第87話 新たな神話
SIDE:グランツ
オルタナの街から北の夜空を見上げた私は、そこに浮かぶ赤い月を見て複雑な感情に支配された。
「……不吉だ…………」
思わず零した呟きに、仕事を中断して大通りに出てきた自称秘書たちが頷く。
「あちらには聖光騎士団が向かったばかりだし……いったい北の地でなにが起こっているというの……?」
「ダメね……偵察用の風精霊たちも言うことを聞いてくれない……エストランド領に向かわせると勝手に誰かの制御下に取り込まれてしまうわ……」
「巨大な光の柱が見えて、ラウラ様の遠吠えまで響いてきたし……あそこで激戦が繰り広げられているのは間違いないでしょうね……」
彼女たちが言う通り、今夜は北の空がとても騒がしかった。
普通はこんな異常現象が多発すれば、民衆がパニックを起こして少なからぬ被害が出るものだが、オルタナの街が落ち着いているのは、北の城壁の上に黄金の騎士が陣取っているからだろう。
『落ち着け!』
大きくそう書かれた巨大な看板を掲げた黄金騎士は、赤いマントをたなびかせて堂々と赤い月を睨みつけていた。
頼もしい守護者の凛々しい立ち姿に人々は膝を突いて祈りを捧げ、大通りには異様な光景が広がっている。
その神話の一部として描かれそうな光景を目にした私は、脳裏に『自作自演』という言葉が浮かんでお腹を押さえた。
「あ、痛たた…………」
路地裏からはシェリルが私のことを睨みつけてきているし、ちょっとこれは一介の密偵が抱える情報の許容量を大幅に越えていた。
……アイリス殿下?
お空に月まで浮かべちゃって……あなたはいったい何を成そうとしているのですか?
シェリルから飛んでくる『今すぐ知っていることを吐け!』という殺気に耐えられなくなって、私は執務室への撤退を選択する。
「……ちょっと胃薬飲んできます」
そう言って北の空を見上げ続ける秘書たちを残してリドルリーナ商会の建物に入り、誰も居ない廊下を進む。
子供のイタズラに頭を悩ませる親の気持ちが、今の私には死にそうなほどよくわかった。
そうしてため息を吐きながら廊下を進んで行くと、急に足元に赤い輪っかが広がって、私は浮遊感を覚える。
すぐに地面が近付いてきたので着地すると、私の口から例の言葉が溢れ出た。
「赤い扉を開けてはならないっ! 赤い扉を開けてはならないっ! 赤い扉を開けてはならないっ!」
……また殿下の仕業か。
自分の身に起こった超常現象の原因を理解すると、その犯人はすぐ目の前にいた。
「急に呼び出してごめんなさい……ちょっと彼のやる気が暴走して魔法陣が止まらなくなっちゃったから、緊急でお願いしたいことができたの」
そう言って微笑む殿下は花の冠を被り、黒いドレスに身を包んでいて、その手には黄金の装飾が施された美しい剣を握っていた。
相手が人智を越えた存在であることを理解している私は、すぐに周囲を見渡して状況の理解に努める。
「ここは……以前に新月教団の皆様とお会いした場所ですか……?」
「ええ、どうしてもこの場所で見てほしいものがあって」
私が謎の技術で転移させられた場所は、かつて新月教団と商談した【謁見の間】だった。
赤い月明かりが常に絵柄が動き続ける魔法のガラス窓から差し込んで、幻想的な光景を創り出している。
こんな場所で何を見せられるのかと訝しんでいると、アイリス殿下は羊皮紙の切れ端に数字をメモして私へと差し出した。
「今から始まる集会が終わったら、このメモをお父様まで届けてほしいの」
「?」
特に内容を隠すような様子もなかったので、手渡されたメモの内容を確認すると、そこには今の時刻が記されていた。
「あなたがお父様にこれを渡せば、それで私のやろうとしていることが伝わるから」
なるほど……ミストリア王家だけが使える伝言ということか。
過去視の魔眼を持つ陛下に私の過去を見せることで、今からはじまる集会の光景を伝えようとしているのだろう。
殿下の意図を察した私は近くにあった柱の影に隠れ、邪魔をしないように気配を消す。
これからはじまる集会とやらには今も夜空で輝いている赤い月が関係しているのだろうが……まるで死闘を終えた直後のように研ぎ澄まされた殿下のオーラに気圧されて、私はただ指示に従うことしかできなかった。
謁見の間を見下ろす小高い舞台の上。
三つの玉座が並ぶ前に殿下は立つと、月光を浴びて凄まじい神気を放つ剣先を床に付け、柄に手を置いて背筋を伸ばす。
その立ち姿は夜を統べる女王のようで……私は立派に成長している主君の姿に状況を忘れて感動した。
陛下にこのドレス姿を見せたかったのだろうか?
