思い出の曲は思わぬ再会を手繰り寄せて
『 肌寒い中で 梅は咲き乱れ
少ない日差しで 桜は蕾を付け
鶯と春風が次の季節の準備をする
周りの笑顔は開花しているのに
私はとたんに笑みが消えてしまう
周りは春が来ることを願い
私は春が来ることを妬む
春よ来い来い来るな
春よ来い来い来るな
病人の願いは届かず 春はやってくる 』
とても率直で切ない歌詞に哀愁が漂う曲調は、ピアノで弾くと少し辛くなるのにも関わらず、いつもふと弾きたくなってしまう曲だ。
今は心が落ち着かないのか、それとも心を乱したいのか分からない心境である中で、いつの間にか目の前にピアノの椅子に座ってこの曲を無心で弾いていた。
「あなた、とても素敵な曲ですわね。これは何と言う楽曲ですの?」
弾き終えると、後ろから可愛い弾んだ声が聞こえてきた。あまりにも不意打ちで尋ねてきたものだから、一瞬何が起こったのか理解するまでに数秒かかってしまう。
どうやら妻が側にいたことに気づかないまま、いつの間にかピアノを弾いていたようだ。そして、聞いたこともない曲に興味を惹かれ、思わず私にどんな曲を尋ねたのだろう。でなければ、最近会話がほぼないのに話しかけはしないのだから。
折角久しぶりに挨拶以外で話しかけてくれたのだから、それに素直に答えたら良いものの、つい素っ気ない態度を取ってしまう。
「君には何も関係ない。」
「素敵な曲でしたから、私も歌いたく思いました。もう一度歌詞に乗せて歌ってくださいませんか? 歌詞がハッキリと聞き取れなかったもので。」
「君にこのようなしんみりした曲は歌えない。今度収録する歌の練習でもしたらどうだ。」
「あなたはどうして毎回そう悲しいことを仰りますの。機会すら与えてくださらないのですか。」
「ああ、もういい。ちょっと今から散歩してくる。」
せめて妻の名前ぐらい呼べば良かったのに、まともに顔を合わせることもなく、ピアノの椅子から離れて、下駄を履き玄関の扉を開けた。すると、一気に少し冷たい風が素肌に当たるも、半纏を取りに戻ることもなく浴衣姿のまま外を出てしまった。
◇◇
私の家は代々続く音楽一家であり、その流れに沿って同じく音楽家――作曲家になった者だ。そんな私は、現時点でヒット曲を何曲か作り出し、元々家の功績も相まって、多くの人から『先生』と呼ばれている。
また、妻は圧倒的歌唱力と可愛らしい声で多くの人を虜にする歌手であり、人気歌手として活躍中だ。
そう、私達は共に音楽を仕事としている夫婦である。
私達は親同士が決めた政略で顔を直前まで合わせることもないまま結婚をしたものの、少し前までは仲がとても良いわけではないが、決して仲は悪くはない夫婦だった。良きパートナーとして仕事でも伴侶としてでも共に順調に過ごしていたはずだったのだ。
最近このようなやり取りばかり続いているが、何故このような現状になったのか……それは約二ヶ月前に、妻が恐る恐る声を掠めながら、いつも歌っている曲調以外の歌を歌いたいと申し出たことだった。しかし、私はそれを一切聞き入れることがなかったのである。
それは何故かと言うと、あの可愛い声でしんみりした曲調や格好いい曲調がとても合うイメージが一切湧かないからだ。また、彼女は歌唱力は抜群であるものの、音域はそこまで広くないため、違う曲調を作るのも大変だからである。
それに、何よりも私が多くの仕事に追われて疲弊しており、そして尚且つここ最近は納得の行く曲を作り上げることが出来ずに思い悩んでいるため、とても他の曲を作ろうとは思えなかった。
最初は単に違うことをしてみたいという軽い気持ちから言ってきたことだと思ってその頼みを放っておいたのだが、妻は本気だったらしく、暫くすると他の作曲家に頼み込みもしたものの、全て断られたようだ。
きっと私の――いや、私達代々に渡る三木家への敬意を表して受け入れることが出来なかったのだろう。私が作らないのに、自分達が作ることなんて出来ないという意思表示なのが嫌でも分かる。
私的には、妻がそれを望むなら誰かに作って欲しいところではあるのだが……そう上手くもいかないようだ。
