第86話 聖騎士たちの目覚め
SIDE:エスメラルダ
アイリスに心臓を貫かれ、私は闇の中を漂っていた。
星詠の巫女と出会ってからというもの、眠るたびに見るようになった深い闇の世界。
目を覚ますと忘れてしまう絶望の世界。
しかしそんな私の悪夢はいつもと様子が違っていた。
相変わらず頭上には穢れた金眼が浮かんでいるが、二つの瞳は常に忙しなく動き続けており、まるで暗闇に放り出された幼子のような焦燥感がその瞳からは感じ取れた。
……見えない……私の輝かしい未来が……どこにも見えない…………。
やがて手探りで歩くような速度で金色の瞳が離れていき、全てを縛り付けていた黒い糸も緩んで、その隙間から温かい光が私に向かって飛んでくる。
「……っ!?」
他者への思いやりに満ちたその光に触れた途端、頭の中に血の臭いと怒声が浮かび上がった。
これまで忘れていた記憶が鮮明に蘇ってくる……。
『――黙れっ! この薄汚い目をした小娘がっ!』
小さい頃から、私は自分の瞳の色が嫌いだった。
収穫前の稲穂のような黄金の髪は母に似ていたけれど、私が生まれ持ったエメラルドのような瞳は両親のどちらにも似ていなくて……それが理由で私はよく殴られた。
酒に酔った父は私の目を見るたびに。
絶望に酔った母は父に殴られるたびに。
二人の行いは我が子に向けるものとは思えなくて……毎回私が気絶するまで殴られた。
だからあの日、父が母を絞め殺して衛兵に連れていかれたのは、私にとって幸運なことだったのだろう。
少なくとも私は死なずに済んだのだから。
それは私がずっと忘れていた昔の記憶。
巫女の侵食を許した心の隙間。
どうしようもない理由で殴られ、泣けばさらに殴られる幼い頃の闇――。
そう……だから私は泣かなくなったのだ……。
そんな最も古い記憶を思い出して、私は鋭い痛みを放つ両目に顔を顰めて起き上がった。
いつの間にかベッドに寝かされていたことや、体内に感じる他人の神聖気に困惑していると、再び眼の奥から脳ミソを刺すような痛みが響いてくる。
「……まだ残っていたのか…………」
どうやら私が生まれ持った神聖気に邪魔されて洗脳できないことに、両目に残った巫女の神聖気が怒り狂っているらしい。
アイリスに心臓を貫かれた瞬間。
私はようやく自分が巫女の操り人形になっていたことに気がついた。
三〇〇年以上も自分が洗脳されていることに気づかないなんて……やはり私は鈍いようだ。
そうして自分の愚かさを正しく認識したところで、
「記憶の整理はついたかしら?」
真横から先ほどまで戦っていた少女の声がした。
そちらに痛む目を向けると、寝室の窓際で月明かりを背にした小さな人影が椅子に座っていて、彼女は暗い寝室の中で蒼い瞳と聖剣を輝かせていた。
「……さっきの夢はお前の仕業か?」
命を賭して戦った相手に敬語を使うのもおかしく思い相手の身分を無視して返してしまったが、アイリスはそんな些末なことなどまったく気にしなかった。
最悪の夢を見せてくれた少女を睨みつけると、彼女は闇の中で怪しく笑う。
「あなたたちが使っている【声送り】という技術を真似してみたのだけれど、上手く伝わったかしら?」
……声だけでなく、情景まで伝わってきたとも。
聖光騎士団が数十年の時をかけて編み出した神聖気の技をあっさり凌駕してみせる天才児に、私はひとつ嘆息してから頭を下げた。
「ありがとう。おかげで救われた」
小さい頃の私ならばともかく、今の私はこの記憶を真正面から受け止められる。
三〇〇年以上も昔に消えた顔も覚えていない両親の悪夢など、認識してしまえば心の傷が塞がるのはあっという間だった。
そこに巣食っていた巫女の力が迷い出て、私の神聖気に塗りつぶされていく。
消えていく忌まわしい力からは、すべての計画が瓦解して狂乱する巫女の激しい焦りが伝わってきた。
まだ眼玉には洗脳の残りカスがあるみたいだが、この程度ならムリヤリ上書きすることができるだろう。
