28 再びの求婚
「伊吹?」
「遅くなって申し訳ない。さて、慶殿。俺の婚約者から離れてもらおうか」
伊吹は慶をぐいっと引っ張って尻餅をつかせるとさっと鏡花のそばに立った。鏡花は着物の乱れを直してから立ち上がり、伊吹の後ろに移動した。
騒ぎを聞きつけたすみれが二階から降りてくると、彼女は伊吹の顔を見て驚いたような表情になる。
「虎尾様? どうしてこちらに?」
「どうしてもこうしても、婚約者を迎えにきたんだよ」
「婚約者? お姉ちゃんが? そんな知らせこの家には届いてないけれど」
「おそらく、郵便がうまく届いていないだけだろう。出したはずだが?」
伊吹はそう言ったが、それがハッタリであることを鏡花は知っていた。まだ求婚されただけで、婚約なんて話にはなっていなかったし鏡花もこの実家に戻ってくる気はなかったのだから。
「とにかく、お父様とお母様に話さないと」
すみれはまるで伊吹を脅すように言ったが伊吹は
「そうしてくれ。今ここで俺の大事な婚約者に乱暴をしようしていたことも追求しなくては」
と言い返し、慶はガクガクと震えていた。
***
遊馬家、本家の応接間には遊馬家全員と伊吹が集まっている。すっかり酔いも覚めて青褪めている遊馬家当主の周蔵はだらだらと冷や汗をかいている。
「まさか、我が娘と婚約だなんて知らなかったことで……郵便が紛失されていたとはいえあの場で娘の、そして貴方様の話を聞かなかったことは私の落ち度でございます」
周蔵の言葉に苛立ちを隠せずにいるのはすみれだけだった。すみれは納得がいかない様子で何度も唇を噛んだ。
「先ほど、私がここへきた時に悲鳴を聞き駆けつけたところ慶殿が鏡花さんに乱暴をしようとしておりました。まさか、遊馬家ではそのようなことが? それにあの悲鳴を聞いてみなさんは何も感じなかったのですか?」
「いや、我々も目を覚ましたよ。離れに行こうかと思っていたところ君が現れたというわけだ」
「そうですか、随分落ち着いていらっしゃるのですね」
伊吹の視線には怒りがこもっており、その視線を受けた周蔵は咳払いをしてから慶に「どういうことだね」と質問した。
慶はだらだらと冷や汗をかきながら、つぶやく。
「それは、その……妻が妊娠中でその妻に」
「お姉ちゃんが誘惑したに決まっているわ。慶は今日、たくさんお酒を飲んで酔っていたのよ。誘惑されて血迷っただけ。悪いのはお姉ちゃんよ」
慶が真実を話そうとするのを遮るようにすみれが声を上げた。周蔵と久子は顔を見合わせてそれから慶に「そうなのか?」と周蔵が聞く。慶は震えたまま俯いて頷いた。
「娘さんには聞かないのですね。馬鹿みたいに妹の意見を信じるんですか? 鏡花、本当に君が誘ったのかい? 誘ったにしては悲鳴をあげていたが? あなた方も先ほど悲鳴を聞いて離れに向かおうとしていたのでは? もしも鏡花さんが誘ったならあのような悲鳴は上がらないはず」
「っ!」
すみれが何か言い返そうとしたが、伊吹が遮るように
「鏡花、本当は何があったんだ」
と優しく聞いた。鏡花はやっと震えが収まり隣に座っている伊吹のおかげで少し落ち着いていた。
(お父様もお母様も私の言うことは信じてくれたことはない。いつだって、すみれの意見を信じて私が悪いことになっていた。だから、信じてもらえないかもしれない)
鏡花が言い淀んでいると、伊吹がそっと彼女の手を握った。鏡花は驚いて伊吹の方を見ると、彼は優しく頷いた。
「大丈夫、君のことを信じている人間がここにいる。何があったのか、話してくれ」
鏡花はゆっくり深呼吸をして静かに話した。
先ほど、すみれが「漬物壺を動かしたい」と鏡花を母屋まで呼びにきたこと。漬物壺を動かしていたら慶が現れたこと。
