第90話 十歳の冬
SIDE:ノエル
新月教団を本格始動させてから、およそ三年。
私がエストランド領に生まれて十年の歳月が流れた。
二年前には無事にアイリスの弟が生まれたとの吉報も届いて、同時期にミストリア王国の王太子が誕生したというニュースも流れ、我がフィアンセの弟は王太子殿下の御友人になるのではないかとワクワクしている今日このごろ。
そんな王都の華やかな貴族生活とは無縁のド田舎にいる私は、今日も真冬の森を血と汗と泥に塗れながら盛大に転がりまわっていた。
「ぬあああああああああっ!?」
母様の蹴りで吹き飛ばされた私は錐揉み回転して木の幹にぶつかり、頭上から落ちてくる白雪の向こうに剣を振りかぶった狼獣人を捉える。
「シャルっ!」
「右じゃっ!」
愛剣の警告に従って剣を構えると、そこにまるで大砲のような衝撃が襲いかかって、続けて私のお腹に軽めのボディブローが突き刺さった。
「こら! 剣の性能に頼るな!」
バゴォッ、と私の背後にあった樹木が弾け飛び、私は喉から迫り上がってきた血液を母様に向けて吹きかける。
「甘いっ!」
しかし吸血鬼の耐久力に頼った毒霧攻撃は母様が片手を回すだけで発生した風圧に払われて、
「――【灼眼】!」
血の中に潜ませておいたイビルアイを使って視界内を焼き尽くす炎撃を放つが、しかしそちらも剣の一振りで斬り捨てられた。
「無駄な魔力を使うな!」
ゴツンッ!
「痛ったぁ!?」
いちおう一晩考えて練った奥の手だったのだが、百戦錬磨の母様からしたらダメダメな戦術だったのだろう。
「そもそもこれは剣術訓練なのだから魔法や眷属にも頼るな」
拳骨を食らって(あんまり痛くはないけど)地面を転がる私へと、母様は呆れた視線を向けてくる。
「……で? その影の中に仕込んだ血槍はなんだ? そんな児戯で私に傷を与えられるとでも?」
「……いえ、ちょっと血液操作の練習をしていただけです」
あまり新技の実験台にすると本気で怒られそうなので、私はそこらへんで息抜きをやめて、今度は真剣にシャルさんを構えた。
「そうだ、それでいい。まずは剣士の動きをその身で覚えろ」
剣を使った動きなんてだいたい似たようなものなのだから『ぜんぶ覚えてしまえば、ぜんぶ躱せる』というのが母様の教育方針である。
これだから天才は……と言いたいところだけど、実際この訓練をはじめて五年が経った今、確かに私は母様の剣を回避できるようになってきていた。
まあ、完全回避できるのは十回に一回くらいだけど……私も少しずつ成長しているのだ。
そして母様から全身を斬り刻まれて、泥だらけになった私は地面へと倒れ込む。
「よし、今日はここまでにしておくか。最後のほうは昨日より良かったぞ?」
「……ご指導ありがとうございました」
以前は5日に一度だけ受けていた剣術修行だが、女騎士さんの襲撃時に少し思うところがあった私は、母様にお願いして毎日剣術修行をつけてもらうようになっていた。
やっぱり紳士な吸血鬼として守られてばかりいられないじゃん?
