第71話 王家の密偵と王女の生態
SIDE:グランツ
目を覚ますと、私は天の国にいた。
柔らかい寝具に清浄な空気。
窓から差し込む朝日を後光のように纏い、こちらへと小さな女神が微笑む。
生前では決して見ることが叶わなかった苦痛とは無縁の姿を目にして、私は慈悲深き神々に感謝した。
「……お久しぶりです、殿下」
穏やかな気持ちで語りかけると、殿下は昔よりも大人びた笑顔を見せてくださった。
「ええ、久しぶりね、グランツ」
私が殿下と言葉を交わしたことなど数えるほどしかない。
しかし当然のように名前を呼んでくださる殿下に、私は不敬と知りつつも手を伸ばす。
神の御下へと迎えられた今ならば、この子の頭を撫でても許されるだろうか?
世界の代わりに呪いを抱え続けてくださった偉大な英霊への尊敬と感謝。
そんな想いが私の腕を優しく動かし――
「あ」
「ぎゃっ!??」
殿下の頭へと触れそうになった指先が強固な障壁に弾かれた。
「ごめんなさい……私、婚約者以外の男には触られたくなくて……」
そして謝罪しながら突き指を神聖魔法で癒やしてくださる殿下の姿に、私はこれが夢ではないと悟ってしまった。
本物の痛み。
呪いが解けた殿下の御姿。
魔法障壁まで使って男を極端に避ける不穏な行動。
長年ミストリア王国に仕える者として、これらの情報から私の頭脳は反射的に状況を理解した。
「……その……ひとつ確認したいのですが……?」
「なにかしら?」
妖艶に小首を傾げる女神に、私は畏怖を抱きながら確認する。
「も、もしや殿下は……恋をしているのですか?」
国家への反逆を問うくらい緊迫した質問に、殿下は三日月のように口の端を吊り上げた。
「ええ、こちらが言わんとしていることを察してくれたようで、なによりだわ」
ああ……神よ…………。
その美しくも恐ろしい笑顔に、私の中で様々な情報がひとつに纏まっていく……。
唐突な殿下の死。
刻一刻と悪くなる陛下の顔色。
そして今までエストランド領周辺で発生した数々の大事件。
すべての点が運命の赤い糸という悍ましい線で繋げられ、最恐の現実を私へと突きつける。
「……ちなみに婚約者と世界……どちらが大切ですか?」
ミストリア王国の従者に伝わる秘伝書【王女恋愛御作法指南書】にある『確認事項その一』を問いかけると、殿下は万物を焼き尽くす業火のような笑顔をさらに深めた。
「愚問ね。そんなの婚約者に決まっているじゃない」
ああっ……神よっ…………。
ここで迷う素振りを見せるようならまだ救いがあったのだが……どうやらミストリア王国は冗談抜きで存亡の危機に直面しているらしい。
この国において『王女の恋愛』は最大の脅威。
第一王女の時も大概だったが……先祖返りであるアイリス殿下の恋愛はいったいどれほどの波乱をもたらすのか……私は少し考えただけで胃に穴が空きそうになった。
……陛下の主食が胃薬になっているのはこれが原因か!
やたらと大人びている殿下のご様子も、これが『羽化』なのだとすれば得心がいく。
ミストリア王国の王女は恋愛対象の好みに合わせて性格を変態させるのだ。
しかし随分と変わった性格をしているが……いったい誰が王女教育を担当したんだ?
ミストリア王国の王女は祖神ミストリアの特徴を引き継いで『恋に超不器用』なうえに『性知識の習得が奇跡的なまでに遅い』という性質を持つ。
そんな殿下に『妖艶な言動をさせる』など本来の王女教育としてはあり得ないのだが……男を知り尽くした悪女の如き言動をする殿下に、私は教育係の頭を疑った。
「あの……殿下はどなたから花嫁修業を受けたのですか?」
イザベラ様かセレス様であってくれという私の願いは、
「アリアよ」
殿下の一言で最悪の方向に否定される。
エストランド家のアリア殿といえば……本物のサキュバスじゃないですかっ!?
王女の教育係として不適切すぎる人選に、私はエストランド領に住まう方々の頭も疑った。
「……失礼ながら、軽く教育内容をうかがっても?」
本来であれば男の私がこのようなことを聞くべきではないのだが、ひとりの従者として確認せずにはいられない。
私の問いかけに殿下は特に嫌な顔もせず記憶を探ってくださる。
「最近はそうね……植物の茎を口の中で上手に結ぶ方法を教わっているわ。これを覚えるとキスが上手くなるらしいのだけれど……キスは唇でするものなのに、上達に舌ベラが関係しているなんて不思議な話よね?」
……おいサキュバス!
幼気な王女になんてことを教えているんだっ!?
