第77話 鈍牛のエスメラルダ
SIDE:エスメラルダ
物心ついたころから私には泣いた記憶がない。
どうして泣けないのかはわからないが、殴られても、叱られても、口汚く罵られても、私の薄気味悪い緑色の瞳は一雫の涙も生まず、そのせいで孤児院にいた大人や周りの子どもたちからも疎まれていた。
【鈍牛】の渾名は、そのころに付けられた蔑称だ。
まったく泣かない気味の悪い子。
それが幼少期の私に与えられた唯一の評価で、仲間はずれにされた私にとって孤児院の広間に飾られた二柱の女神像だけが話し相手だった。
未来を見通す神眼を持つ【金月神】ラグナリカ様。
過去を見通す神眼を持つ【蒼月神】ミストリア様。
夜空に浮かぶ二つの月から世界の運命を見通す【双月神】ならば、私が泣けない理由を知っているだろうか?
私が心を許せる友人と出会う未来を知っているだろうか?
敬虔な信徒のフリをして、私はそんな疑問を祈りの代わりに女神像へと投げかけて……そして気がつくと双月神を敬う信徒たちに囲まれていた。
『神の子』
『神憑り』
『聖女様』
これまで悪口でしか呼ばれなかった私を、笑顔で褒め称えてくれる大人たち。
まだ幼かった私は彼らに言われるがまま孤児院から連れ出され、大きな街にある神殿の最奥部でひとりの女性と面会することになった。
その人と初めて会った日のことは今でも忘れない。
白亜の髪に、金月によく似た黄金の瞳。
その場を守る聖騎士たちから【星詠の巫女】と呼ばれていたその人は、怯える私に目線を合わせて、優しく頭を撫でてくれた。
「――大丈夫よ。私の言う通りにしていれば、いずれあなたは多くの仲間に囲まれるから」
するりと心に染み込んでくる言葉は甘い香りがして、私はすぐにその人のことが好きになった。
「ほら、あなたの顔をよく見せて?」
私の頬に冷たい手が添えられて、ふたつの黄金の瞳が鈍く輝いた。
なんて美しい瞳だろうか。
もっと彼女の目を見つめていたい……。
もっともっと……私を見てほしい……。
「いい子ね。それじゃあ次はこの言葉を心に刻みなさい」
そんな強い願望を抱く私に、巫女様は微笑むと短い予言をくれた。
「遠い未来、あなたは聖剣の守護者となるでしょう」
ゾッとするほど美しいけれど、喜びも、悲しみも、生気すらも無い声が、私の耳から胸の奥へと染み込んでいく。
およそ人間らしさを欠落させたその言葉は、しかし不思議と私の欠けた心に深く突き刺さった。
「守護者……!」
孤児院にも聖剣の宗教画が飾られていたから、その神話は知っていた。
双月信仰において聖剣と称される剣は【救世剣シャルティア】ただ一振り。
その守護者は世界を救済へと導く【聖剣の担い手】を護る聖者たち。
そして【救世剣】を持つ者はこの世を救ったあと天上へと迎えられて、世界を統べる【第三の月】になると伝えられている。
いずれ世界の盟主となる者の一員に選ばれたことに、私の心は喜びに包まれた。
――仲間ができるんだ!
――ずっとひとりだった私にも、互いの命を預け合う本当の仲間が!
遠い未来で待つ希望は心の支えとなり、それからの私は予言を信じて生きるようになった。
女神像へと投げかけていた疑問は本物の祈りへと変わり、大人でも逃げ出すことのある聖騎士の鍛錬を受けても泣かない私を見て、今度は【聖剣の担い手】を探す聖騎士たちが集まってきた。
私のことを『聖者』や『同士』と呼んで慕ってくれる大人たち。
想像よりも早くに仲間ができたことは私に自信を与え、そして強い信仰が弱みを強みへと変えて、私は泣けない体質を少しずつ気にしなくなっていった。
――きっと私は聖剣の守護者となるために、特殊な身体を持って生まれてきたのだ。
それから一〇年の時が経つと仲間たちから『隊長』と呼ばれるようになり、二〇年が過ぎたあたりで私は定命の壁を超えた。
自分を鍛えるため戦場を渡り歩いているうちに戦友と呼べる存在もできた。
しかし五〇年を越えると初めて仲間のひとりを老衰で失い、そこから先は多くの仲間の命が私の肩へとのしかかった。
『――必ず……必ず剣を見つけてください!』
『――あなたは俺たちの希望なのです』
『――信じていますよ、隊長!』
仲間たちからの思いを受け継ぐたびに私の聖剣に対する執着は増していき、そして同時に剣を見つけられない自分に対する失望も膨れ上がっていく。
それからは不甲斐ないことに偽物の聖剣を掴まされた経験だけが積み重なり、まったく本物の手がかりを掴めないまま一〇〇年の歳月が流れたところで、私は自分で【鈍牛】と名乗ることを決めた。
これだけの時間をかけて成果のひとつもあげられない愚鈍にはピッタリの渾名だろう。
我々の聖剣探索が初めて進展したのは私の年齢が二〇〇を越えたころのことだ。