今日も気晴らしにというか、今回に限っては気持ちを静めるために散歩をしているものの、ここ二週間ほどずっとこの調子であり、気がおかしくなりそうだ。
ただ、今回ばかりはいつもと違う出来事に立ち会ったのである。それは、妻があの曲に反応したこと。最近どの曲を作っても一切反応することはないのに、今回ばかりは強く反応したのだ。
何だかこの曲に何か糸口があるように思えて仕方がない。肝心な何かは分からないのだが……。
しかし、全く考えが纏まることはなく、体が冷えていくばかりだった。
◇◇
――トントントン
次の日の昼、妻は私の部屋の扉を少し強めに叩き、入りたいと言ってきた。そのため、渋々ではあるものの許可を出すと、スッと部屋に入ってくる。そして、あのピアノを見つめながらこう願い出るのだ。
「昨日弾いていた曲をもう一度弾いて欲しく思います。」
妻の頼みは、思わず耳を疑ってしまう発言だった。ここ最近は他の曲調の楽曲を作って欲しいという願いばかりだったので、まさか違うことを頼まれるとは思わなかったのだ。
いつもなら無理だと一蹴するだけなのに、今回ばかりはどうしてもあの曲を弾きたいという感情が抑えきれず、導かれるかのようにピアノの前に座った。そして、流れるようにあの曲を弾き出し、あの歌詞を口ずさむ。それを妻は弾き終わるまで、静かに聴き入っていた。
「別に歌詞は大したことはありませんが、この曲が凄く私の胸を惹きつけられますわ。」
「千夜子の胸を……惹きつける。別に曲調も上手いわけではないはずだが。」
「確かにそうですね。ですが、どうしても胸が締め付けられてしまいまして。」
なんせこの曲は、私が九歳とまだ音楽家として活動しようという気持ちすら無かった時に作った物なのだ。そのため、この曲調は未熟者が作った拙い物である。
そして、この歌詞は昔たまたま出逢ったあの時の私と同じぐらいの年の少女が詠んだ詩と、言って悪いがやはりこちらも拙さが残る物だ。
共にあの年齢で作ったと考えると、贔屓目で見ても凄いことだと思う。普通に聴くことが出来る曲なのだから。ただ、人前で出せるような曲ではないのは間違いない。因みにこれは一番だけで、二番三番もない未完成曲なのだ。
それなのにどうして妻はこんな曲に惹かれているのだろうか。私の曲だけでなく、様々な一流の音楽家の曲を常に間近で聴いているはずなのに、妻もよく分からないようで、ますます謎は深まるばかりだった。
◇◇
「あなた、来週何処か旅行に出かけませんか? 私、そろそろ気分転換したいですわ。」
あの曲を弾いてから一週間経った頃、妻は唐突に旅行がしたいと言ってきた。最近は違う曲調の歌を歌いたい、あの曲を弾いて欲しいなどと釈然としない頼み事ばかりされて、一体どうしたのだろうと疑いたくなる。まあ、彼女のことだから単純にしたいことを述べているだけなのだろうが。
それにしても旅行か。そう言えば最近は何処にも出かけていなかったな。最近全然曲作りにも集中出来ていなし、私の気分転換も兼ねて行ってみるか。
「何処に行きたいんだ。」
「そうですね……やはり今は春の季節でございますから吉野山とかどうでしょう。きっと今なら梅の花が綺麗に咲いていることでしょうね。」
「吉野山か……分かった、なら来週出かけよう。」
「ありがとうございます。」
一気に大きな声を出して、両手を握ってくるものだから驚いてしまう。今回は尋常ではないほど、妻は興奮しているようだ。こんな無邪気な姿を見るのはいつぶりだろうか。妻も最近仕事に追われていたので、息抜きが出来ることが嬉しくて仕方がないみたいだ。
なんせ一緒に出かけようと言ったのは正解だったようである。私はそこまで楽しむことは出来ないだろうが、せめて妻に付き合うことにしよう。
◇◇
「あなた、吉野山はやはり梅が満開ですね。」
「そうだな……まだ東京だとこの景色は見れないものな。」
一週間後、約束通り吉野山に来た私達だが、その満開である梅に圧倒されてしまい、今まともに妻の言葉に応えることが出来ない。その壮大さに目が奪われてしまうのだ。それに、所々に桜の蕾が付いている木もあって、それが更にもう少し春が来るのだと高揚感を押し上げた。