恩人の前で力を爆発させるわけにもいかないので私が痛みに耐えて頭を下げ続けていると、アイリスは聖剣の切っ先で私の肩を軽く叩いた。
「お礼を言うのはまだ早いわ」
「……なんだ? トドメでも刺すつもりか?」
なにやら剣呑な雰囲気を出す少女に冗談めかして言うと、彼女はまるで高慢な貴族令嬢のように足を組んで頷いた。
「それはあなたの返答次第ね」
心臓貫いてから治療したくせに……殺す選択肢もあったのか……。
まだ恋人が攫われる可能性があるとでも思っているのか剣呑な殺気を向けてくる王女に、私は両手を上げて戦う意思がないことを示す。
「……死ねと言うなら死んで見せるが?」
なんでもするくらい感謝していることを伝えると、アイリスは一枚の紙切れを取り出してくる。
「ならば……まずはこの魔法契約書にサインしなさい!」
どれほど酷い内容の縛りが与えられるのだろうかと思って目を通すと、私の全身から一気に力が抜けた。
『ノエルのお嫁さんにならない誓約書』
…………子供か。
あ、いや……本当に子供なのか……。
ノエルというのはおそらく【聖剣の担い手】となったあの少年のことだろう。
怪しい雰囲気を霧散させるその書類に、私は指の先端を噛んで血文字でサインする。
ちゃんと魔法的な効力を発揮した羊皮紙は淡く光って、それを受け取ったアイリスは私のサインを眺めて、むふー、っと満足そうに胸を張った。
「これであなたは彼と結婚できないからっ!」
……かわいい。
まるで仲間の子供を見守るような気持ちになって頭を撫でたくてウズウズしていると、アイリスは聖剣を椅子に立てかけて二枚目の羊皮紙を取り出してくる。
「こちらの書類は……あなたの自由意思でサインするかどうかを選びなさい」
「? まだあるのか?」
そうして再び差し出された書類に目を通して、
「――ぷはっ!?」
さらに子供らしいその内容に、私は思わず笑いを漏らした。
『秘密結社・新月教団――雇用契約書』
秘密結社なのに雇用契約書があるのか……。
無駄に律儀な裏組織に肩を震わせていると、アイリスがほっぺたを膨らませて睨みつけてくる。
「……私は必要ないって言ったんだけど……ノエルが『労働者を雇うならどうしても』って聞かなかったのよ……」
おそらく私に自由意思でサインさせるのも彼の指示だったのか、むくれた王女は「内容によく目を通すように!」と今度は羽ペンとインク壺まで放ってきた。
書類には『完全週休三日制』とか『残業代全額保障』とか『社員住宅(城)完備』とか意味不明な内容が並んでいたので、途中で読むのをやめてアイリスへと訊ねる。
「……負けた私を雇ってくれるのか?」
こちらは死闘に敗れた身だから、たとえ奴隷のように扱われようとも構わない。
ただ私を雇うことを大恩人である彼女が納得しているかどうかを知りたかった。
「もともとそのつもりよ……そのために全員生かして捕らえたんだから……ちょうど隠蔽工作の人手も欲しかったし……」
そう言って頬を赤らめ、ついっ、とそっぽを向く美少女の姿に、私は迷わず書類にサインする。
「ならば喜んで」
ちょうど転職先を探していたところだから他に迷う理由などなかった。
……というかこんなにかわいい上司がいるならば、逆に金を払ってでも雇われたいくらいだ。
そんな内心を見透かされたのか、ずっとむくれていたアイリスは、私が返した書類を受け取るとイタズラを思いついた悪ガキのような笑みを浮かべる。
「いちおう言っておくけれど、私はノエルみたいに優しくないからね?」
上司としての威厳を出したいのか腕を組んで偉そうな姿勢になったアイリスに、影から赤い腕が伸びてきて二つの球を手渡した。
それを受け取ったアイリスは悪そうな顔を作って、毛細血管を蠢かせる紫紺の眼球を私へと差し出してくる。
「最初の仕事よ、エスメラルダ! まずは新月教団への忠誠を示すために、自分の眼玉を抉り取ってこれと交換しなさい!」
どうだ! 私は恐ろしい上司だろう!