風の噂で吸血鬼の始祖のひとり【鮮血皇女】が聖剣に多額の懸賞金をかけたという情報を得て、私たちは喜びに沸き立った。
【神古紀】から生きる化け物が本気で探しているならば、聖剣が実在する可能性は高くなる。
真実を確認するため我々は【鮮血皇女】を知る吸血鬼を探して回り、そしてミストリア王国の片隅にあるエストランド領にて、ついに本物の手がかりを見つけた。
……ちょうどその女は出産直後で気が立っていたらしく、長女を攫いに来た聖職者と勘違いされてしまったが……そいつが戦場で何度も刃を交えた顔見知りだと気づいたおかげで話を聞いてもらうことができた。
「なんだ。誰かと思ったらエスメラルダか……」
部隊が半壊し、互いに血まみれになったところでようやく私の名前を思い出した狼獣人に、体中を斬り裂かれた私は流石に語気を荒げた。
「貴様っ! 顔を覚えるのが苦手だからって、血の匂いで人を覚えるなっ!!!」
くそっ……ラウラが放った閃光のせいで眼の奥がチカチカする…………。
こいつには昔から強者を見ると喧嘩を売る悪癖があるのだ。
そのついでに血の匂いを覚えるのが【閃剣】のラウラ流の挨拶だった。
斬られるほうが悪いと言わんばかりに胸を張るラウラは、私が殴って砕いた奥歯を吐き捨てて、堂々と雑な対応をしてくる。
「吸血鬼の領地に無断で【聖光騎士団】が入ってきたのだから、八つ裂きにされても文句は言えないだろう。貴様は顔見知りだから生かしておいてやるが、死にたくなければさっさと出て行け」
古い知人のその言葉に、私は月日の移ろいを感じた。
「……お前は吸血鬼と夫婦になったのか」
「ああ、今の貴様にだけは紹介しないがな」
そう言って破れた服からハミ出る私の乳房を凝視するラウラに、こいつも少しは女らしくなったものだと苦笑が溢れた。
子供のころから変わっていないのは私くらいだろう。
身体こそ大きく成長したが私は子供のころからほとんど変われていない。
己の意思ではなにもできず、与えられた予言を盲信して歩み続ける哀れな子供。
そんな自分の歩みに疑問を抱くたび、目蓋の裏に優しい巫女様の瞳が浮かんで、私を大切な使命へと駆り立ててくる……。
終わりの見えない聖剣探索に、いささか疲れを感じていた私は、気がつくと女神と同じ色を持つ旧友に救いを求めていた。
「なあ、古き戦友よ……ここを去る前に、お前の意見を聞かせてくれ」
昔と変わらず聖剣に囚われ続ける愚かな女の質問に、しかしラウラは馬鹿にすることなく向き合ってくれた。
「シャルティアが実在するかどうか、か……そういえばお前もあの剣を探していたな」
「……お前も?」
その言い草が気になって聞き返すと、かつて聖光騎士団への就職を誘った私を半殺しにした金月神の寵児は、珍しく悪戯を画策する子供のような顔をした。
「実を言うとな……私たちも初めは聖剣を探してこの土地に来たのだ」
「!? なんだとっ!?」
私の反応に満足したのか、ラウラはとても愉快そうに昔を振り返った。
「あれは一〇〇年も前のことだったか……金眼持ちなら見つけられるのではないかと【鮮血皇女】に依頼されてな」
「っ!!?」
これまで神話でしかなかった聖剣の存在に近づいたことに心臓の鼓動が早まる。
「見つけたのかっ! お前は聖剣をっ!」
縋るような気持ちで訊く私に、しかしラウラは即座に否定した。
「いや、私の眼を持ってしても見つけられなかった……このあたりにあるはずだと【皇女】は言っていたが……今はまだその時ではないのだろう」
まるで預言のように聞こえるその言葉に、私は思わず息を呑んだ。
巫女様よりも美しい黄金の瞳を輝かせたラウラは、虚空を見つめてポツポツ続ける。
「……あれは持ち主を待っているのだ……深い森の中……神代の古木を枕に……救世の未来を夢見て眠っているのだ……」
そこで軽く眼を閉じたラウラは深く息を吐き、再び目蓋を開くと不敵に笑って、昔から変わらぬ真っ直ぐな瞳を私に向けてきた。
「だから私はこの土地で暮らすことにした。こう言ったら夫は苦々しい顔をしていたが……もしも自分の子供が【聖剣の担い手】に選ばれたら――それはとても面白そうだろう?」
その馬鹿馬鹿しい企みを聞かされて、なぜか胸の奥から激しい嫉妬の感情が湧いてくる。
「……ふざけたことを囀るな……ラグナリカの紛い物め…………」
「ほざけ、時の流れを漂うだけの世間知らずが」
怒りがもたらす強烈な頭痛に顔をしかめていると、さらにラウラは笑みを深めて私を茶化した。
「……まあ、私の子供は堅苦しい守護者など必要としないだろうから、もしもそうなったらお前は遊び相手にでもなってくれ」
こいつは【聖剣の担い手】をなんだと思っているのだっ!
