6 虎尾伊吹と美味しい食事
虎尾家の風呂は広く、綺麗に手入れがされている。特に、大きなヒノキの湯船は香り高く湯が柔らかく感じた。石鹸も髪用と体用で分かれていたし洗っただけなのに不思議と鏡花の髪はツヤツヤになった。
ただ、体中にできた擦り傷や切り傷が痛みゆっくりと風呂を楽しむことはできなかった。
「素敵……」
しっかりと体を温めてから脱衣所に戻るとそこには、慎ましやかな桜模様の浴衣が用意されていた。実際に手に取って広げてみると、細かい桜の花びらが繊細で美しく目を惹くものだった。
虎尾家の家紋が刺繍された手ぬぐいを丁寧に畳んで、汚れ物のカゴの中に入れる。虎尾家といえば鏡花でも知っているくらい有名な名家で、最近「公爵」という爵位を与えられたことが街でも話題になっていた。五大華族は全員「公爵」と呼ばれるようになったが、それがどのような権威のものなのかというのは詳しく明かされていない。
「私、大丈夫かしら」
鏡花はボソッと呟いて、鏡に映った自分を見た。頬や額についた細かい擦り傷や切り傷があるものの美しい浴衣とツヤツヤになった髪のおかげで幾許かマシだと鏡花は思った。
脱衣所のドアを開け、外に出ると鏡花は小さく「紬さん」と声をかけ、すぐに紬がやってきた。奇妙な天狗の面が鏡花をじっと見つめているようで、怖かったが紬の優しい声ですぐに恐怖心は無くなった。
「鏡花さん、もしよければ旦那様とお食事をとっていただけないでしょうか」
「え? お食事……?」
「はい。正午は過ぎていますが旦那様は一人で食事を取るのはあまり好きではないようで」
「えっと……」
「無理にとは言いません。鏡花さんのお部屋の準備はできておりますのでお休みを希望でしたらそちらに案内しますが……」
(助けて頂いたのに、お誘いを断るのはダメよね。本当はすごく疲れていて今すぐにでも横になりたいけれど……)
「お食事を頂いても良いのですか? もしよければ温物だけ頂けるとありがたいです」
鏡花の答えを聞いて、紬はほっと胸を撫で下ろすと「承知しました」と頭を下げた。
「こちらです。食べ物の好き嫌いはございますか?」
紬の小さな後ろ姿を追いながら鏡花は「ありません」と答える。紬は少し驚いた様子で振り返って
「嫌いな食べ物はないのですか。例えば、椎茸とか春菊とかもですか?」
「えぇ。好き嫌いを許されるような環境ではなかったですし、子供の頃は苦手と感じていたものも15を過ぎたくらいからは美味しく食べられるようになりましたよ」
「えぇ……」
「紬さんは、椎茸や春菊が苦手ですか?」
「お恥ずかしながら、苦味が強いものが苦手です」
「私も小さな頃は涙を流しながら食べた記憶があるわ」
二階に上がり、少し歩くと、靴を脱いで一気に和風の廊下へ上がる。この屋敷はロビー部分と一階は洋風で、二階と三階は日本屋敷のような雰囲気になっている。
紬は、最近の客人は洋風をハイカラだと喜ぶので先代の当主が客がくる部分だけ洋風にして、生活部分は今までと同じ過ごしやすい和風になったと鏡花に説明してくれた。
「では、鏡花さんは旦那様の向かい側にお座りください。足元は冷えますか? 掘り炬燵をつけましょうか」
案内されたのは、高級料理店の個室席のような部屋だった。掘り炬燵になっていて、十畳ほどの広い空間に六人くらいが座れる掘り炬燵がある。
その真ん中の席に虎尾伊吹が座っていた。彼は、先ほど鏡花が見た様子とは少し違っていて、耳も尻尾もない。ツヤツヤの黒髪と目鼻立ちの整った顔、気品よく着こなしている着物は江戸小紋の高級品。
「鏡花さん、傷の具合は?」
「問題ありません。少し染みますが大きな怪我はありませんでした」
「よかった、さぁ座って。いやぁ、久々に誰かと一緒に食事ができるから嬉しいよ。俺の事は伊吹って呼んでくれていいよ」
鏡花は彼の向かい側に腰掛けて、暖かい掘り炬燵に足を突っ込んだ。風呂から出たばかりで少しぽかぽかしていたが、心地が良くて表情が緩む。
「そんな、せめてさん付けはしても良いですか? 流石に、公爵様を呼び捨てだなんて……」
鏡花の回答を聞いた伊吹は不貞腐れた犬のように鼻をひくつかせてそっぽを向く。さっきまでは生えていなかった耳と尻尾がポンッと生えてきて、彼の大きな三角耳がぺしょりと倒れてしまった。
(あら……ご機嫌が悪いワンちゃんみたい)
「そうやって、みんな俺と平等になってくれないんだ。葉や紬も。ほら寂しいだろ? 旦那様って呼ばれるのは……。対等なはずなのに立場とか血筋で格差ができて、距離ができる。鏡花さん、貴女にはそうなってほしくないんだよ」