「吉野山の梅って、ここまで綺麗だったんだな。昔はそんな風に思わなかったが……。」
「昔はよく来られておられましたの?」
「千夜子と結婚するまでは毎年来てた。」
「……そうでしょうね。」
祖父が吉野山に別荘を持っていたから、私も毎年この季節になると祖父母と共にここに来ていた。そのため、この光景は見慣れているはずなのだが、もう十八年と結婚した時の年齢分だけここから離れていたせいか、とても新鮮に感じる。
それにしても、千夜子にそんな話をしたことがあっただろうか。最後の言葉はまるで知っていたかのような発言だったが……いやわざわざ昔来ていたか尋ねたぐらいなのだから、きっと空耳だろう。
「あなたはここでの思い出はありませんの?」
「思い出か、そうだな……少し前に弾いた曲、千夜子が心に響いたあの曲は、ここで作ったな。」
「どのような心境で作りましたの?」
「なんかその時に女の子が口ずさんでいた詩に、何故か無性に曲を付けたくなって作った記憶はある。」
「そこに込めた想いなどありまして?」
「それは…… というか、どうしてそこまでこの曲について聞きたがる?」
「それは……ただ単純に私がとても気に入ったからですわよ。」
何とも言えない笑みを浮かべて返事をする妻に、やはりどのように対応したら良いのか分からない。
そしてどうして妻が、私がここまでこの曲に惹かれるのもかも分からないままだ。
◇◇
「ここが今回過ごすところですか。……変わりありませんわね。」
「まぁ……確かに間取りは家とほぼ一緒かもしれないな。」
「そういうことではないのですが……。」
この家は現在父の保有しているが、今回は父に頼んで貸してもらったのである。勿論、家に比べるとこじんまりしているが、数日過ごすだけなら何の問題もないし、そこそこの広さもあって良い別荘だと思う。
「ここにもピアノはありますの?」
「勿論あるよ。なんなら他の楽器も多くあるさ。」
「そうでしょうね……折角ですからここにあるピアノであの曲を弾いたら如何でしょう?」
「やけにあの曲が気に入っているな。まあ、折角だから弾いておくか。」
妻の言葉に従ってピアノのある部屋に移動し、即座に椅子に座り鍵盤の上に手を乗せる。そして、流れるように鍵盤を叩き始めた。
私自身は最近このピアノでは弾いてはいないのだが、よく手入れはされているようでとても手に馴染む。そして、手入れされているが故に古いピアノであるものの、音が綺麗に弾んだ。
妻はやはり心地よさそうに、この曲を聴いている。その表情はまるで聖母のように優しい表情をしていた。
「あなたはこのピアノで弾いて何か思い出すことはありませんの?」
「いや、特には。確かにあの女の子をここまで連れて、あの曲を弾いた記憶はあるけれど。」
「そうなのですね。」
また似たような質問をした妻であったが、私の返事に満足しなかったのか、とても寂しそうな顔をしていた。だけど、私には何故そんな表情を浮かべるのか分からなかった。
◇◇
次の日、私達はまた梅の花が咲き乱れる場所に散歩をしながらやって来た。昨日見たばかりだが、流石に一日ぐらいではその絢爛さは失われていないようで、今日も同じく圧倒される。それは隣にいる妻も同じようだった。
この空気が心地良くてずっと浸っていたと思うほど、幸福感に満たされる。
「ここ数日で気分転換は出来そうですか?」
「そうだね。ここにいる間は曲作りについて考えなくて良さそうだから、気分転換にはなると思う。千夜子は、気分転換になりそうか?」
「そうですわね……あなたと同じく暫くの間は仕事を離れますので気分転換は出来そうです。」
横に視線をずらすと、その妻はとても晴れやかな表情をしていた。やはり休息出来るというのはそこまで嬉しいものなのだろうか。
「千夜子は歌の仕事のことについてどう思っているんだ? 私は音楽家になるのが必然みたいなところがあったが、千夜子はそうではないだろう。」
