4 置き去りにされた鏡花
その夜から、鏡花の日常は地獄に変わった。自分を愛する気のない夫の世話を焼き、母には作ることも出来ない子供の事をチクチクと言われる。夫は人として鏡花によく接してくれるものの、夜はこっそりと何処かに行くようになった。
(楽しみだったお出かけが全く楽しみではなくなったわ)
土曜の朝、すみれと慶に言われた通り握り飯を作り弁当箱に詰めながら鏡花はため息をついた。離れにやってきていたすみれの声が台所まで響いてくる。
「お義兄様、お義兄様。どっちがいいかしら? この髪飾りとこっちの蝶々と」
「うーん、どっちも似合うと思うよ?」
「そう? せっかく皆でお出かけするのに妥協するのは良くないもの。やっぱりお着物も変えようかな」
慶の笑い声が響き、すみれがバタバタと母家の方へと向かう。すみれのような少しわがままで聞かん坊なくらいが男にとっては良いのかもしれないと鏡花は考えたが、それはすみれの美しさあってのことで自分には到底真似できないと諦めるのだった。
「鏡花、君はおしゃれしなくていいのかい?」
慶が台所まで降りてきてそう言ったが、鏡花は静かに首を振った。
「留袖は母のお下がりのこれしか持ってないです。外食時のドレスと高級な留袖もあるのですが、山へ行くとなると汚れてしまいますし……」
「そうかい。せっかくならと思ったが持っていないなら仕方がないね。とは言っても、僕の妻として外に出るんだから化粧くらいしなさい。水筒の準備は僕がしておくよ」
慶は鏡花から水筒を取り上げると、優しく微笑んで彼女に化粧をするように言った。そうされてしまっては反抗できない鏡花は乗り気ではなかったが、自室の化粧台へと向かった。
***
馬車に乗り、山へ向かっていた鏡花たちは、すみれの提案でお茶とクッキーを楽し無ことになった。馬車の中、各々水筒を取り出しすみれが前日に焼いたクッキーを可愛らしい箱から取り出した。鏡花とすみれは隣に座り、その向かい側に慶が一人で座っている。
「緑茶に合うように、ちょこっと甘めにしたの。お姉さま、食べて食べて」
鏡花は、すみれに渡された可愛らしい花形のクッキーを口に入れる。ほろりと口の中で解ける食感と甘さ。すぐに口の中が乾いて緑茶に口をつけた。
「美味しいわ、すみれ」
「よかったぁ。お姉さまは甘いものが好きですもんね」
「えぇ、あれ……すみれ? 慶……さん?」
鏡花は薄れゆく意識の中で、すみれと慶がニンマリと笑うのを見た。水筒が手からこぼれ落ちて少し味の濃い緑茶が溢れていく。
(そうだ、このお茶は慶さんが……)
「おやすみ、お姉様」
鏡花の意識が途切れたのを確認すると、すみれは慶の隣へと移って彼にそっと抱きついた。慶も彼女を抱き寄せると熱い口づけを交わし、それから御者に「例の場所へ」と冷たい声で言った。
馬車は慶の命令で行く道を変える。向かうのは展望台がある人通りの多い山ではなく、狼や熊、妖なんかも出ると噂の山だった。マタギが使う獣道をなんとか馬車で通り抜けるが、すぐに馬の足が止まり、御者が「これ以上行くと方向転換が出来ない」と音を上げた。
「こちらで処理するから、ここで待っていてくれ。その間に帰る準備を」
慶は鏡花を抱き上げると馬車をおり、すみれも彼に続く。馬が怖がって震えるくらい森の中は暗く、恐ろしい雰囲気に満ちていた。まだ昼前だと言うのに太陽の光は届かない。その上、恐ろしい獣の唸り声がそこら中から響いている。
「すみれちゃん、縄を」
「えぇ。はい」
慶は、馬車を止めたところから少し斜面を降り、びっしりと草が生い茂っている場所で鏡花を下ろす。そのまま彼女の腕掴んで後ろ手に縛ってしまう。
彼女の顔は土で汚れ、そのひんやりした感触で「うーん……」と意識を戻してしまった。
「睡眠薬が緑茶で薄れたか……?」
鏡花は自由の効かない手と土と草の香りに驚いて目を見開いた。
「これはっ、どういうことですかっ」
「うるさい」
慶は弁当を包んでいた風呂敷を細長く捻ると乱暴に鏡花の口に咥えさせて頭の後ろで縛った。涙を流し、懇願するような目で見る鏡花にすみれは悪魔のような微笑みを振り下ろす。
「お姉さま、お姉さまが死んでくれないと私と慶さんが一緒になれないの? ごめんね? でもお姉さまはいつだってすみれに譲ってくれるもんね? それに……」
すみれは慶を熱っぽく見つめる。鏡花はうんうんと唸るだけで言葉は発することは出来ない。
「すみれね、慶さんと愛し合ってるの。ほら、あの日よ。お姉さまがたい焼きを買ってきてくれた日。あの日、私たちは恋に落ちたの。もちろん、慶さんは私を愛してくれたわ、それは情熱的にね。それからほとんど毎晩、私たちは逢瀬を重ねたの。お姉さまは初夜もまだなのに」
くすくすとすみれが笑うと、慶もそれに合わせて微笑みを浮かべた。
「すまないね、鏡花。地味で色気もない君と違ってすみれちゃんは可愛くて……それはそれは色気もたっぷりだ。もちろん、ただの婚前交渉にするつもりはないよ。僕は、君をここに置き去りにして殺すことで彼女と一緒になるんだ。結婚前の彼女に手を出してしまったこと、君を殺すことで償うんだよ」
(狂ってる……! 離して)
鏡花は体を強く動かそうとするも、まだ睡眠薬の影響なのかうまく動けない。
「無駄だよ。睡眠薬の他に筋弛緩剤も調合させたからね。君はここで獣たちの餌となって骨までしゃぶり尽くされるんだ。ごめんね、でも君が悪いんだよ。魅力も色気もないから」
どしゃ、と鏡花の顔に何か重くて柔らかいものが当たった。鈍い痛みに目を閉じて、それから土に落ちた米粒を見て投げつけられたのが握り飯だと理解した。すみれは、弁当箱に入った握り飯を鏡花に投げつけ、それから
「お姉さまのお料理って美味しくないのよね。これがあれば少しは生き延びられるかも? あら、獣がもっと早く寄ってくるかも。立ち上がって逃げないと」
立ちあがろうとしても足に力が入らず、つまづいた鏡花は思い切り地面に顔をぶつける。それを見て慶とすみれはくすくすと笑った。
「すみれちゃん、そろそろ行こうか。そうだ、帰りに僕の知っている高級店に寄っていく買い? 個室である程度自由は聞くんだ。二人の記念日にぴったりじゃないか」
「ほんと? やっと邪魔者がいなくなって堂々とお義兄様……じゃなくて慶さんと一緒にいられるわ」
「慶でいいよ。ほら、僕の可愛い未来の奥様、服が汚れたらいけないね」
慶はすみれを横抱きにすると、鏡花には目もくれず馬車に戻っていった。鏡花は涙を流しながら必死に助けを叫ぶがその声は猿轡に吸われて届かない、だんだんと慶の背中が小さくなっていき、しまいには馬車が出発する蹄の音が聞こえた。
鏡花は妹と夫の手によって、山中に置き去りにされてしまったのだ。




