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地区大会

 智誇と三度目の『リヴ・アクター』を見に行った翌日の六月八日。

 机にレジェメと筆箱、それにスマホを横置きに出したいつものスタイルで一限を受講していると、一件の受信通知が入った。

 俺たちのバンド、『トリル』のグループラインだ。

【日比谷先輩:映像審査通過したよ、地区予選は十九日みたいだね】

 朗報だった。

 よし!

 そろそろ結果が出る頃かなと思っていて、ここ数日アカペラ甲子園のホームページに更新がないかと気にしながら過ごしていた。

 授業中じゃなければうっかり声が出ていたかもしれない。

 ただ驚きはなかったけどな。あの動画のクオリティ的なら。

 メッセージとともにPDFが送信されていて、開くと地区予選に関する要項だった。

 ついでに喜びを表現している犬のスタンプを送信すると、即、既読が2になる。

 誰だろう俺の他に、この時間にスマホを見てそうなのは。

 とか思っている間に、既読は3になっていた。

 前を見ると四列目に座っていた萌美が振り返って、手に持ったスマホを指さしている。

 今の増えた既読は萌美で間違いない。

 俺が親指を立てると萌美は綻んだ顔で親指を立て返してきて、受講の姿勢に戻った。

 ラインでいいのに、正直な奴。

 というか、あいつも授業中スマホ弄ってるんだな。

 一部始終を見ていた五十嵐は、それはたいそう勘ぐるように俺と萌美の方を交互に見やり、修学旅行の夜のような声で囁いた。

「なぁお前今あの子となんかしてなかった?」

「授業に集中しようぜ」

 俺は筆箱からシャーペンを取り出して、印刷したレジメに文字を書くふりをする。

 芯が入っていなかった。

 五十嵐は俺の白々しさに呆れたのか笑みを浮かべて、

「いや、お前だろ。まぁいいや、あとで聞くわ」

 再びスマホゲームに戻っていった。

 はぁ。

 さて、どう誤魔化したもんか。

 

 結局、萌美との関係は全部話す羽目になった。

 元カノであること。今一緒にアカペラバンドを組んでいること。そしてアカペラ甲子園の動画審査を通過して、その意思疎通だったこと。

 そんな俺の急な大暴露に五十嵐は、ヤベぇな、ヤバみざわ、ヤバたにえん、という謎の『ヤバい』三段活用を惜しげなく披露したあと、

「まさかあの子がお前のバンドメンバーで、元カノだなんてなぁ」

 だから言いたくも見せたくもなかったんだよ。

「ナァ~藤元さん、その神楽さん、今度紹介してくれよぉ~」

 そしてやはり思っていた通りのことを口にした。

 それはなんか、なんか嫌だ。てか、そのコミュ力を使って自分で話しかければいいだろ。いつもやってるみたいにいけばいいのに。

「知らない奴にいきなり話しかけられるより、お前のツレの方が絡みやすいだろ。三人で飯とか行こうぜ。つか、なんでそんな嫌がるんだよ。あ、俺の昔の女を、みたいな独占欲とかか?」

「ちがう。それは断じて。断じて違う」




 レタスで応募した全八バンドのうち、そのうち五組が映像審査を通過した。

 約七割。

 これが高いのか低いのかは俺にはわからなかったが、パーセンテージでいうと例年通りで、ただ最後とあって参加総数は増えたらしい。そう会長が言ってた。一番本大会に近いと噂の市原さんのバンドも当然合格しているし、日比谷先輩の同級生バンドも通過している。