だから最近の私は再び『強さ』への欲求に燃えていた。
いざという時には女の子よりも前に立って戦うのが格好いいという、古い考えを私は持っているのだ。
――せめて身近にいる大切な人を自分の手で守れるくらいには強くなりたい。
そんな男の子らしい願望を抱いて毎日泥だらけになっているのだが……しかし私は倒れたまま頭をチラリと湖のほうに向けて、そこで繰り広げられる超絶バトルに軽く絶望する。
「はああああああああああああっ!!」
「せやあああああああああああっ!!」
三年前に造ったゴリアテを囲む巨大湖の上ではアイリスとリドリーちゃんが仲良く修行をしていて、まるで当たり前のように水面を走る二人はお互いの剣術や拳術で爆発した水柱を駆け上がって空へと戦場を移していく。
青空を漂う薄い雲にいくつもの亀裂が入り、続けて複数の轟音と爆炎の花が咲くと、軽いウォーミングアップを終えた二人が降ってきた。
シュタタッ、と私の足元に着地した女の子たちが拳と剣を構える。
「また腕を上げましたね、アイリス様。今のは少しだけヒヤッとしましたよ」
ほっぺたに一筋の血を流しながら戦士の顔で笑うリドリーちゃん。
「そういうお世辞はせめて本気を出してから言いなさい?」
美少女スマイルで血を吐き出してから神聖気を活性化させ、打撃の傷を一瞬で治すアイリス。
「……リドリーは本当に強くなったね」
修行を先導するメイドさんに地ベタから私が言うと、彼女は「ふふんっ!」と鼻を鳴らしてドヤ顔になった。
「いいですか坊ちゃま? 修行の難易度を簡単にする秘訣は、その土地で最強になることなのですよ!」
「あら? いつからリドリーが最強になったのかしら?」
ヒュッ、と振るわれたアイリスの光剣を、リドリーちゃんが白刃取りする。
「……ラウラ様に勝ち越せるようになってからというもの、私は修行のノルマから解放されました……だからこのポジションだけはアイリス様と言えども絶対に譲りませんっ!!」
「……それならもっと修行に励むことね。さもなくばすぐに私がその座を奪ってあげるから!」
……そんなこんなでリドリーちゃんは以前にも増して本気で修行に取り組むようになっていた。
「ぐぬぬぬぬっ!」
「うふふふふっ!」
互いに殺気を漲らせて朝練を再開しようとする戦士たちに母様が注意する。
「地形の整備が面倒だから、あっちでやれ」
そして斬ったり殴ったりしながら湖へと跳躍した二人を見送って、私は願望の実現がとても難しい現実に死んだ魚の目で呟いた。
「……僕のフィアンセと専属メイドが強すぎる件…………」
いや、ね?
私もこの三年でいろいろ努力したんですよ?
母様との剣術修行だけでなくセレスさんにお願いして攻撃魔法を教えてもらったり、前世の知識を活かして【超電磁砲】とか開発してみたり……。
だけど半端な攻撃魔法は発動する前に魔法陣を砕かれて終わりだし、開発したレールガンに関しては実験段階でリドリーちゃんから本気で首を傾げられた。
『それ……普通に殴ったほうが速くないですか?』
……マッハ七より速いメイドさんってどういうこと?
ちなみにリドリーちゃんにお願いして地球の兵器がこちらの世界でも通用するのか調べてみたけれど、レールガンから射出された攻撃は指先ひとつで弾道を逸らす神技によって完封された。
信じられるか?
あの子ってば純粋な体術だけでレールガンを無力化してくるんだぜ?
音速を越えて飛ぶ弾丸の横っ腹をそっと押すとか……メジャーリーガーも発狂するような動体視力だったよ……。
あまりの理不尽を思い出してメイドさんたちの強さに追いつけるのか不安になった私は、冷たくて気持ちいい地面から身体を起こして質問する。
「……前から気になっていたのですが、母様ってこの世界でどれくらいの強さなのですか?」
子供からの曖昧で唐突な問いかけに、しかし母様は悩むことなくハッキリと応えてくれた。
「中の上だ」
……本当に?