「すみれは、妊娠中の慶さんの相手を私にするように命じました。私……なら嫁の貰い手もないから万が一があっても問題ないと」
「すみれがそんなこと言うはずないわ。鏡花、嘘も大概にしなさい!」
久子が振り上げた手を周蔵が止めた。
「貴方?」
「久子、みっともない真似はよしなさい。虎尾様の証言もあるが鏡花の手を見てみなさい」
久子が鏡花の手を見ると、そこには土埃がついていた。
「あれは、離れの土間にある漬物壺の底を持って移動させたなによりもの証拠だろう。その上、鏡花は慶君との結婚が嫌で逃げ出したのに彼を誘うとは思えない」
「貴方……では、すみれが嘘をつくような子だと? そう言いたいの? 不出来な鏡花ならいざ知らず、すみれは嘘をつく理由なんてないわ」
「久子、お前が何を言おうと我々は虎尾家には逆らうことはできん。鏡花はいまや、その虎尾家の婚約者だ」
「でも私たちが知らされず、両家の顔合わせもしていないのに婚約なんてそもそも成立しないわ。鏡花のような不出来な子をそんな由緒正しい華族様にお渡しするなんて恥ずかしい」
「久子、いい加減になさい。我々のような小さな家が華族様からの申し入れを断ることが許されると思っているのか! 何より、これが大事になれば我が家の立場も危うくなる」
「でも……すみれが嘘をつくなんて」
「すみれさんのやったことはこれ以外にもあります。まだ、証拠が集まっていませんからそれは後ほど我が虎尾家から通達します。遊馬家、堂上家とも関わりのある甘煮家にも報告させていただきます。何せ大事な婚約者を傷つけられるところだったんだ」
「この度は我が家のものが申し訳ございませんでした」
周蔵が深々と頭を下げ、それから伊吹は鏡花の手をとって応接間をあとにした。
「鏡花、大丈夫か?」
「えぇ……ごめんなさい。突然のことでまだ状況が飲み込めてなくて」
「でも、言えたじゃないか」
「言えたって何を?」
「鏡花が嘘をついてないってことをだ。あの様子じゃ、ずっと妹の嘘を両親は信じて鏡花のことは誰も信じてくれなかったんだろう? でも今日は違う。鏡花はちゃんと言った。伝えた」
「それは、伊吹がいてくれたから」
「あぁ、そうだな。大きな権力が目の前にあるから鏡花の意見を渋々飲んだようなそんな感じだった。なんてことだ、まさかこんなにも酷いとは思わなかったよ。けれど、もう安心してくれ」
「もう、帰りたくないです」
鏡花の絞り出すような声に伊吹はハッとして、それから彼女を抱きしめた。
「あの日、鏡花の家族が連れ戻しにきた日。君を引き止めなかったこと今でも後悔しているよ。すまなかった」
「あの日は、私が決めたことです。私のような人間が虎尾家にいたらいけないって……あの人たちの顔を見て声をかけられたらそう思ったんです」
「断じて、そんなことはないぞ」
伊吹は真剣な表情で鏡花を見つめゆっくりと話し出す。
「俺は、狼の妖の血が入っているって話したよな」
「えぇ。聞いたわ」
「俺たち虎尾家の男は『一生涯でたった一人の女性しか愛せない』んだ」
「たった一人?」
「本当はさ、これを鏡花に話したら大きな重圧になって俺のことを好いてないのに結婚させる羽目になるかもしれないって思ったから言えなかった。すまない」
つまり、鏡花は自分が伊吹の「愛している人」であることを理解し、ぶわっと赤くなった。
「だから、もしも気持ちが少しでも俺にあるなら……俺との結婚を前向きに考えてほしい。前に言ってたように、鏡花の気持ちの整理がつくまでうちで花嫁修行、してくれてかまわないから」
伊吹はもう一度「結婚してほしい」と言うと鏡花の手を握ってじっと彼女を見つめた。鏡花は小さく頷いた。