 一年では俺たちのみだったので、同級生からはそれなりに持ち上げてもらえた。

 当然ながら、地区大会に向けた練習にも身が入る。

 動画審査通過から地区予選までは十日ほどしかなかったのもあって、合宿以降週一回だった集まっての練習は週三回に増えた。

 それに加えて個人練だ。

 目標は音程やリズムを修正し実力を盛ったあの動画の演奏を再現できるようになることである。

 生で聞くと全然だなとは思われたくないしな。

 それができればここで落ちても、というかまぁ落ちるだろうが、全力で頑張ったと納得できる気がした。

 合唱時の見本と各パートだけを抽出した音源のおかげで、個人練はかなりやりやすかった。

 通学の電車内で聞き流し、音程もほぼ完璧に追えるようになった自信がある。自分の声だけを自分で聞くのは少し気持ち悪かったけどな。

 バンドでの練習は外部が増えた。というのも、レタスが練習に使用している日吉の部室棟や小教室は、地区予選に残ったバンドで混雑するからだ。

「これだけ声や音が飛び交っているところでは練習にならないね」

 日比谷先輩はそう嘆いていた。

 こんな時、カラオケは強い味方だった。そこそこ防音性のある個室で、スタジオほど値段も高くなくて、夜遅くまで空いていて、飲み物も自由だしなによりマイクが二本ある。まさにベースとボイパのためと言わんばかりに。カラオケという場所は、本当はアカペラ練習のために存在しているのかもしれない。

 疲れたら休憩と称して普通にカラオケをしながら(結局喉を使っているから休憩になってなかった気もするが)、曲の精度を高めていった。

 前日には満足のいく出来になったと思う。

 気になるのは他のバンドの出来だ。

 アカペラ甲子園では、同じ大学から二つ本大会に残った前例はない。だから仲良く全滅の線もあるけど基本はライバルという事になるんだろう。

 同じサークル内だがさらっと耳にしたぐらいで、しかもまだ仕上がってなかった頃だし、ブラックボックスだ。

 日比谷先輩は所属しているもう一つの方の出来を普通と評していた。

 というかあの人、よく両立できてたよな。スケジュールとか。

 あの人だけ一日三十六時間ぐらいありそう。 




 地区予選当日は予報通りの雨だった。

 二日間行われる関東地区予選も今日が最終日。くもりだった昨日と変わって、今日は終日雨が続く予報。持ち物がかさばらない分、昨日の組の方が当たりかもしれない。

 ちなみにレタス所属のバンドも過半数が昨日で終わっていて、SNSにはお疲れ様の投稿が流れてきていた。

 トリルの順番は午前十一時三十分の予定となっている。が、昨日も最終的に一時間押したらしいし少し遅れると予想している。もちろん時間通りにはいくけど。

 ウォーミングアップのために朝九時に会場の最寄り駅の一つである有楽町駅に集合し、一時間ほどカラオケに入った。

 声出しOKの控室は用意されているようだが、他バンドとまとめられていて落ち着けなかったりすることを嫌った。

 地区予選は数人の審査員に対して、本番と同じ一分半の演奏を披露する形式。一日にいくつものバンドが流れるように立ち替わっていくので、控室に入れるのは本番の三十分前からだった。それより早く来ても前が詰まっていて入れない。

 なので入りより十五分ほど早く到着した俺たちは会場のエントランスで時間潰した。

 入り口には今日のイベントを表示した立て看板が置かれ、『アカペラ甲子園関東地区予選』の文字がズンと主張している。

 時間がくるまでの間、演奏を終えたであろうグループが感想を言い合いながら帰るのを、これから挑むグループが控室に吸い込まれていくのをいくつか眺めていた。

 人が出入りするたびに自動扉が開閉し、雨音と湿っぽい外気が館内に流れ込む。

「あと何組くらいかな?」

「五組とかかな~、知らんけど」

 …………。

「ちょっとシャツ乾いてきたなぁ」

「そうだね、良かった」

 ……。

 話しているのは智誇と萌美だけで、他の三人は時間潰しにスマホを操作していた。

 雨脚はさらに弱まってきている。今なら女性陣が揃えた本番Tシャツの肩シミも、もっと小さく済んだかもしれない。

 時間になったので受付の女性にバンド名を伝えると、「トリル様ですね」と復唱され、受付台上の名簿にチェックが打たれた。バンド名と所属大学が二列で密に羅列されている。今日だけで四十は下らなそうだ。

 二日間で約百組。

 このあたりは大学の数が多いから、関東地区の出場数もそれだけ比例している。

 俺たちより若い行のチェック欄に一つ空欄があったのがちらりと見えた。棄権が出たのだろうか。

「審査の順番が回ってきた際は私共がお声掛けしますので、ひとつ前の団体の番には控室で待機していてください。控室は声出し自由ですが扉が開いている際はお控えください」

 案内を受け、女性がドアをノックすると中から漏れ出てくる声は減衰していく。

 厚みのある扉がゆっくり開くと丁字色の壁から木目がこちらを覗いた。フロアのクッション性の床には水滴がぽつぽつと落ちていた。元は会議室らしいが机や椅子の類は何もなく、その四隅に各バンドが固まっている。