妻は元々旧華族の令嬢で、生粋の箱入り娘である。そのため、旧華族でもない私とは本来釣り合うこともない身分であるが、先代の音楽家としての功績や交流があって、持ち上がった縁談でそのまま婚約をしてすぐに結婚する運びになった。そんな妻が、歌手となる理由となったきっかけは私達が結婚してすぐのことだ。
あの日は、私が完成した曲のレコードを聴いていたところ、その曲に合わせて廊下から歌声が聞こえてきたのだ。それもとても可愛い特徴のある伸びやかな声だった。そのため、私はその声に引き寄せられるかように、扉を開けるとそこに居たのが妻だったのである。
確かにあの時はまだ未熟だったかもしれないが、それでもあの声と上手さで、私は歌手として売り出せば間違いなく売れると確信した。そのため、その場の勢いもあってだが、妻に歌手にならないかとその場で勧誘したのである。
妻はその言葉が信じられないと驚きながらも、歌うことが大好きであったことから、かなりすぐに受け入れてくれたのだ。
実は妻を歌手として売り出すことを説得するのは、妻の一家の方が大変だった。いくら人妻となった身とは言え、旧華族の令嬢が人前に出るだなんて言語道断だと言われたのだ。
しかし、言葉でどんなに説得しても納得してもらえない中で、妻が家族の前で彼らが好きである曲を見事に歌い上げると、みんなが手のひらをひっくり返したかのように、絶賛して歌手になって欲しいとまで言われるようになったのだ。姑は最後まで渋っていたものの、しっかりと妻の実力を認め、最後は妻の意思も組んで三ヶ月の説得に渡って認められたのである。完全に妻の実力で黙らせたのだ。
それから、一年後には歌手として活動を始め、人気音楽家である友人に歌詞を書いてもらい、私が作曲した最初に売り出した曲が見事に売れ、またその後の歌も続けて売れたことにより、妻の歌手としての地位を確立したのだった。
そのような経緯で歌手になり、売れっ子になった妻だが、彼女は私の強い勧めからこうなったのだ。最近は違う曲調の歌を歌いたいと言い出すようになったことからも、私はここ最近妻はこの仕事に飽き飽きしているのかもしれないと思い始めるようになった。そのため、これを機に妻の率直な意見が欲しかった。
妻は少しだけ間を置いて、真正面から口を開く。
「私はこの仕事に誇りを持っておりますわ。」
その瞬間、妻が天使が微笑むかのように優しい声で、好きだと公言してくれた。ここ最近ずっと気がかりだったものだから、肯定的な言葉が返ってきて少し安堵する。
「そして、何よりも音楽が好きなのですよ。あの時から……。」
妻が更に笑顔で言葉を続けると、その瞬間に歌を歌い出したのだ――あの例の歌を。
『 肌寒い中でー 梅はー 咲き乱れ〜
少ない日差しでー 桜はー 蕾を付け〜
鶯とー 春風が〜
次のー 季節のー 準備をする〜
周りのー 笑顔は〜 開花しているのにー
私はー とたんにー 笑みが消えてしまう〜
周りはー 春がー 来ることをー 願い〜
私はー 春がー 来ることをー 妬む〜
春よー 来い来いー来るなー
春よー 来い来いー 来るなー
病人のー 願いはー 届かず〜
春はー やってくる〜 』
普段からは考えられない、か細いくてでも重厚感のある低めの声で歌っている。それでいて、歌手なだけあってしっかりと歌詞が聞き取れるのだから流石である。
だけど、それ以上に驚いたことがあった。
「もしかして、千夜子があの時の女の子なのか?」
確かに上手さは比較にはならないが、雰囲気はどう聴いてもあの時のままである。だが、どうしても信じることが出来なかった。それは……。
「やはり、もうあの時の少女はこの世には居ないと思っていらっしゃったのですか? 驚くのも無理はありませんわよね。あの時は私がもうすぐで亡くなると申しておりましたから。」
そう……あの時の女の子は、もう絶望的な表情を浮かべて、そしてとても弱々しそうに詩を紡いでいたのだから。そして、その理由はもう少しで不治の病により亡くなると言ってもいたのだから、今生きているだなんて中々信じられなかった。
「実は少し私が勘違いしたところもありまして、現在も生きているのですわ。」
