表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
30/146

ウィーン体制からクリミア戦争までの流れ(1815〜1853)

1. ウィーン体制の安定期(1815〜1830)

• 欧州では史実同様に王政復古と保守秩序が確立。フランスはブルボン朝復活。

• 「勢力均衡」によって大規模戦争は抑止され、「大陸の平和」が実現。

• この世界線では:

• 日本皇国がアジアの支配を国際的に承認された。

• 英国との同盟関係は制度化し、事実上「英日二大海洋帝国」体制が固まる。

• 欧州諸国も日本のアジア支配を黙認し、アジア進出は大きく制限された。

---

2. 英日の協調とアジア秩序(1820〜1840)

• 日本皇国は台湾・フィリピン・インドシナ・インドネシア・ニューギニア・北豪州など

を勢力圏化。

• 英国はインド・アフリカ・北米を拡大。両国の棲み分けは明確。

• 中国では清朝が衰退し、南明(日本・英国の後援下)が華南に存続 → 東アジアは英日

主導の二重体制。

• 日本は国内で「疾病対策・農業改良・河川改修・移民政策」を進め、勢力圏を安定化。

東北・九州から多くの民が南洋へ移住。

---

3. 革命の時代と日本の立場(1830〜1848)

• 欧州では自由主義・民族主義運動が台頭し、七月革命(1830)、諸革命(1848)が発

生。

• 英国は議会改革を進め、体制の柔軟さを示す。

• 日本皇国は原則として欧州革命には不干渉。ただし英国を通じて「自由主義的思想」が

一部知識人に流入する。

• この時期、日本は「内政改革と南洋統治強化」に集中 → 欧州戦乱には深入りせず。

---

4. ロシア帝国との対立激化(1830〜1850)

• ロシアは史実同様、黒海・バルカン方面での南下政策を進める。

• 同時に極東でもシベリア開発を加速し、カムチャッカ・オホーツクに拠点を築く。

• 日本皇国は南方に加え 北方防衛(樺太・千島方面) を強化。

• 英国もロシアの南下を警戒し、インド・中央アジア防衛で日本と利害を共有 → 日英露

の対立軸が明確化。

---

5. 東洋と西洋の連動(1840〜1850)

• ロシアの東洋進出 に対し、日本は海軍近代化を加速。

• 英国・日本は「太平洋とインド洋の安全保障」を共有し、より密接な軍事協力体制を形

成。

---

6. クリミア戦争勃発(1853)

• ロシアがオスマン帝国への宗教保護権を口実に圧力を強め、黒海・地中海への進出を狙

う。

• 英国・フランスが反発、同盟を結成。

• この世界線では 日本皇国も正式に同盟参加。理由は:

• 英日同盟の義務。

• 東洋でのロシア脅威(樺太・千島・カムチャッカ)を一掃する好機。

• こうして戦争は「黒海戦線(欧州)」+「オホーツク・極東戦線アジア」の二正面

戦争となった。

---

まとめ

• 1815〜1853年は「欧州の平和+アジアの拡張」が同時に進行した安定期。

• 日本皇国は 欧州には不干渉だが、アジア秩序を主導 し続けた。

• ロシアの拡張が唯一の大きな火種となり、ついに1853年のクリミア戦争で英仏日が連合

して対抗。

• この時点で日本は アジアの覇権国+国際秩序の担い手 として完全に定着していた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