 練習を中断した格好らしい。一瞬、こっちに注目が集まる。

 俺たちは空いている真ん中に陣取った。

 鞄と傘を固めて床に置く。

 英輔さんは思い出したように「トイレいくわ」と言い残して出ていった。

 再び扉が閉まり周囲が練習を再会すると、収容人数八十人ほどの室内が声で飽和する。傘を納めた傘袋がジリジリと震えていた。

 声の壁に囲まれてるみたいだ。

「み、みんなすごいね……」

 顔に緊張の色が浮かぶ萌美。

 それもそのはずだ。トリルを結成して人前で歌うのはこれが初で、萌美に至ってはアカペラで迎える人生初の本番だから。気後れもするだろう。

 俺だってそうだ。

 少し待ってみても英輔さんはなかなか戻ってこなかった。大きい方なのか、あるいは古川先輩と電話しているとかだろうか。

 日比谷先輩が口を動かす。

 なんだろう。

 俺も萌美も智誇も、耳を近づける。

 先輩はさっきより大きな声で、ハッキリと唇の形を作った。

「先に声出しする?」

 他にすることもないので頷く。

 だがチューニングをしようにも、俺の声は音の波にさらわれてあまり届かなかったらしい。基準がよく掴めていない智誇はピッチを探るように何度も歌い直していた。

 見合わせて、皆の顔に苦笑いが塗られる。

 耳に届くのは他所の旋律ばかりだ。

 ひと際その声量を披露しているのが扉近くの男子バンドだった。厚くよく通るリードボーカルを周囲の熱量でコーティングしているみたいだ。茶髪の彼のポケットからはみ出した青い財布は、角がよれて剥げ茶色い地肌が露わになっていた。