と、ドヤ顔で悪ぶる美少女に、私はニヤつくのを止められなかった。
……どうやらこの組織の引き締めは私が担当したほうがよさそうだ。
アイリスは身内にとことん甘いタイプらしい。
それが格好いいと思っているのか、子供らしく悪女のフリをする彼女の意図はすぐにわかった。
私の瞳は呪いの瞳……本物の呪いがかかっているわけではないけれど、しかし一つの家族を潰すには十分な呪いがかかった忌まわしい瞳……。
だから他人の過去を覗いて『眼を抉れ』と命令してくる無慈悲な王女に、私は悪役じみた笑みを浮かべて素直に従った。
「御意のままに」
ベッドから下りて床に片膝を突き、私は迷わず自分の眼玉を抉り取る。
もともと激しい痛みを放ち続けていた忌まわしい眼を抉り取るのは清々しくて、私は笑みを浮かべたままアイリスから受け取った眼玉を自分の眼窩へと嵌め込んだ。
頭の中にワサワサとくすぐったい『祝福』の感触が入ってきて、すぐにアイリスの顔が再び見えるようになった。
「………………泣いてるの?」
心配そうに私を覗き込んでいた極限まで整った顔には蒼い瞳があって、新しい眼でその輝きを見た私は双月神へと感謝を捧げた。
たとえこの邪悪な眼に洗脳されているのだとしても私の心には希望の光しか見えないのだから、これは『祝福』と呼ぶべきだろう。
蒼月神の瞳は過去視の瞳。
人身掌握という点において比類なき力を発揮するらしいその瞳は、巫女の洗脳よりも深く私の心を掌握していた。
聖剣で肩を叩かれ、真の主を得た私は今、本当の意味で騎士となったのだ。
この身を心配してくれる女主人を安心させようと、なんとか震える声を絞り出す。
「……いや、出血が止まらなくて」
この部屋は暗いから液体の色までは見えないだろう。
「……それは早急な改善が必要ね」
そして私をあらゆる呪縛から解放し、真面目に止血の方法を考える優しい王女の姿を、私は滲む視界でいつまでも眺め続けた。
頬を流れる熱い液体も、いつまでもいつまでも、止まらなかった。
◆◆◆
SIDE:とある愚かな副長
目を覚ますと私は石造りの回廊に寝かされていた。
床にはところどころに赤黒い血の染みが残され、禍々しい形状をした拷問用の道具が窓の無い壁に並べられている。
「!? ……な、なんだここは!?」
どうしてこのような場所にいるのかと記憶を探ってみると、湖から生えてきた赤い触手に呑まれる光景が浮かび上がって……私は記憶を消すために必死で自分の頭を叩いた。
「……う、嘘だ……っ!?」
大神官の息子である私は巫女様の力で守られているはずなのだ!
咄嗟に懐に忍ばせていた小箱を探るが、大事に保管していたはずのそれはいつの間にか無くなっていて、床に残された赤い染みが不吉な未来を予感させる。
「無いっ! 無いっ!? どうして巫女様の眼が無いんだっ!? たとえ失くしても勝手に戻ってくるのにっ!??」
運命を司る巫女様の眼を定期的に奴隷たちへと見せるのが私の仕事で……それさえこなしておけば私の未来は成功が約束されているはずだった。
そうして床に蹲ったまま私が大事なものが入った小箱を探し続けていると、回廊の先にある角から男の悲鳴が聞こえてくる。
「ぐぎゃあああああああああああっ!?!?!?」
苦痛に満ちたその声音はまさしく私と同じ副長の座にいた者の悲鳴で……栄光の未来を約束されたはずの同僚が泣き叫んでいる現実に、私は巫女様の加護が失われていることを思い知らされた。
右に曲がる回廊の角からはランプの光が漏れ、いくつかの人影が反対側の壁で揺れている。
後ろを振り返ってみるも、そこには無機質な石の壁しか見当たらなくて、完全に逃げ道を失った私は自分の装備を確認した。
「くそっ……くそっ……こんなことになるなら剣を持っておけばよかった…………」
身に付けていた白銀の鎧はそのままのようだが、正式装備の剣は重いからと宿に置いてきた昔の自分を殴りたくなる。
けっきょく食事用に持参していた折りたたみ式のナイフだけが腰のポーチから見つかり、私は藁にも縋るような思いで、その小さな刃を両手で構えた。
震える足を叩いてなんとか立ち上がり、今も光と悲鳴が漏れる回廊の先へと足を進める。
そして恐る恐る覗き込んだ曲がり角の先には大部屋があり、その中には牛人族の大女とそれを囲む聖騎士たちがいて……
「っ!??」
急いで駆け寄ろうとした私は、しかしやつらの異様な姿に踏み出しかけた足を止めた。
聖光騎士団で支給される白銀の鎧の代わりに漆黒の鎧へと身を包んだ奴隷たちは、なぜかひとり残らず血まみれになっていた。
さらに悲鳴を上げて床の上をのたうち回る二人の副長を囲んで、やつらは楽しそうに談笑している。
「おめでとう! これで貴様も私たちの仲間入りだ!」
大げさに両手を広げ、狂ったような笑顔で涙を流すエスメラルダが宣言すると、周りにいる聖騎士たちが拍手をしながら笑い出す。