そんな年相応の我が儘だったらいくらでも付き合うのだが……。
しかし殿下が続けて放った言葉で、私の期待は呆気なく夜の闇に呑まれた。
「アーサー、ファントム」
小さな声が謁見の間に響くと、影から黄金騎士と闇の戦士が現れて殿下の左右へと並び立つ。
……この二人が現れただけでこれが親子の団欒である可能性はゼロになった。
自分の愛娘が世間を騒がせる英雄たちと並び立っていたら……まともな父親はそれだけで胃袋が消滅するだろう。
もしや陛下を暗殺することが目的なのかと私が疑いはじめたところで、遠く離れた謁見の間の入口から、ガコンッ、と音がして、観音開きの巨大な扉が轟音と共に開け放たれていく。
扉の向こうには漆黒の鎧を纏った見るからに屈強な騎士たちがいて、その先頭に立つ牛人族の大女が謁見の間の回廊を進むと、それに合わせて騎士たちも足音を揃えて行進した。
――ザッザッザッザッザッ。
と、よく訓練された軍隊だけが生み出す音が壁に反響し、どこか見覚えのある三百人ほどの騎士の姿に私の胃袋も消滅した。
先頭に立つ大女は漆黒の兜を被って顔を隠していたが、牛人族特有の大きな胸を見れば、それが誰なのかはすぐにわかった。
……もしかして殿下……『引き抜き』しました?
そんな私の疑問を肯定するように騎士たちは玉座の前まで歩み寄ると、舞台の下で一斉に片膝を突き、右拳を胸に当てて敬礼をする。
「――暗黒騎士団、総勢三〇一名! 冥府の深淵より馳せ参じました!」
そういう『設定』なのか、自分たちは聖光騎士団とは無関係だと主張する女騎士に、アイリス殿下は凛々しい顔で頷く。
「これで最低限の戦力と、最低限の権力と、最低限の資金が集結した」
その政治的な口上を聞いた私は嫌な予感が止まらなかった。
なぜならその言葉はミストリア王国が建国された時に、最初の王が宣言した『国造り』の言葉だったからだ。
始祖王の口上を再現した殿下が剣を掲げると、月光を受けた剣は金色に輝き、騎士たちが感嘆の声を漏らす。
「「「おおっ……」」」
目を見開いて感涙する騎士たちのどよめきが収まるのを待って殿下は続けた。
「かつて私の先祖は『花の冠』を被り、銅貨の袋を並べた『小屋』の中で粗末な『木剣』を掲げて国を立ち上げ、それからミストリア王国を大国と呼ばれるまで育てあげた……」
小さい頃から寝物語として聞かされた王国の歴史を語る殿下の言葉に、騎士たちの興味が集まる。
木剣は『民を守る武力』を、花の冠は『民に愛される権力』を、小屋は『豊かな生活』を現し、剣と小屋だけを強くしろと始祖王が語ったのはミストリア王国では有名な話だ。
だから花の冠はそのままに鋼の剣を掲げて立派な城に立つ殿下の姿に、騎士たちは瞳を輝かせた。
聴衆の関心を集めた殿下は手にした剣へと神聖気を込めて、さらに輝きを強くする。
「そして私――アイリス・セラ・ミストリアは【救世剣・シャルティア】の名のもと、ここに大国すらも越える新たな組織のはじまりを宣言する!」
……【救世剣シャルティア】?
双月教典にある【救世剣】と言えば偽物が多いことで有名で……その名を元聖光騎士団の前で騙るのは反感を買わないかと私は心配になったが……しかし騎士たちは涙を流してアイリス殿下が掲げる剣を凝視し続けていた。
…………いやいやいや!
………………まさか本物じゃありませんよね!?
背中を冷や汗でビショビショにした私の前で、さらに殿下は騎士たちへと語りかける。
「誇りなさい。あなたたちは今この瞬間から、世界最高の騎士となるのだから!」
「「「ハハッ!!」」」
感極まって最敬礼する騎士たちの熱量は本物で……それに呼応するように殿下の背後にあるガラスの飾り窓が蠢いて、ひとつの模様を作り上げる。
殿下が聖剣の光量を抑えると、月明かりによってその模様が浮かび上がった。
二重の円の中に描かれた六芒星。
その中には更にひとつの円と眼玉のマークが書かれ、聖剣をモチーフにした十字架が縦に眼玉を貫いている。
赤い月明かりによって浮かび上がった組織のシンボルマーク。
その幻想的な演出に騎士たちの視線は釘付けとなり、熱い期待が渦巻く舞台を作り上げた殿下は、そこでここぞとばかりに秘密結社の名前を告げた。
「我らは【新月教団】――闇から生まれ、闇に生き、新たな月を覆い隠す者」
その名の響きに恍惚とする騎士たち。
さらに殿下が剣を下ろすと飾り窓のガラスが再び蠢いて開き、そこに夜空で輝く赤い満月が現れる。
「――さあ、私たちの闇で世界をくまなく包みましょう。誰よりも平和を愛する私の恋人が、長閑な田舎暮らしを楽しめるように……まずは夜空で燃えるあの赤月を全力で隠蔽する方向でっ!」
「「「ハハッ!!!」」」
そしてアイリス殿下の指揮の元で騎士たちが慌ただしく動きはじめ……私はミストリア王国の王女に発生する悪しき生態を思い出して脇腹を押さえた。
愛おしさが爆発して恋人に大きなプレゼントをしようとすることは、この国の若い王女によくあること……。
たとえば村とか、街とか、果ては国とか……。
そしてまさかとは思いますが、殿下……。
「ほら! グランツもお父様にメッセージを届けて!」
……貴女が成そうとしていることは……『世界征服』ではありませんよね?
月明かりの下で恋人のために暗躍するアイリス殿下は……凄まじく狂気的な笑顔を咲かせていて……その姿は愛する者のために暴走する蒼月神の宗教画にそっくりだった。
シャルティア「すやぁ…………」