徳川家康の反乱(第二次織田包囲網)
1. 背景(1584年前後)
光秀の謀反、勝家の反乱を鎮圧したことで、織田政権は恐怖政治と合理主義で家中を統
一。
信長は重傷と病により安土城に籠りつつも、「反乱に加担した者は一族皆殺し」と徹底
処断。
家康は「いずれ自分も粛清される」と悟り、生き残る唯一の道=先制挙兵に追い込まれ
る。
2. 家康の檄と反信長派の糾合
家康は「織田信長は暴君、天下を私物化する逆賊」と糾弾。
各地で織田に押さえつけられていた勢力が呼応する。
関東:北条氏政(小田原)
九州:島津義久(薩摩)
四国:長宗我部元親(土佐)
畿内・山陰:一向宗の残党、かつての浅井・朝倉旧臣
東海:徳川直轄三河・遠江・駿河
→ 史実の「小牧・長久手」が拡大し、全国規模の織田包囲網として再編される。
3. 織田政権の対応
総大将:織田信忠(若き当主)
副将:羽柴秀吉(実戦指揮官)、前田利家、池田恒興、丹羽長秀ら
後方:信長は安土にて戦略を統制。「天下布武」の最終局面を指揮
動員兵力:約12万(織田本軍+諸大名)
4. 戦役の展開
① 東海戦線 ― 小牧・長久手
家康本隊4万と秀吉本隊6万が衝突。
初戦は家康の巧妙な野戦築城・奇襲戦術で優勢を得る。
しかし補給線を断たれ、次第に劣勢。
信忠の増援が合流し、家康軍は三河へ敗走。
② 関東戦線
北条氏政が武蔵・上野から西上するが、織田方の滝川一益・前田利家が迎撃。
補給不足と同盟の不徹底で北条軍は後退。
③ 九州戦線
島津義久が大友領に進出。
だが織田政権は羽柴秀長を派遣し、大友義統と合流して反撃。
島津軍は九州南部に押し返される。
④ 四国戦線
長宗我部元親が讃岐に侵攻するが、織田水軍(九鬼・村上)が制海権を確保。
補給線を絶たれ、土佐へ退却。
5. 家康の最期
小牧・長久手での敗北後、家康は三河・駿河へ退却し、浜松城に籠城。
織田軍の包囲が数か月に及び、兵糧尽きる。
家康は最期まで抗戦を試みるが、力尽きて自刃。
徳川家はここで滅亡。
6. 戦後処理
徳川領は没収し、織田直轄領に編入。
北条氏政は小田原に退くが、領土を大幅に削減され、織田の属臣化。
島津・長宗我部も降伏し、実質的な従属。
一向宗残党は徹底的に弾圧され、国内反乱勢力は完全に壊滅。
7. 意義
信長・信忠父子はこの戦いで名実ともに天下統一を達成。
以後、日本国内に反織田勢力は存在せず。
秀吉は「忠実な副将」としてさらに信頼を集め、海外遠征へ。
信長は「死に損ないの亡霊」と自称しつつも、天下布武の完成を見届けた。
まとめると:
徳川家康の反乱は「最後で最大の国内戦」であり、全国の反信長派が総結集しても織田
政権の物量と合理主義には抗えなかった、という帰結になります。