「このっ……ド阿呆がっ!」
さんざん斬られた分も合わせて、もう一発殴っておく。
それから私は旧友の言葉を信じてエストランド領の周りを探し回ったが、けっきょく何も見つけることができなかった。
おまけに我々が勝手にエストランド領へと踏み込んだことがバレて、吸血鬼たちから聖光騎士団へと警告が入り、あの土地に近づくことすら難しくなった。
ラウラは殴ったくらいでヘソを曲げるような小さい女ではないが、なんでもエストランド領で取れる地竜の血液は【鮮血皇女】のお気に入りだったらしい。
組織間の抗争を恐れた上層部によって活動が制限され、仕方なく私たちはエストランド領を離れた。
しばらくは大人しくしておく必要があるだろう。
しかし不思議と私の心に焦燥感はなく、ラウラのくれた言葉がやけに耳に残っていた。
『――今はまだその時ではない』
……あいつがそう言うならば素直に信じることができ、それからの私は【聖剣の担い手】に相応しい子供を探すようになった。
最初こそラウラの娘が私の探し人なのではないかと疑っていたが、その子がさっさとエストランド領を離れて西大陸に渡ったと知ってからは、蒼月神の末裔であるミストリア王家にも目を向けた。
双月神の片割れであるミストリアは聖剣の創造に関わっていたという伝説があるから、その末裔が持ち主に選ばれてもおかしくはないだろう。
そこからさらに一〇〇年以上の時が流れ、ようやく私は聖剣に相応しい子供を見つけた。
アイリス・セラ・ミストリア。
数百年ぶりに現れた蒼月神の先祖返り。
血筋だけで言えば最も救世剣に相応しい血を持つ子供。
蒼月神の先祖返りはその体質故に早世することが決まっているため、彼女が注目されることはほとんどなかったが、アイリス様がエストランドの地で療養するという噂を聞いた私はすぐに確信した。
――彼女こそ【聖剣の担い手】に違いない!
ラウラは自分の子供がそうなることを期待していたようだが、蒼月神の先祖返りを越えるほどの逸材があの馬鹿の腹から生まれてくることを想像すると、たまらなく心が苦しくなった。
……あり得ない……そんなこと決してあってはならない…………異界の魂……蒼月の血を引く吸血鬼……災厄の稚魚とその眷属…………すべてが私の思惑通りに進んでいたのに……女神すら欺いてみせたのに…………どうしてあの女があの場所にいるっ…………。
考えれば考えるほどたくさんの光景が脳裏に浮かんできて、今が何時なのかわからなくなって、嫉妬と怒りで割れそうになる頭を庇うために私は余計なことを考えるのをやめた。
……アイリス様こそが【聖剣の担い手】なのだ。
たとえ王女が死んだという噂を聞いても、私は彼女が探し人であることを疑わなかった。
まるで運命の糸で結ばれているように、不思議とアイリス様が生きているという確信があった。
やがて糸は引き寄せられ、様々な偶然の積み重なりの果てに――そして私は彼女と出会う。
死の香りに満ちた地下神殿。
聖なる炎で燃える創世神像の前に佇む黒い影。
その者の手には美しい一振りの剣があり……その姿を見た私の心にかつてない衝撃が走った。
「っ!? その剣はっ!!?」
――違うっ!!!
違うっ! 違うっ! 違うっ! 違うっ! 違うっ! 違うっ! 違うっ! 違うっ! 違うっ! 違うっ! 違うっ! 違うっ! 違うっ! 違うっ! ちがうっ! ちがうっ! ちがうっ! ちがうっ! ちがうっ! チガウッ! チガウッ! チガウッ! チガウッ!
――私はこんな未来など視ていないっ!!
長年の探し人が影へと消える中、ドロドロした暗い感情が私の中身を覆い尽くしていく。
聖剣を探さなければ……。
あの剣は私のものだ……。
アイリス様を見つけなければ……。
あの娘は私のものだ……。
暮れゆくこの世界を救済しなくては……。
この世界は……私のものだっ!!!