「ハハッ……ぶっちゃけお前らはあのまま触手に食い殺されても構わなかったんだが……怖い思いをするなら仲間が多いに越したことはないからな……」
……確か四班の治癒師だった男が引き攣った笑顔で言うと、その周りにいるやつの仲間たちも、どこか複雑そうな笑顔で続けた。
「覚悟しとけよ! ここの主様から睨まれないように、俺たちも死ぬ気でお前らを鍛えるからな!」
「とりあえず剣で刺して痛みに耐える訓練からはじめましょうか! その程度の苦痛で悶えているようでは使いものになりませんから!」
「うむ、逃げ出そうとしても体内から阻止されるなら……いくらでも非道な訓練ができるのう……」
「なんだか複雑な気分です……なんでこの組織の雇用条件があんなに整っているんだろう……?」
「……な? 素晴らしい未来が待っていただろう?」
最後に四班の班長が同意を求めると、やつの部下たちが一斉に声を揃える。
「「「「「お前はちゃんと反省しろっ!!!」」」」」
そしてなぜか首から『私は最初にやられました』と書かれたプレートを下げた班長は、仲間たちから殴られて項垂れた。
「……………………面目ない」
血まみれな見た目とは裏腹に明るい調子で会話する彼らの足元には、眼窩から血涙を流す副長たちが倒れていて……白銀の鎧に床から湧いた血のようなものが纏わりついて鎧の色を黒へと変える。
仰向けで倒れる彼らの眼は赤くて細い触手を蠢かせて、頭部から雑草のように生えてこちらを見ていた。
「――ひっ!!?」
狂気的な光景に思わず悲鳴を漏らすと、エスメラルダと聖騎士たちが一斉にこちらを振り向く。
「ようやくお目覚めか……お前だろう? 私にずっと『あの眼』を見せていたのは?」
殺意の籠もった笑顔を浮かべるエスメラルダがこちらへと歩み寄ってきて、他の聖騎士たちもその後ろに人の壁を作った。
「ひでぇよなぁ……美女と仲間を洗脳するなんて……」
「どうりでいけ好かねえわけだ……ずっと俺たちは良いように使われていたんだから……」
「ふふっ……これは彼にも『祝福』が必要ですかねぇ……」
「そうじゃな……『眼には眼を』とは、どこの言葉じゃったか……」
「覚悟してくださいね……最初はちょっと痛いですから……」
「隊長、こちらを」
そしてエスメラルダは受け取った道具を両手に構えて、とてもいい笑顔で近付いてくる。
「フハハハハハッ! 今日はなんと素晴らしい日だっ! 長年の呪縛から解放されただけでなく、こうして積年の恨みまで晴らすことができるなんてっ!」
その道具はまるでスプーンのような形状をしていて……眼玉を抉るのにちょうど良さそうな形状をしていた。
「……ま、待てっ…………」
消え入るような声で私が静止の命令をしても、エスメラルダは爛々と光らせた紫紺の瞳から涙を流して、笑うことも歩み寄ることもやめようとしない。
「ああ……どうやら私は涙もろくなってしまったらしい……嬉しいと止めどなく涙が溢れてくるのだから……」
感涙しながら目の前まで来た大女の眼はグルグルと回転していて……気がつくと他の聖騎士たちの眼もそれに呼応するようにグルグルしていた。
「祝福を」
「祝福を」
「祝福を」
「祝福を」
「祝福を」
「祝福を」
笑顔の口から怪しい言葉が連呼され、エスメラルダが手にした拷問器具を天高く掲げる。
「さあっ! 我らが偉大なる主よっ! この者の『眼』と引き換えに、新たな『祝福』をお与えくださいっ! あなた様の覇道を支える礎として、この愚者が少しでも役立つようにっ!」
まるで過激な狂信者のような仕草でエスメラルダが天井の闇へと叫ぶと、赤黒い巨大な闇が蠢いて、そこからいくつもの眼球が飛んできた。
キョロッ、キョロッ。
と浮遊する眼球は、その全てが私の瞳を捉えていて、恐怖に呑まれた私は手にしたナイフをエスメラルダへと全力で突き出す。
「ひっ……ひあああああああああああっ!?」
薄い金属が折れる音がして、エスメラルダの腹に突き立てたはずの刃が床へと落ちた。
「……私の皮膚すら貫けないとは情けない」
そしていつの間にか背中が壁に付くまで後退していた私は、聖騎士たちと無数の眼玉に包囲されて、股から生暖かい液体を垂れ流す。
「…………た、たすけて…………金ならいくらでもはらうから…………」
自分の意思とは関係なくそんな命乞いが口から溢れ出るが、エスメラルダは手にした拷問器具を打ち鳴らすだけだった。
シャキンッ! シャキンッ!
「……好きな色の眼球を選ぶといい。残念ながら貴様が大好きな『金』はないけどな!」
その言葉に後ろにいる聖騎士たちが、ドッ、と笑って、
「やっ……やめろぉおおおおおおおおおおおおおっ!?!?!?」
絶叫する私の頭が笑顔で眼をグルグルさせる異常者たちに掴まれる。
「――喜べ! これで今日から貴様も、我ら【暗黒騎士】の仲間入りだっ!」
そして冷たい金属の感触が、私の眼球へと当てられた。