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5 虎尾邸へ

 鏡花は身を捩り、這いつくばるようにして慶たちが向かった先に行こうとしても足はうまく動かないし、斜面を登ることは難しかった。しばらくして、彼女は足を滑らせ元の場所よりも低い場所に転がっていった。硬くて冷たい土と虫、木の葉がくっついて気色が悪く、泣いても喚いても助けがくることはない。

 体を起こすことすら難しい。このまま自分は獣の餌になってしまうのかと恐怖に支配され、彼女は必死でどこかへ逃げようと体をよじった。


(助けて、怖い)

(いや……死にたくない)


 獣の唸り声が響き、鏡花はぴたりと動きを止めた。目の前の草むらがゴソゴソと動く。狼か、熊か。明らかに草食動物ではない唸り声だった。

 ぎらりと二つの目が光って草むらの奥からじっと鏡花を見つめていた。あまりの恐怖で鏡花は気を失った。




***



「旦那様! もしやまた山で拾ってきたんですかっ!」


 若い男の声がガンガンとロビーに響き、男は表情を歪めた。妙にキンキンした声が男の耳を刺激したのだ。男は古い留袖を身につけた若い人間の女を横抱きにしていて、その女は顔に土やら米粒やらをつけて汚らしいが、よく見れば美しい女だった。


「葉、あまり大きな声を出さないでくれ。紬は? 彼女を風呂に入れて服を貸してやってほしい。かわいそうに、手を縛られているきっと人攫いにでもあって酷く捨てられたのだろう」


 葉と呼ばれた男は不満げに口を尖らせ、内側がピンク色のネズミ耳をピクピクと震わせた。


「旦那様は山ですぐに動物を拾っちゃうんですから……紬さん。お呼びですよ」


 葉がいい終わる前に、彼の隣に少女が舞い降りた。少女は山伏装束を身に纏い黒い髪を後ろで結衣上げている。天狗の面をつけたまま跪いた。


「旦那様、お呼びでしょうか」

「あぁ、紬、悪いね。この子を綺麗にしてやってくれないか。女物の着物があるといいんだけれど」

「客人用の浴衣しかございません。まだ正午ですし葉が走って買いに行けば良いかと」


 突然、指名された葉はビクンと体を跳ねさせ小刻みに首を振った。


「頼めるか、葉」

「はぁい……」


 葉が鼠色のザンバラ髪をくしゃくしゃと掻いて、部屋から出ていくと男は自分の腕の中にいる女に言った。


「お目覚めかな、お嬢さん」


 鏡花は、彼の黄金色の不思議な目に吸い込まれそうになった。それから黒い髪、頭の上に生えた大きな三角耳を見てギョッとする。目を丸くしている鏡花の視線を見て、男は上を向き、黒銀色の耳をピロピロと動かした。


「驚家せてすまない。俺は虎尾伊吹。えっと、妖の血を引いているんだ。耳と尾はそのせいでこんな形をしているんだけれど、その他は君と同じ人間さ。君を山で見つけて家まで連れてきたんだけど……」

「旦那様、自己紹介が下手すぎます。お嬢様、このお方は日本五大華族、虎尾家の当主である虎尾伊吹様にございます。虎尾家は狼の妖の血を引いております故、このように耳や尾に特徴がございます。とはいえ、五大華族は皆妖の血を引いておりますので我が虎尾家が特別ではございません。お嬢様、よければお話を聞かせていただけますか?」


 天狗の面をつけた少女の声色は優しく、鏡花の表情が少しほぐれた。伊吹はそっと鏡花を立たせると紳士的な距離を保つように身を引いた。


「私は……遊馬、鏡花と申します」


 虎尾邸は洋風の内装でとてもハイカラだ。頭上にはキラキラ輝く不思議な照明、見たことのないような金色の模様が入ったツボ。絵画は見たこともないような色とりどりで鮮やかだった。

 ロビーから続く大階段の先には不思議な形の甲冑が飾られていて今にも動き出しそうだった。


「この子は紬。家に住んでいて俺の世話役だよ。彼女は天狗の一族なんだけれど、羽が小さいせいでこの山に捨てられていたところを俺が拾ったんだ」


 紬は鏡花に背中を向けて、飛ぶにしては小さな黒い羽を見せてくれた。不気味な天狗の面を恥ずかしそうに擦って、紬はそっと後ろへと下がった。


「で、さっきまでここにいた男の子は葉。彼は窮鼠というネズミの妖でね。この山で迷っていた所を俺が拾ったんだ。彼は臆病で食いしん坊だけど働き者でね。あとで世話になるといい、うちの雑用係だよ」


 伊吹は軽く笑って見せると鏡花の言葉を待った。しかし、鏡花は言葉に詰まり、話すことができない。苦しそうに胸を抑え、涙を流すばかりだった。


「紬、暖かい風呂を用意してあげなさい。鏡花さんと言ったね。君がどんな理由であの山にいたのかは無理に聞かないよ。ここではゆっくり、暖かい場所で好きなだけ食べて好きなだけ寝るといい」


 伊吹の尻尾がふわふわと揺れる。その尻尾は彼の耳と同じ黒銀色で箒よりも滑らかでふわふわした毛流れが美しい。喜んでいるのだろうか、鏡花にはわからなかったが、犬の尻尾が揺れるのは喜びか警戒。けれど伊吹の表情は柔らかく「警戒」の意味はない。


「旦那様、尻尾が揺れていますよ」

「はっ……嫌、これはその。気にしないでくれ。ささ、紬。彼女を風呂へ」


 伊吹は少し顔を赤くするとそっぽを向いて咳払いをした。その間も、尻尾は優しく左右に揺れている。紬は「はぁ」とため息をついて鏡花の方に向きなおる。」


「かしこまりました。鏡花さん、こちらです。段差に気をつけてくださいね」


 紬は鏡花の手をとって歩き出した。


「大丈夫ですよ。私も旦那様も葉も鏡花さんに危害は加えません。ここにずっと居て良いというお言葉も本当です。私も、数年前に旦那様に拾われたのです。彼は悪意などなく本気で貴女を助けたのですよ」


 紬は長い廊下を渡り、それから突き当たりにあるドアを開けた。中は広い脱衣所になっていて、その奥には温泉旅館のような大浴場になっている。


「そうだ、このお風呂の入り口にある札を使用中に変えてから使ってくださいね。そうじゃないと旦那様や葉が間違えて入ってくるかも。汚れ物はこちらのカゴに、新しい置物はすみません。ここにはまだ客人用の浴衣だけで。これで我慢してください。湯浴みが終わったら私……紬をお呼びください」


 紬は鏡花にお辞儀をすると、脱衣所から出てドアを閉めた。広い脱衣所は、鏡花が小さい頃に家族で泊まった温泉旅館の大浴場を思い出させた。けれど、すぐに胸が苦しくなる。鏡花は家族である妹と夫に裏切られたのだ。

 妹の笑顔を思い出すだけで、鏡花の胸はぎゅっと締め付けられた。



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