……やがて真っ暗な闇の中に落ちていった私は、その底で蹲るひとりの子供を見た。
大昔の私の姿にそっくりなその子供は、しかし私と違って大粒の涙を流し続けていた。
――っ! ――っ!!
その子は力の限り叫んでいたが、小さな声は闇に呑まれて誰にも届かない。
ああ……なんて酷い世界だろうか……。
黒い糸みたいに絡み合う闇がすべてを支配していて、ここでは声をあげることも動くことも許されない。
無理して星空を見上げようとしても、そこには鈍い金色をした二つの月が浮かんでいて、それは私たちを圧し潰すようにこちらを隙なく監視していた。
闇に逆らって動いた私へと空から巨大な声が振ってくる。
『――大丈夫よ。私の言う通りにしていれば、いずれあなたは多くの仲間に囲まれるから』
嫌だっ! もう言う通りになんてなりたくないっ!
『――いい子ね。それじゃあ次はこの言葉を心に刻みなさい』
嫌だっ! もうお前の言葉は聞きたくないっ!!
『――遠い未来、あなたは聖剣の守護者となるでしょう』
……嫌だっ! 嫌だっ!! 嫌だっ!!!
その圧力に耐えられなくなって、私はずっと信じ続けてきた双月へと祈る。
それはこれまで繰り返してきた中で、最も切実な祈りだった。
――お願い、女神様。
――これまでも、これからも、私はあなたのことを信じ続けるから。
――だからどうか……どうか……――
――――ここから助けてっ!!!
そう祈った途端、ピシッ、と心地よい音が聞こえた気がして――そして私は自分が何をしていたのかを思い出した。
ああ……そうだ。
……私は三番隊の総員300名を率いて【刻死樹海】の探索に来ていたんだ。
頭を振って意識をはっきりさせると、樹海の中で見つけた赤い結界が私の拳の先で砕けていて、その中に足を踏み入れるとさらに頭からモヤが消えていく。
そして気がつくと、私は全力で走り出していた。
「隊長っ!?」
「お待ちくださいっ! 隊長っ!!」
仲間たちに静止されるが、背後から感じる不気味な気配に私は恐怖して逃げ出した。
巨大な湖を飛び越え。
豪雨の中をガムシャラに走り。
やがて見えてきた晴れ間に飛び出したところで、ようやく恐怖が薄れて足を止める。
そこは渦巻く雲の中心にある巨大な城の麓で、見た目こそ禍々しいものの、まるで神々の世界に迷い込んだのかと錯覚するほどに神聖な空気で満ちていた。
いつの間にか夜になっていたらしく、巨城の上には綺麗な双月が輝いている。
久しぶりに感じた清涼感に頬を緩めると、今度は何やら楽しそうな声が聞こえてきた。
「――ぬおおっ!? ちょっ、ちょっと待つのじゃ主君っ!?」
「もーっ! 暴れないでよシャル! そんなんじゃいつまでたっても抜けないよ?」
「ぬおおおっ!?!? だから無闇に引っ張るでないわっ! 人の姿のまま引っ張り出すのは無理があるからっ! 妾の出っ張ったところが全部とれちゃうからっ!」
不思議な会話に振り向くと、なぜか地面に人の形をした穴が空いていて、その傍らではひとりの子供が剣を持ってしゃがみこんでいた。
「……最初から剣の姿になればよかったね?」
「うむ、しかし酷い目にあった……目が覚めたら土の中にいるとは……新手の超常現象か?」
「ああ、うん……世の中って不思議なことがたくさん起こるから…………」
そう剣に語りかけて立ち上がった子供の姿を見て、破裂しそうなほど心臓が高鳴る。
艷やかな黒髪。
どこか見覚えのある美しい顔立ち。
蒼月のごとく澄み渡った右目と、金月の高貴さを湛えた左目。
まるで夜空を写し取ったかのような子供に驚き、私はずっと忘れていた息をようやく吐き出した。
「……なんと……神々しい……っ!!!」
月明かりに照らされて、精緻な金細工が施された美しい剣を持つその姿は宗教画のようで……私はついに探し求めた存在と巡り会えた幸運を双月の女神に深く感謝した。
私の声に気づいた子供が振り返り、こちらを見て驚いた顔をする。
「あっ……やべっ!?」
ああ……やはり私は【鈍牛】だ……このような素晴らしい光景を見ても一粒の涙も流せないなんて……なんて役立たずな目玉だろうか……。
いっそ抉り出したいくらいだが、私には彼を仲間の元まで連れていく使命があるため我慢した。
もう決してあなたを見失いません。
絶対に……絶対に……彼を連れて帰らなければっ!
この子はアイリス様ではないみたいだが……私の本能が言っている。
――この子…………いや、この御方こそ――【聖剣の担い手】だっ!!!