 彼らはどれだけの時間を積み重ねたのだろう。

 日比谷先輩の真似をして、片耳に指を突っ込んで喉の振動で音を取り、逆の耳でみんなの音を聞いた。

 集中すればやれないことはないか。

 そのまま曲を続ける。

 音圧を意識してつい喉に力が入っていた。


 ふいに周りのボリュームが落ち、つられるように俺たちの声もしぼむ。

 声の通りが良くなった分声量が抑えられただけだとわかっているのに、程度を量られるのを嫌がるような、自信のなさを示しているみたいで居心地が悪かった。

 智誇のお腹に張り付けた手がTシャツにシワを作り、その柄を歪ませる。

 萌美は吊るされたように立ち、その左腕は寄る辺なくふらふらとぶら下がっていた。


 日比谷先輩は拳を握り曲を中断させる。

 それから指示もなく、先輩は大きく息を吸い込み、一人忽然と声を響かせた。


「Ah————」


 ブレのない綺麗なロングトーン。それが部屋の隅まで空気を支配していた。

 曲なんて何も関係なかった。

 萌美も智誇も目を丸くする。

 周りも完全に歌うのを止め、全ての注目が先輩に集まっていた。

 当の本人は右手を胸に置き、左手は大きく広げたオペラ歌手のような恰好のまま、好奇の視線を気にすることなく、むしろ、気持ちよさそうに浴びているようだった。


 やがて先輩が声を切ったあとの静寂を見計らったのか、ドアがノックされて、呼び出しがかかった。

 呼ばれたバンドが荷物を引き上げ退出していく。

「ふぅぅぅぅ、スッキリしたなぁ」

「ちょっと先輩なにやってんですか」

「いやね、たまに空気読まないことやりたくならない?」

 出たらしい、先輩の常軌を逸しているところが……。最近は少し落ち着いたもんだと思っていたのに。

 俺たちは「びっくりしました」「急にやめてくださいよぉ」と抗議してみせるが、「ごめんごめん」「大丈夫だってぇ」と先輩は楽しそうにするだけだった。

 ようやくトイレから戻ってきた英輔さんは、

「この辺にうまいフレンチ店があるらしいんだけど終わったらいかねぇ?」

 もう終わった後のことまで考えている。

 本当にこの二人は緊張感のかけらもないな。

 見られ方や空気も、毛ほども気にしていないマイペースさ。

 だけどそのおかげで、肩の力が抜けた気がする。というより肩が脱臼して力が入らなくなったと言う方が近いかもしれないけど。

 隅に移動しなおしてから声を出すと、自分たちの声はわりにちゃんと聞こえた。

 周りと比べるとかじゃなくて、とりあえず自分らが練習したことは出そう。そしてそれができれば十分だと改めて思うことにした。

 依然と心拍数は普段より少し高めをキープしているが、声の具合は良い。

 入れ替わりで入ってきた一団はさっきまで俺たちがいた部屋中央に収まっているので、『圧を感じろぉ』だなんて、念じながら歌ってみた。



「それではトリルさん、会場の方に移動してください」

 促されるままに会議室に入る。

 控室より少しコンパクトな室内の中央に机が二つ横に並んでいて、審査員とおぼしきスーツ姿の男女が四人座っている。

 その正面に立つ。

 彼らの後ろに置かれたビデオカメラが、棒立ちの俺たちの姿を捉えていた。

「はい、それでは一分間、声の確認をしてください」

 挨拶や遊びはなかった。

 言われた通り声出しをする。手短にいくつか和音を作った。

 それほど響かないが、吸収されすぎることはない程度の音響。特に設備はなくボイパもベースも生音で、いかにもベース次第で出来栄えが変わりそうな感じだ。

 端に座る男性は右手でボールペンを遊ばせ手元の書類に目を落としたまま言う。

「ではバンド名と曲名を教えてください」

「トリルです。演奏する曲はYOASOBIのアンコールです」

「それでは演奏してください」




 日はまだ頂上近いはずの時間だが、 東京駅でそのまま解散することになった。

 智誇と英輔さんはJRの改札前で別れ、同じくメトロ勢の日比谷先輩とは小降りな雨の中、大手町駅まで歩いて地下一階のホームで別れた。

 金町までは、萌美と二人の時間が流れる。

 朝は混み合っていた電車も、時間が時間だけに座る余裕があった。

 萌美は背もたれに体を預け、腿の上で組んだ手を小さく遊ばせながら言った。

「私たち、大丈夫かな……」

「んー……」


 練習の成果は出せたと思う。完璧とは言わないまでも、満足いく出来だった。

 もっとも審査員は顔色一つ変えなかったけど。

 日比谷先輩のもう一つのバンドは昨日が本番で、審査員はその時も同じ様な反応だったらしいし、たぶんこんなもんなんだろう。

 ただ地区予選を勝ち抜ける自信があるかと言えばNOだった。


 昨日で結成一か月。

 参加した百を超える大学生バンドの中にどれだけの猛者達がいるのか。他の演奏を全然知らないから、俺には想像も付かない。


 走る電車の真っ黒なその窓に、並んで座る手持ち無沙汰な二人が映っていた。


 俺が言葉を探して黙っているのを、萌美は聞こえていないと判断したのか顔をちらりと向け、もう一度繰り返した。

「ねぇ……。藤元、私たち大丈夫かな」

「まぁ、やれるだけのことはしたよな」

 これは本心だ。ああしていれば……などと悔やまれる部分はない。あとは結果を待って、受け入れるだけ。


「そうだよね。私たち頑張ったよね。本番も緊張したけど、ミスんなかったし」

「まず参加できてよかったよ。あのとき萌美が」


 ゴォォォォォォ。


 上りの電車がすれ違って、轟音とともに車両が揺れる。

 言い直すことでもないと思って、俺は言いかけた言葉を飲み込んだ。

 少し沈黙があって、

「受かるといいね。私たち」

「そうだな。受かりますようにって、近所の神社にお祈りしに行くか」

「あはは。今からじゃ遅いじゃん」

 萌美は鞄を抱え直して、そのあとで瞼を閉じた。

 やっぱり疲れてたかな……。

 そりゃそうか。


 毎日のように耳にする、車内アナウンスが聞こえていた。

 俺も眠たいところだけど、寝過ごしたら茨城の方まで行ってしまう。

 向かいの窓の車内広告を凝視していたら、いつの間にか電車は地下から出たようだった。

 帰りはバスかな。

 外では雨がまだ降り続いている 。

 向かいの窓から飛ぶように流れていくビルのその奥に、うっすらとスカイツリーがそびえ立っていた。


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