「助けて頂いたのに、五大華族様と対等に……?」
「そう、敬語だって使わなくていいし。俺のことは伊吹とか、そうだ! なんならあだ名で呼んでくれてもいいぞ!」
「では……伊吹、と呼びます」
「よぉし。敬語は段々慣れてくれればいいぞ」
鏡花をキラキラした黄金色の目で見つめ、伊吹はブンブンと尻尾を振った。鏡花はそんな彼を見て、ふっと口角が上がり口元を手で隠して微笑んだ。その微笑みは意図したものではなく自然と溢れ出たもので、鏡花自身も驚いてしまった。
「旦那様、お食事の時は毛が飛ぶので耳と尻尾をしまってくださいと言ったじゃありませんか」
お盆に料理を乗せた紬がぴしゃりと言った。すると、伊吹は「まずい」とばかりに耳を押さえてぎゅっと目を閉じる。ポンッと可愛らしい音がして、彼が一瞬煙に包まれて、次の瞬間には耳も尻尾も無くなっていた。
「鏡花さん、ご希望の温物です。こちらは、季節のお野菜と筍を鯛の皮を使ったお出汁で煮込んだ逸品です。もし、足りないようでしたらお声がけください」
一級品の漆の器に、透き通った出し汁。中には彩り良い野菜と筍が品よく沈んでいる。香りだけでもご飯が食べられそうなくらいで、鏡花はごくりと喉を鳴らした。
「美味しそうだろう? 紬は料理が得意でね。あぁ、紬。ネギは抜いてくれた?」
「はい。旦那様のお嫌いな長ネギ、玉ねぎ、その他香味野菜は抜いております。ご安心ください、鏡花さんのお料理には影響は出しておりませんので」
それから、懐石料理がどんどんと運ばれてくる。彩りよく美味しそうな料理が並び、伊吹と鏡花はゆっくりと食べすすめていく。
鏡花が口にした温物は味わい深い出汁と優しい野菜の味。口の中からお腹の中までじんわりと温かくなり、自然と彼女は体の力が抜けた。
一方で、伊吹は懐石料理を端からパクパクと口に入れ、鏡花からすれば作法も何もあったものでない食べ方ではあったが、彼があまりにも美味しそうに食べるので作法なんて意味のない物だと鏡花は知った。
「鏡花さんは……そうだ。俺も鏡花って呼んでもいいかい?」
「あっ、はい。お好きに呼んで下さい」
「鏡花はそれだけでいいのか? 紬の料理はうまいぞ。ほら、この肉とか美味しいぞ」
伊吹はお皿の上に乗った鶏肉を別のお皿に乗せて鏡花の方へとよこした。
「ですが、これは伊吹のために用意されたものだし……」
「そうだけど、美味しいものは共有したいだろ? ほら、一口でいいから」
懐石料理は「一度箸で掴んだものを皿に戻してはいけない」ときつく躾けられていた鏡花は、そんな作法などお構いなしに別皿にうつされた鶏肉に驚きつつ伊吹の善意に応えるように皿を受け取った。
そして、鏡花はこんがりと焼かれた鶏肉を口の中に入れる。程よい弾力のあと、鶏肉はほろほろと口の中で崩れ、シンプルな塩味と炭火の香りが広がった。
「美味しい……」
鏡花を見て、伊吹はびっくりして一瞬戸惑った。
なぜなら、彼女は涙を流していたからだ。その上、そのことに彼女は気がついていなくて、彼女の中に深い悲しみがあるようなそんな予感がしたからだ。
「鏡花? 大丈夫かい?」
「へっ……」
「いや、泣くほどだったかなって……」
鏡花はそう言われてから丁寧に箸を置くと自身の頬を触って驚いた。自分の目から流れている涙は意図するものではなかったからだ。
「すみません。どうして……」
困惑する鏡花を心配そうに見つめる伊吹。鏡花は溢れる涙を必死で拭いながら取り繕うように笑って、それからまた彼女は泣いた。
鏡花は、しばらく涙を流してそれから自分が初めて「味」を感じたことに気がついた。彼女にとって「食事」というのは窮屈で恐ろしい行為だったからだ。少しでも作法を間違えれば箸を取り上げられ叱咤される。美味しそうに食べる妹を前に自分だけ膳を取り上げられたこともある。
鏡花にとって、食事の時間は苦行だった。だから「味」なんて感じる暇はなかった。
(食事はこんなにも美味しくて素敵なものだったんだわ。作法なんて気にしない人と一緒に楽しく食べることはこんなに幸せなんだわ)
「美味しくて……すみません。涙が」
「泣くほど美味しかったってことか。紬! 鏡花にも他の料理を出してあげてくれ!」
伊吹の掛け声のあとすぐ、紬は鏡花用の懐石料理を運んできた。好き嫌いが多い伊吹とは違って鏡花のものはより豊かで量も多い。
「さぁ、鏡花。一緒に食べよう。紬の料理はうまいぞ。それに二人で食べたら一人で食べるよりもっと美味しいんだ」
伊吹は、三角耳をピンと立てて尻尾をブンブンと振った。それをみて鏡花はまた微笑み、すっかり涙は流れなくなっていた。