私がどのような状況なのか理解が追いつかないのが分かったのだろう。そのため、その意図を汲み取って妻はその経緯を丁寧教えてくれた。
どうやら話を聞くと、妻は最低でもこれだけは生きられるだろうと言われた期間を、この時期に亡くなると勘違いしていたというのだ。病自体はその当時は不治の病だったが、数年後に特効薬が出来て病は完治したらしい。
ただ、その特効薬はとても庶民がおいそれと手に入れられる金額ではなく、自分は旧華族の令嬢だから助かったのだと苦笑していた。もしすぐに特効薬が手に入らなければ、そのまま亡くなっていただろうとのことだ。どちらにしろ、辛い経験をしてきたのには間違いが無かった。
元々は体が弱かったのだから、出産は特に危険な出来事だっただろうが、母子ともに無事で、そして二人の子供が共に無事に成人したのだから、体は病が治ったことで回復はしたのだろう。ただ、三人も四人も子供を新たなに作らなくて良かったと安心してしまう。まあ、お互いに多忙なこともあってそんな時間も多くは無かったのだが。
と言っても、仕事でかなり無茶はしていただろうから今思えば不安に思うが、妻からはそんな素振りが一切見当たらなかったので、本当に体は健康になったのだろうということは分かった。
しかし、妻にそんな過去があったことを、夫でありながらずっと知らなかったことに罪悪感を覚える。そのため、思わずその場で言葉だけの謝罪をしてしまったのだが、妻は私の方から話そうとしなかったから気にしないでと言われてしまった。
「千夜子は、もしかして昔から私だと気づいていたのか?」
「いいえ、流石に気づきませんよ。だってあの時はお互いに幼くて名前も名乗っていなかったのですから。気づいたのは、あの曲を聴いてからです。」
「私は先程気づいたばかりだった。」
「それは少し残念な気持ちではありますが、ただあの曲を覚えてくださったことは大変嬉しかったですよ。しかし、どうして今まで弾いてくださらなかったのですか?」
「いや、定期的は弾いていたさ。だけど、千夜子の前では弾いていなかったというだけで。」
「どうして私の前で弾いてくれなかったのですか?」
「だって曲調はブレているところも多いし、変梃な変調もあって恥ずかしかったんだ。」
「詩はどう思っておりましたの?」
「歌詞は確かに世間に出ているものと比べたら全然だが、私は真っ直ぐで大好きだった。」
「そりゃあお金を貰っている作詞家様と比べたら失礼ですわよ。ただ、あなたがそのように気に入ってくださったなら何よりも嬉しく思いますわ。」
思わず二人の間には笑い声が生まれる。この曲でこんなに喜びを感じられるのだから、私達はきっと幸せ者なのだろうと実感した。
「それにしても残念ですわ。もっとこの曲を、あの頃のあなたを早く知りたかったです。」
「そうか……。」
「何をそんなに落ち込んでいらっしゃるのですか。もしかして申し訳なく思ってますの? 先程も気にしなくて良いと申し上げましたのに……本当に困った方ですわね。それなら、謝罪のつもりでどのような意図であの音楽が出来たのか教えてくださいますか?」
本当に妻は優しくて、そして何よりも私を理解してくれる。せめてそれが謝罪になるのであれば、きちんと答えないといけない。
先程までは何であの曲を作ったのか思い出せなかったが、今ならハッキリと分かる。
「あれは千夜子に少しでも希望を持ってもらおうと、初めて真剣に作った曲なんだよ。」
ああ、だからあそこまであの曲が好きなのか。自分で言葉にしてそうだとしか思えなくなった。初めて作曲という作業に立ち向かった曲だったので、ずっと心に残っていたのだ。
「やはりそうなのですね。曲は凄く切なくて胸が締め付けられるのですが、その中に躍動感があって何だか前を向きたいと思ったのです。」
「あの時にそれを表現出来ていたなら、作った甲斐があったというものだ。」
「あれから音楽を楽しむことを覚えたのですから間違いありませんね。よくよく考えたら、音楽自体の楽しさも、歌う楽しさもあなたから共に教えてもらいましたわね。」
