合宿明けに、また合宿②
次の日の朝。
俺が一足先に起きて自分の分の洗濯物を回していると、智誇が目をこすりながら一階へ降りてきた。
パジャマは偏り鎖骨と右肩が露わになっている。
側頭部は膨らみ毛束があちこちに飛び出していて、バイソンみたいだ。表情も。
「相変わらず凄い寝癖だな」
「くせ毛やからなぁ。ほんまにめんどくさいわぁ……」
智誇は洗面台で顔を洗い、次いで髪を濡らして緩慢な動作で梳かしていた。
「喉の調子どう?」
「んー。まぁ、まだいけるかなぁ、四日目とかなったら枯れてるかもしれんけど」
「俺はちょっと疲労残ってる、喉に……」
「まぁ昨日搾られたしなぁ、あ、洗剤それ使ってるんや」
「あぁ、うん。安いから」
「確かに、どうりで……ふぁぁ、ねむ」
あくびが出るような会話をしていると、不意にガチャッとドアが開いた。
萌美だ。
朝の洗面所は大渋滞の模様。
「おっ……。おはよう……」
「おはよ~」
智誇が返す。
萌美が寝巻にしてたらしいTシャツには『I wanna be dengerous』の文字。
『私は危険になりたい』だとさ。どんなセンスしとんねん。
洗面所に三人は密度がアレなので、退散することにする。
「俺のが終わったら勝手に出してお前らの分、洗濯しちゃってくれ」
「「はーい」」
応募用に配られた楽譜は、YOASOBIの『アンコール』だった。
確かにメインの女性ボーカルの雰囲気は柔らかく、萌美の声質に合っていると思う。
曲自体のアレンジはそれほど難しくないが(先輩曰く時間がないから簡単にしたらしい)コードの動きからメロディのハモリに転換する部分があるなど何点か要所があるといった感じで、練習期間を考えるとそう余裕はない。
昨日の復習的に基礎練を午前中に済ませて、午後からはいよいよ曲に注力していく。
全三十二小節の楽譜を、先輩が作った参考音源を聞きながら頭に叩きこんだ。
アカペラの半分は音程とコード感の暗記作業だ。そこにリズムや強弱の意思疎通が加わって情緒豊かな演奏が完成していく……はず。
「三小節目の和音はこんな感じだね。萌美はルート音だからもう少し聞かせようか」
ハーモニーの確認を、各パートの動きをさらいながら確認していく。
先輩がノートパソコンで電子鍵盤を鳴らしてその音を取り、調整して、コード感のイメージを固める。
まずは一小節ずつ、曲が一周したら今度は二小節ずつに。休憩を挟みながら四小節、八小節……と、だんだんつなげていく。
ところどころ正しい音程を忘れてしまうし、音程を意識しすぎると発声が周りとズレてハモリが浅くなったりと、三歩進んで二歩下がりながら進んだ。
「いや、全然あかんやん、やばぁー」
そして録音を聞かされるとテンションが下がる。まだまだ提出できるレベルじゃない。
「聞いてて気持ちよくないよね……」
「ほんまそれな……」
リズムのずれ、和音のずれなどが目立つし耳障りが悪い。先輩が用意した見本の音源を聞いた後だとよりそれが顕著だった。
プラスの要素は、昨日よりはマシだということくらい。
合宿三日目の夜。
寝る前に先輩特製のハチミツ入りルイボスティーを飲みすぎたのか珍しく尿意で目が覚めてしまい、頭がぼんやりしたまま階段を降りる。
トイレのドアを閉め電気を消すと、リビングから光が漏れていることに気付いた。
え、この時間に誰か起きてる?
おそるおそる覗いてみると赤いジャージとピンク色の髪が視界に入った。
日比谷先輩だった。
なんとなくおどかしてやろうと思い、忍び足で近づいていく。
眼鏡の先輩が机に上半身を投げ出してパソコンを触っている。白いイヤホンコードが耳に向かって続く。
声をかけようとした瞬間、白い腕がぬっと伸びてきた。
うわっ。
「こんな時間にどうしたのかな? 康宏君」
イヤホンを外して愉快そうに笑いながら振り向く先輩。
逆に驚かされた。
「普通にトイレですよ。先輩の方こそ、というか先輩の方が何してるんですか?」
「いやぁ楽譜の修正をちょっとね」
指でちょいとノートパソコンの向きを変える。スクリーンにはたぶん音楽を編集するDAW系のソフトだろうがみたことない画面が表示されていた。
「なんですか? そのソフト」
「あぁ、これかい? これはDoricoってやつだね。有料の製品なだけあって細かい設定ができるから、重宝しているんだよ」
「そうなんですね。俺はまだフリーのやつしか使ったことないです。ほら、先輩に教えてもらった……」
「あぁ、アレね。まぁ、本腰入れてアレンジするんじゃなかったら全然いいと思うよ、僕は」
ならしばらくは買ったりしなそうだな俺は。
「というか、こんな時間に曲の修正ですか?」
「そうだよ? だって君、Bメロの低いところ、リズムが崩れるんだもん」
「それはすいませんねぇ。ボイパがいれば崩れませんよ、たぶん」
拗ねたような言い方がお気に召したようで、
「ふふ、冗談だよ。昼間は練習に当てないともったいないからね」
俺たちの知らないところでも、なにかしてるんだろうなとはなんとなく思っていた。
一番負担が重いのは先輩だ。
これだから、何を言われても逆らえない。
もしかして昨晩も作業をしていたのだろうか?
