27 さらなる地獄と救世主
食事を抜きにされた鏡花はふらふらしながら自室へと戻った。食事だけでなく風呂も入る暇もなかった。この夜に風呂を沸かそうものなら母が飛んできて鏡花を叱咤することがわかっていたから、濡れた冷たい手拭いで体を拭くだけだった。
ほとんど空っぽの寝室に戻り、寝巻きに着替える。教科が布団に入ろうとした時に襖の前で声がした。
「お姉ちゃん、もう寝ちゃったかしら」
「すみれ?」
「入ってもいい?」
「えぇ……」
すみれはそっと鏡花の部屋に入ってくると、何事もなかったかのように平然と振る舞った。あの日、すみれは鏡花を殺そうとした。その事実を思い出して、鏡花は背筋が凍った。
(でも、すみれの目的は……慶さんは彼女のものになったのだからもう私に用はないはず)
「お姉ちゃん。離れにある漬物なんだけどね。どうしても場所を動かしたいの。私一人じゃできなくて、手伝ってくれない?」
「漬物って……慶さんは?」
「それが、慶もお父様も飲みすぎてすぐに寝てしまったのよ。けど、明日の朝食のお漬物をねどうしても。お願い」
鏡花はすみれの図々しさに呆れつつ、こうなってしまっては彼女は絶対に引かないことを知っていたので嫌々ながら腰を上げた。本家から渡り廊下を通って離れへと入る。鏡花が暮らしていた頃に比べると、離れはかなり華やかに飾られており見違えた様子だった。
「そうそう、私懐妊したのよ。今日、お夕食の席で発表したんだけど……そっかお姉様が台所にいたものね。祝ってね。この子が遊馬家の後継ぎになるの」
すみれは重い漬物壺を動かす鏡花を見ながら幸せそうに帯の下の方を撫でた。
「ここで大丈夫?」
「えぇ、ありがとう。あとね、もう一つお姉ちゃんにお願いがあるの」
「え?」
ゆらり、すみれの後ろに大きな影が見えた。目をこらしてみると、薄闇に浮かぶのはよく見た顔だった。ただ、以前とは違ってギラギラしたような瞳がやけに恐ろしかった。
「慶……さん?」
「やぁ、鏡花」
「君には言ってなかったけど、僕とすみれは一度虎尾伊吹に街で出くわしていてね」
「それが……どうかされたんですか」
鏡花は恐怖から一歩後ろへと下がる。それと同時にすみれが慶の後ろに立ち、笑顔からすっと真顔に変わった。
「虎尾伊吹は僕を殴ったんだ。あの日の事で僕とすみれを攻め立ててね」
「えっ、伊吹が……」
「伊吹……か。呼び捨てにするほど親しい仲だったのかい? 君のような女性が?」
「それは……彼は怪我をしていた私をたまたま山中で見つけてよくしてくださっただけです」
「へぇ、いきなり街で人を殴りつけるほどかい?」
「家族を痛めつけて山の中に置き去りする事は、どんな人が聞いても怒ると思います」
「っ……。鏡花、君は口答えが多くなったな」
「お姉ちゃんはあの伊吹さんが好きなの?」
すみれは落ち着いた声でそう聞いたが、どこか殺気立っていて刺すような冷たさの含む声色だ。鏡花は咄嗟に伊吹に迷惑をかけられないと嘘をつく。
「いいえ、あの方は私が好きになっていいようなお方ではないわ」
「ならよかった」
すみれが急に甲高い声で喜んで見せると、慶と腕を組んでにんまりと微笑んだ。その顔はあの日、死を前にした鏡花に見せた恐ろしい笑顔だった。
「あのね、私が妊娠して慶さんの捌け口がなくて困っているの。ほら、アッチの方の。けれどうちはお妾さんを養えるほど裕福ではないし、私も知らない女が慶さんと情事を楽しむのはヤキモチを妬いてしまうの。だからね、お姉ちゃん」
すみれは恐ろしいことを口にした。鏡花に体を明け渡せと言ったのだ。
「すみれ、何を言っているの?」
「だから、慶を満足させてくれればいいの。私はお姉ちゃんだったら慶が抱いても構わないわ。ヤキモチは妬かない。それにお姉ちゃんはどうせお嫁の貰い手がないってお父様も言っていたから、これでもし子供ができても問題ないでしょう? 夫婦で話し合ったのよ?」
「そんな、私にはできません」
「どうして? 前は慶に抱いてもらえないって悩んでいたじゃない? 解決するのよ?」
鏡花は震えを抑えることができず、歯がカチカチと鳴る。
確かに、慶と夫婦だった時は彼が自分に欲情しないことがショックだった。女として見られないことが鏡花を強く傷つけたが、今は違う。
自分を殺そうとした人間に触れられることは鏡花にとってみれば「死」とも変わらない恐怖だった。それも、この遊馬家という鳥籠の中で自分を殺そうとした男に……というのは地獄以外の何もでもない。
その上、もしも妊娠するようなことがあれば「嫁に行くことで遊馬家から離れること」もできなくなるだろう。一生、この家で奴隷のように扱われることが確定するのだ。
「行こうか」
慶は鏡花の手首を掴んでぐいぐいと引っ張った。男の力に敵うはずもなく引きづられるようにして居間へと連れていかれる。すみれは満足げな顔で二階へと上がっていき、居間には慶と鏡花が取り残された。
「慶さん、こんなことはやめて」
「お前、僕と結婚していた時はそんなことなかったのに」
「何を言っているんですか? そもそも慶さんは私に女性として魅力がないって。おっしゃっていたじゃないですか」
「まぁ、あの頃はな。でも五大華族の虎尾伊吹が抱いた女なら価値があるってものだよね? 僕があいつよりも上だって示せることになる」
「あの人はそんなことしない。私はただ部屋を借りて住まわせてもらっていただけです」
「まさか、ならあの男はなぜ僕を殴ったんだ? お前の色気は? まぁいい、お前に拒否権などないんだ」
そういって慶は乱暴に鏡花の両肩を押して彼女を組み伏せる。嫌がって抵抗する彼女を平手打ちして黙らせ、襟元を手でぐっと握り込んだ。
「やめて!」
鏡花が声を上げると、慶はムッとした表情をして今度は拳を振り上げた。鏡花はぐっと目を閉じ顔を逸らす。
しかし、その拳が振り下ろされることはなく慶の悲鳴が響いた。
「鏡花、遅くなって悪い。迎えにきた」
そこには、鏡花の待ち望んだ男が立っていた。