「じゃあアイリスとリドリーは?」
その評価を訝しんで私がさらにこの世界における強さの基準を確認してみると、母様は顎に手を当てて少し思案する。
「ふむ……アイリスは私と同じくらいで、リドリーはそれより少し上といったところだが……まだ二人とも『上の領域にいるやつら』には敵わないだろう」
「つまり、エストランド領の戦力は中の上くらいで、その中でもリドリーが最強と……」
しかしそんな結論を出そうとする私の頭へと、優しく母様の手が置かれる。
「いや、本気の殺し合いになればメルのほうが強いぞ? あいつは戦いを好まないだけで、決して弱いわけではないのだ」
「父様ってそんなに強かったんですか!?」
驚いて確認すると、母様は自慢気に胸を張った。
「私が自分より弱い男の番になるはずがないだろう」
「ああ、はい……」
……なんだかすごく納得しました。
父様の意外な一面に、やはり吸血鬼としての戦い方を教えてもらうべきかと悩んでいると、母様が私の黒髪をクシャクシャ撫でてくる。
「まあ、そう慌てるな。お前は私とメルの血を引いているのだから、そのうち必ず強くなる。それに――」
「……それに?」
話の途中で言葉を止めた母様を見上げると、母様はエストランド領のほうへと視線を向けていて、つられて私が振り返ると、そこには森の影に佇む父様の姿があった。
「――それに、お前の本格的な教育なら、そろそろはじまるだろうからな」
目元を鋭くして言う母様から背中を押されて、私は困惑しながら父様の元へと歩き出す。
影の中で待つ父様は日除けの外套だけを纏って顔を出しており、仮面を外したその顔には深いクマができていた。
私たちが近づくと、ここ三年間ずっと引き籠もり気味だった父様が、目の奥に強い光を浮かべて母様へと口を開く。
「……決めたよ、ラウラ。やっぱりノエルの教育はあの御方にお願いしようと思う……ずっと目をつけられていたみたいだし……」
「……そうか」
真剣に頷きあう両親に私が首を傾げると、父様はしゃがんで私の両肩に手を置いてきた。
「ひとつ確認しておくけれど? ノエルは強くなりたいんだよね?」
やつれた父様からの問いかけに、私は真面目な顔をして湖で戦う美少女たちを指差した。
「はい! あの二人を守れるくらいに!」
今も湖の水を竜巻みたいに捲き上げて湖底のメアリーから苦情を受けているあの二人に並べるかはわからないけれど……少なくともその努力だけは怠らないことを私は決めていた。
息子の決意を汲み取ってくれた父様は、ひとつ頷いて「いいかい、ノエル……」と両手に少しだけ力を込める。
「無事に一〇歳を迎えた吸血鬼の子供は経験豊かな【長生者】から教育を受けるのが仕来りなんだ……僕はずっとノエルの教育係を誰にするかで悩んでいたけれど……これから家に来る高貴な御方に君の教育をお願いしようと思う」
そう言って私の頬を撫でる父様の手は微かに震えていて、その手からは家族を想う本気の愛情が伝わってきた。
「もしかして父様はそれで伏せっていたのですか?」
「……うん、まあ……半分くらいは…………」
病気とは無縁の吸血鬼なのにストレスで痩せこけた父親を心配する私へと、父様は男でも惚れそうなイケメンスマイルを向けてくれる。
「新しい先生はラウラの100倍くらい厳しいけれど……それでもノエルは頑張れるかい?」
そんな確認に、私は全力で頷いた。
「もちろんです! 100倍くらいならリドリーの拳骨のほうが怖いので!」
むしろずっと父様から教えてもらえなかった吸血鬼の技を教えてもらえるなら大歓迎である。
「それに母様って意外と優しいですし!」
「あははっ……やっぱりうちの子は天才だ…………」
苦笑して父様は立ち上がり、母様へと重々しく告げる。
「……歓待の準備を頼めるかい? 僕たち吸血鬼の流儀で」
まるで戦場へと赴くような父様の雰囲気に、なぜか母様も同調して低い声を出した。
「……ああ、とびっきりの『もてなし』を用意しよう」
……いや、なんでピリピリした空気になってるの?
「なんじゃなんじゃ? やたらと物々しい気配じゃな!?」
トラブルの香りを嗅ぎつけたシャルさんが嬉しそうに輝くと、父様は軽くシャルさんに会釈して、妻へのキスと私の頭をひと撫でしてから影へと潜った。
それを見送った母様は、パン、パン、と手を叩いて弟子たちを招集する。
「――ご用でしょうか、義母様?」
「――仕事でしたら、なんなりと」
我が家の女主人に呼び出されたアイリスとリドリーちゃんは母様の前に跪いて指示を待ち、そんな二人へと母様は剣で南の空を指して命令した。
「これより我が家は要人歓迎の準備を行う! 各々、敵国の刺客をもてなす時よりも、懇切丁寧に気を配れ!」
「「ハハッ!」」
そんな謎の気合いを入れる女性陣に、私は父様が消えた森の影へと視線を向けて、ほんの少しだけ不安になった。
「……なぜに第一種戦闘配置?」
やたらとうちの両親が殺気立っているんだけど…………私の教育係って何者なの?