「マジでアレンジ変えるんですか? ほんとに俺のせいですか?」
「さっきのは冗談だって言ったじゃないか。英輔が来ても乱れるようなら本当になるけどね。智誇が思ったより吸収が早いから、それならコードの部分を四分音符の打ち込みじゃなくてフレージーなのも試してみようかって。五人ならそのほうが厚く聞こえるからね。本当はボーカルリレーもしたいんだけど、時間もないし萌美は初心者だから、そっちは動画審査通過して余裕があったら考えようかな」
先輩の弁舌を聞きながら、俺は高校の頃を思い出していた。
当時は先輩が作ったばっかりの同好会で、蓄積もなく出来合いの譜面を買っていて、アレンジするにも悪戦苦闘の連続だったのに。
俺の知らない、先輩の数年間が垣間見えた気がした。
つい物思いにふけって言葉を失っていた俺を傍目に先輩は伸びをした。
名前の刺繍がたわむほど張り出された胸元をしっかりと目で追ってしまう。
なるほど、エモはエロに勝てない。
「ねぇ康宏」
「はいっ!」
見てたのバレたか?
「ちょっと散歩しに行かないかい?」
よしセーフ。
家の近所、中学の傍にある公園に先輩を案内する。
日中はそれなりに暖かいとはいえ、昼間に降った雨で冷え込んでいた。
こんなド深夜じゃ、流石に誰もいない。
かすかに虫の鳴き声がする園内を、先輩に続いて歩く。先輩が植物の葉に軽く触れると、溜まっていた雫がぽつりとアスファルトに落ちた。
「ここにも、萌美と一緒に来ていたのかな?」
「やめてください。ここは流石に学校から近すぎて無いですよ。冷やかされるし」
「ふ、そういうの好きじゃなかったもんね、君。いじられキャラなのに」
「そうですね……」
「じゃあ萌美といるときは、どこで?」
「あいつの家の近くに公園があるので、そこで喋ってました」
「ほぅ、中学生らしくていいじゃないか。僕もそこに連れてってよ」
「嫌ですよ、めんどくさい。遠いし」
街灯に照らされた先輩の長い髪が、小さく揺れる。
「ふふっ、やっぱりどうしてか君は、いじめたくなるなぁ」
「やめてください」
いじられる方の身にもなって欲しい。
「僕は夜の空気が好きなんだ。冬と夏で違うし、自然なにおいがする。作業に詰まるとたまに夜出歩きたくなるんだよ、肩も凝るし動かないとね」
「まぁ、分かる気がします」
先輩は水滴を払ってから椅子に座ると、隣をぺしぺしと叩いた。
座れと仰せだ。
尻を落とすと木材の湿りがかすかに伝わってくる。
先輩の椅子に触れている部分(尻)は冷たくないのだろうか?
少し無言のあと、先輩は珍しく言いづらそうに切り出した。
「ごめんね、合宿の時は、口を滑らせてしまって」
先輩なりに気にしていたらしい。俺との関係をうっかり言ってしまったことを。
「あれはビックリしましたけど、まぁいつかは知られるだろうなとは思ってましたし。今となってはあれでよかったかなとも思ってますよ、盛り上がりましたし」
「そういってくれると救われるよ。秘密にするって言ったのにね……。お酒は強いつもりだったんだけど、僕もテンション上がっちゃってたのかもしれないね。瑞樹と飲み比べててペースが早かったから回ったのかな」
本意じゃなかった、酒のせいだ、という主張らしい。
「普段は酔わないんですか?」
「酔わないよ、普段はね」
そうして先輩は体をこちらに向けると、「お詫びに」と前置きして、
「キミが望むなら、触ってもいいよ」
ジャージのファスナーを少しずり下げ、その豊かな膨らみを指した。
え、マジすか。
「え、マジすか、ほんとに?」
「触りたくないのかな?」
うっすらと蘇る、掌の柔らかな感触。
きっとあの頃よりも……。
先輩はそんな俺の頭の中を見透かして、耳元で囁く。
「今はGになったよ」
やっぱり成長していらっしゃる! きっと重量感のある双丘が……って待て、この人は彼氏持ちだぞ、おかしいこんな甘い話。なにかある。こんなお詫び聞いたことない。
「いやいや、触ったらどうせ痴漢だセクハラだとか言うんでしょ?」
先輩は一瞬驚いたような顔をした後、
「まぁ僕次第で強制わいせつ罪の疑い、都内だと迷惑防止条例違反にあたるかもね」
目を細めていたずらっぽく笑った。
流されたら最後、脅してこき使おうという腹だ。
なんてトラップだ!
なんて人だ!
あぶねぇぇぇぇぇぇぇぇ。