私は今色々な意味で妻に大きな影響を与えたことに気付かされた。きっとこれこそが、音楽家として何よりも嬉しいことのような気がする。
確かに昔はしっかりと曲作りを楽しみ、そして聴いてもらえる人に何かしらの感性を持ってもらえるようにと、打ち込んでいた。しかし、最近は三木家や自身の名前の重責がのしかかったことで、何とか期待に応えようと人目を気にしながら作っていたので、全く集中出来ずに、納得のいく曲も作ることが出来なかったことに気づく。
「あなた……私も謝らせてください。最近ずっと違う曲調を歌いたいと申していたのは、単に他の歌手に見返したかったからですの。」
「見返したかった?」
「私は可愛らしくて明るい曲ばかりずっと歌ってきましたが、もうすぐで四十路になるのに他の曲調は歌うことも出来ないのかという声もちらほら聞こえてきまして、とても悔しかったのですわ。」
そうか……やはり妻は妻で仕事に関して辛い苦悩を抱えていたようだ。そして、これに関しては私が完全に悪い。
私は音楽家として、歌詞や歌手に合わせながら作っている。しかし、妻に関しては可愛い声しか出せないのだからと決めつけて、少なくとも私はそれ以外の曲調で作ったことが無かった。そのため、その先入観から他の音楽家が作る時も、私が作る時と似たような曲調になるのだろう。
彼女がどんな声を出せるのか、まともに確かめることもなく推し進めたのだから、不満に思うのは当然だった。寧ろ今まで不満に思われなかったことの方が不思議なほどだ。
「千夜子はどんな曲調の歌を歌ってみたいんだ?」
「そうですね……色々な音楽に挑戦してみたいですが、今はこの曲みたいなしんみりとした曲を歌ってみたいですわね。」
「なら、今の仕事が終わったら、千夜子の新たな形の曲を作っても良いか?」
「はい。でも……こんな歳で新たなことをするのはやはり可怪しくないでしょうか? 今更ながら不安になってしまいましたわ。」
「別に何にも可怪しくはないだろう。寧ろ観客も新たな千夜子を見れて嬉しいんじゃないか。少なくともこの曲調は問題ないみたいだし。」
「はい。それなら、よろしくお願い致します。」
今までで一番喜んでいることがよく分かる。本当にしたかったことが出来て嬉しいのだろう。そんな姿の妻を見ていたら、自然と私も元気が湧いてくる。
「折角ならあの曲の続きの歌詞を千夜子が書いて作るか? あの曲、未完成だし絶対に歌いこなせるだろうしな。」
「いえ、それは絶対に止めてください。あれはまだ作曲家ではなかった三木良一と、音楽に通じたこともなかった一条千夜子が作ったものなのですよ。今は共に音楽家なのですから、それに相応しい曲を作ってくださいよ。」
「いや、そこまで強く否定しなくても……。」
「いいえ、それだけじゃないんですよ……だってあの曲は私達が音楽を繋いだものですから、二人だけのものとしておきたいのです。」
「うん、確かにその通りだな。ならば折角の思い出の曲なのだから、これは敢えて手を加えずに、そっとしておこう。」
私達はあの時とはお互いにもう違う立場だ。ならば、それに応じて曲も進化しなければならないだろう。
「なら作詞は誰にしてもらいたいんだ?」
「それは……やはり寺山先生に頼みたいですわね。三木良一先生と寺山俊夫先生は、私にとって最高の組み合わせですから。」
「それに歌姫の三木千夜子が歌えば最強だな。」
「うふふ、そうでございますわね。引き受けてくださるでしょうか?」
「間違いなく引き受けてくれると思うよ。彼も千夜子の才能に惚れているのだから。」
どうやら作詞家は、私の親友で妻の最初に歌手として売り出した時の曲の作詞をした彼に頼みたいようだ。
彼とならきっと妻に合い、人々の心を震わせる歌詞を書いてくれるに違いない。それならば、私もしっかりと曲作りをしなければならないと使命感に燃える。
それに、今なら悩んでいた曲も納得出来るものを作れそうだ。この吉野山での休息をもう少し堪能したら、早速仕事に取り掛かって、その後すぐに妻の曲に取り掛かろう。
まだ作ってもいないのに、素敵な曲が出来る予感がするのだから。