、風の音だけが鳴り響いている。
足元は滑るほどの灰。
それでも僕たちは進んだ。
息が切れ、喉が痛む。
けれど、その痛みさえ、生きている証拠に思えた。
「アサヒ、見えるか」
ユマの声が震えている。
先の方、暗闇の中に微かな光。
灰の向こうから、青い風が吹きつけてくる。
僕は笑って、答えた。
「見えるよ。朝日が、昇ってる」
その言葉を最後に、視界が光に満たされた。
◇
――数年後。
地下都市〈ネリス〉は、ゆっくりと地上に戻りつつあった。
灰の層が溶け、風が流れるようになった。
太陽の光を浴びた子どもたちは、目を細めて笑う。
学校の壁には、青い絵が描かれていた。
「これが、アサヒの見た空だ」と誰かが言う。
放送塔の残骸のそばで、ユマが立っていた。
白髪が混じり、手には古い端末。
ノイズが流れ、懐かしい声が聞こえる。
――灰の町で、生まれた朝を、君に届ける。
風が吹き、灰が舞い、空が広がる。
ユマは静かに目を閉じた。
「なあ、アサヒ。お前の唄、届いたぞ」
遠くで子どもたちが笑っていた。
空の色は、確かに青かった。
◇
夜、再生した町の放送塔に灯がともる。
誰も操作していないのに、マイクが光り、ノイズが流れた。
それはまるで、風が語りかけるようだった。
〈ここは、灰の町。
でも、朝はまた来る。〉
空を見上げた少女がつぶやく。
「アサヒの唄、また聞こえたね」
灰はもう、雪のようにやさしく降っていた。
その下で、人々は生まれ変わった世界を歩き出す。
風が、歌っていた。
終わりでも、始まりでもない、ただの朝の歌を。
――灰の町に、光が落ちた。
それが、最初の“朝日”だった。
【完】




