ウィーン体制からクリミア戦争までの流れ(1815〜1853)
1. ウィーン体制の安定期(1815〜1830)
• 欧州では史実同様に王政復古と保守秩序が確立。フランスはブルボン朝復活。
• 「勢力均衡」によって大規模戦争は抑止され、「大陸の平和」が実現。
• この世界線では:
• 日本皇国がアジアの支配を国際的に承認された。
• 英国との同盟関係は制度化し、事実上「英日二大海洋帝国」体制が固まる。
• 欧州諸国も日本のアジア支配を黙認し、アジア進出は大きく制限された。
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2. 英日の協調とアジア秩序(1820〜1840)
• 日本皇国は台湾・フィリピン・インドシナ・インドネシア・ニューギニア・北豪州など
を勢力圏化。
• 英国はインド・アフリカ・北米を拡大。両国の棲み分けは明確。
• 中国では清朝が衰退し、南明(日本・英国の後援下)が華南に存続 → 東アジアは英日
主導の二重体制。
• 日本は国内で「疾病対策・農業改良・河川改修・移民政策」を進め、勢力圏を安定化。
東北・九州から多くの民が南洋へ移住。
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3. 革命の時代と日本の立場(1830〜1848)
• 欧州では自由主義・民族主義運動が台頭し、七月革命(1830)、諸革命(1848)が発
生。
• 英国は議会改革を進め、体制の柔軟さを示す。
• 日本皇国は原則として欧州革命には不干渉。ただし英国を通じて「自由主義的思想」が
一部知識人に流入する。
• この時期、日本は「内政改革と南洋統治強化」に集中 → 欧州戦乱には深入りせず。
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4. ロシア帝国との対立激化(1830〜1850)
• ロシアは史実同様、黒海・バルカン方面での南下政策を進める。
• 同時に極東でもシベリア開発を加速し、カムチャッカ・オホーツクに拠点を築く。
• 日本皇国は南方に加え 北方防衛(樺太・千島方面) を強化。
• 英国もロシアの南下を警戒し、インド・中央アジア防衛で日本と利害を共有 → 日英露
の対立軸が明確化。
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5. 東洋と西洋の連動(1840〜1850)
• ロシアの東洋進出 に対し、日本は海軍近代化を加速。
• 英国・日本は「太平洋とインド洋の安全保障」を共有し、より密接な軍事協力体制を形
成。
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6. クリミア戦争勃発(1853)
• ロシアがオスマン帝国への宗教保護権を口実に圧力を強め、黒海・地中海への進出を狙
う。
• 英国・フランスが反発、同盟を結成。
• この世界線では 日本皇国も正式に同盟参加。理由は:
• 英日同盟の義務。
• 東洋でのロシア脅威(樺太・千島・カムチャッカ)を一掃する好機。
• こうして戦争は「黒海戦線(欧州)」+「オホーツク・極東戦線」の二正面
戦争となった。
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まとめ
• 1815〜1853年は「欧州の平和+アジアの拡張」が同時に進行した安定期。
• 日本皇国は 欧州には不干渉だが、アジア秩序を主導 し続けた。
• ロシアの拡張が唯一の大きな火種となり、ついに1853年のクリミア戦争で英仏日が連合
して対抗。
• この時点で日本は アジアの覇権国+国際秩序の担い手 として完全に定着していた。




