序
婚姻システムのトポロジカル分析、と銘打たれた論文は、そう書き始められていた――「人間の本質的特性(トポロジカル不変量)として、情動的欲求(性的欲求、愛情欲求)、所有欲・独占欲、新奇性追求、安定性希求、社会的承認欲求を特定できる」
まるで子供の積み木を分類するような、この淡々とした分析が、新しい婚姻制度の理論的支柱となった。人の心の暗部まで、きれいに分類し、定義づけられた途端、それは制度として具現化されていった。
愛とは何か。幸せとは何か。そんな問いをめぐって人類が幾千年も積み上げてきた思索を、現代の社会工学者たちはデータとアルゴリズムであっさりと解き明かしてしまった。少なくとも、彼らはそう信じている。
階層的婚姻制度。人々はそれを「完全な制度」と呼んだ。人の持つあらゆる欲望を適切なレイヤーに割り振り、その全てを法的に、社会的に、そして倫理的に包摂する。理想の具現化と言っていい。皮肉屋の私でさえ、その設計の美しさには感嘆せざるを得ない。
私の名は七海優里。27歳。新制度の設計にも関わったシステムエンジニアの一人だ。ただし、制度の最深部、その核となるアルゴリズムを構築したのは、私の上司である桐野麻帆博士。彼女は人の心をまるで透明なガラス細工のように扱い、その全てを数式で表現してしまう。
そんな私たちが作り上げた制度が、ついに完全施行される。人々の幸せを最適化するその制度が、今日からすべての人々の人生を支配する。
でも、変なことに、私の心は落ち着かない。こんなにも完璧な制度なのに、どこか居心地が悪い。それはきっと、私の中にある古い価値観の残滓なのだろう。子供の頃に読んだ少女漫画の主人公のように、たった一人の人を見つけて、ただ純粋に愛し合いたいという、まるで化石のような憧れ。
そんな時代遅れの夢を抱えたまま、私は新しい時代の幕開けを迎えようとしていた。
そして、それは全ての始まりだった。