そのうちアリア殿とは殿下の教育についてオハナシする必要があるだろう。
不適切としか思えない教育者の所業に痛みを放つ腹を押さえ、続けて私は王女が恋した時の確認事項を記憶の底から掘り起こす。
「あー……話は変わりますが。できれば従者として殿下の婚約者殿にご挨拶をしたいのですが……私が会うことは可能でしょうか?」
王女恋愛御作法指南書『確認事項その二――恋愛対象の安否』。
恋に狂った王女は恋愛対象を拉致監禁することが多いため、相手の無事を確認することは特に優先順位が高かった。
最悪の場合はこの質問をした時点で殺されることもあるらしいが、幸い殿下はそこまで拗らせていないようで、代わりにモジモジと愛らしく頬を赤らめる。
「いいけど……私が王女ってことは秘密だからね?」
「もちろんでございます」
これは『ありのままの自分病』と呼ばれるもので、ミストリア王家の王女に共通して見られる恋患いの一種である。
有識者によると恋する相手には身分で見られたくないという乙女心が病の主な原因らしい。
もともと恋愛対象が王女の身分を知っていればまだマシなのだが、身分を知らない者に口を滑らせた場合は八つ裂きにされるため、情報の扱いには細心の注意が必要だった。
王女の恋愛対象の前では絶対に「殿下」と呼ばない。
ミストリア王家の密偵として何度も教え込まれた注意事項を再確認した私は、ベッドから身を起こして肉体の状態を確認する。
どういうわけか凄まじく疲労が溜まっているみたいだが、特に身体に外傷はなく……私は自分がここで寝ていたことに疑問を抱いた。
……なんでだろう?
ここに来た経緯を思い出そうとすると、激しく身体が震えるのはなんでだろう?
ラウラ様に道案内されて森に入ったところまでは覚えているのだが……それ以降のことがまったく思い出せない。
無理に記憶を引き出そうとすると、なぜか全身を引き裂くような苦痛が迫り上がってくるし、あまりの恐怖で精神が壊れそうになる。
私は……確か森の中に入ったあと……赤い扉を見つけて……
「赤い扉を開けてはならないっ! 赤い扉を開けてはならないっ! 赤い扉を開けてはならないっ!」
口から勝手に出てくる言葉に、アイリス殿下が微笑んでいるのがとても恐ろしい。
「大丈夫よ、グランツ……最初はみんなそうなるの」
まるで根源的な恐怖から逃げようとするような衝動に駆られ、私は失った記憶を取り戻すことを断念した。
……赤い扉は……赤い扉だけは決して開けてはならないのだ…………。
失われた記憶に蓋をするその扉を私の魂が恐れていた。
「さあ、行きましょう? 赤い扉はここにはないから」
アイリス殿下に促され、私は頭を振りつつ立ち上がる。
なにやら酷いトラウマを植え付けられたような気がするが、今は殿下の恋愛事情を探ることのほうが重要だった。
「他の扉も開けちゃダメよ? このあたりにはメアリーの寝室がたくさんあるの」
黒い廊下を先導しながら殿下が注意してくださるが……メアリーというのは誰のことだろうか?
なんとなく聞き覚えのある名前に私は記憶を探り、やはり口から例の言葉を連呼する。
「赤い扉を開けてはならないっ! 赤い扉を開けてはならないっ! 赤い扉を開けてはならないっ!」
「よしよし」
廊下にうずくまって頭皮を掻きむしる私を、アイリス殿下は優しく見守ってくださる。
それから私は何度も発狂したが、根気よく導いてくださる女神のおかげで、どうにか婚約者殿がいるという巨城の最上階へと進むことができた。
道中で目にした窓の外には真っ白な雲海が広がっており、それだけでもこの城の異様性がよくわかった。
迷路のように曲がりくねった廊下。
上へ下へと時空を捻じ曲げて伸びる階段。
壁に飾られた絵画が時おり私へと微笑みかけて、絵の中へと誘おうとしてくる。
「あの……殿下? この城はいったい……?」
いっそ発狂した私が見ている幻覚だと言われたほうが現実味のある光景の数々に、我慢できなくなった私が問いかけると、先を行く殿下は振り返って人差し指を口の前に当てた。
「それも秘密!」
とろけるような笑顔を浮かべる女神の姿に、私の背筋は凍りつく。
……やはり『愛の巣』だったか…………。
巣の大きさは王女が背負う運命の大きさに比例すると言われているが……ここまで酷い巣を見たのははじめてだ。
「……この城のことを、国王陛下はご存知で?」
無駄と知りつつも『確認事項その五三――愛の巣の所在報告の可否』を埋めるために質問すると、アイリス殿下は蒼い瞳を妖しく輝かせて首を横に振った。
「お父様は知らないわ……いえ、本当は『知らないようにしている』の……だって私の彼はとっても優秀だから……その力を知ったら国王として使いたくなってしまうもの……」
蒼い瞳で虚空を見つめるアイリス様は、まるで預言者のように最悪の未来を語る。
「そんなことになったら――ミストリア王国は私に滅ぼされてしまうでしょう?」
とてもあり得る結末に、私は粛々と頭を下げた。
「おっしゃる通りかと……流石のご彗眼です」
ミストリア王家が持つ魔眼の特性からして、王族の先読みは凄まじい精度で当たるのだ。
幸いなのはそのような未来が発生しないように、アイリス殿下とラインハルト陛下が動いてくださっているということで……私はただ『陛下に余計な情報を伝えてはならない』ということだけを心に刻んだ。
会話を終えたアイリス殿下はやがて城の最上階へとたどり着き、精緻な骸骨の装飾が施された禍々しい扉の前で立ち止まる。
「ここに彼がいるんだけど……ちょっと待ってね」
そう言って巨大な扉に背を向け、
「メアリー、『ミラーモード』」
赤い手鏡で自分の身なりを確認する殿下。
その乙女な姿に私は微笑ましい気持ちになり、続けてやたらと凄まじい魔力を放つ手鏡に、例の言葉を垂れ流した。
「赤い扉を開けてはならないっ! 赤い扉を開けてはならないっ!! 赤い扉を開けてはならないいいいいいっ!!!」
……これはいつになったら治るのだろうか?
2025.03.15 修正。