第65話 王家の密偵と魔王城
SIDE:グランツ
成り行きで入ることになった魔境の中は、この世に顕現した悪夢そのものだった。
次々と襲い来る凶悪な魔物たち。
徐々に正気を削り取る濃密な燐気。
森の木々の影からは禍々しい気配が漂っており、闇を直視するだけで気が狂いそうになる。
エストランド領へと向かうために万全の準備を整えていたおかげでなんとか私は正気を保っていられるが、体力のほうは刻一刻と限界に近づいていた。
「ぜひゅーっ! ぜひゅーっ! ら、ラウラさまっ……も、目的地はまだなのでしょうかっ!?」
……エストランド領を出てからすでに数時間は全力疾走しただろうか?
叫べばそのぶん体力を消耗してしまうのだが、終わりの見えない走り込みというのは精神的に来るものがあり……私は何度目になるかわからない確認をラウラ様へと入れる。
「あと少しだ」
しかし先を走る彼女は毎回似たような回答を繰り返すばかりで、私は裂けた喉から迫り上がってくる血で胸元を赤く染めながら走り続ける。
これほど苦しい思いをするのはいつぶりだろうか?
田舎に暮らす者の『あと少し』ほどアテにならないものは他にない。
思えば200年ほど前の王家の暗部は血を吐くまで走り続けるのが当たり前で……遠のく意識に昔を思い出した私は、
「いぎっ……!?」
自分の腕へと短剣を突き刺して薄れゆく意識を引き止めた。
「お? 懐かしい小技を使うじゃないか! 私も若い頃はよくやったものだ」
涼しい顔で前を走るラウラ様は襲い来る魔物を細切れにしつつ、私にアドバイスをしてくださる。
「だけど気付けをするなら自分の指を噛み砕いたほうがいい。腕よりも神経が集中していて痛みを感じやすいし、二、三本くらいなら変わらず剣を振れるからな」
「は、はひっ! 御指導いただきっ! 感謝いたしますっ!」
相手が無下にできない権力者だから血反吐を撒き散らしながら礼を言ったが、もちろん内心では真逆の感情が沸き起こる。
……違うから!
これは決して『案内』なんかじゃないからっ!
いちおう護衛はしてくれているみたいだけど、客人として来ている私が自傷するのは何かが確実に間違っているからっ!
しかし国王陛下のご友人にそんな文句を言えるはずもなく……私はその後もラウラ様のアドバイスに従って両手の中指を犠牲にしながら走り続けた。
剣を使う上でこの指が最も影響が出にくいらしい。
そして半死半生で走り続けること数時間。
後半はラウラ様の背中だけを見て体を動かしていた私は、急に彼女が止まったことで、つんのめって豪快に地面の上を転がった。
「おっと」
後ろから足元に突っ込んだ私を余裕で躱して、ラウラ様は平然と進行方向に視線を戻す。
「いちおう息子たちがいる場所には着いたのだが……こいつは思った以上に面白いことになっているようだ……」
彼女の視線を追って前を見ると、そこには森の中に突如として現れた城下街があり……王都を超える規模の巨大な建築物の集まりに私は空いた口が塞がらなかった。
「……あ、あの街はいったい…………」
「さあな」
私の問いにラウラ様は答えず、代わりに腰のポーチから出した薬瓶を私へと放ってくださる。
淡く光る高価な魔法薬が入ったそれを受け取った私は、
「……有り難く」
遠慮せず瓶の中身を飲み干して傷ついた肉体を回復させた。
魔法薬で疲れまで取れることは無いが、裂けた喉や砕けた指は再生することができる。
どれだけ肉体が壊れても生きるために動き続ける超一流の冒険者にとって、この程度の傷は怪我のうちに入らないのだろう。
そして薬が染み渡るのを私が待っている間に、ラウラ様は森の影に入って小声で誰かと連絡を取っていた。
「――いや、大丈夫だ。べつに街から侵入者と認識されていても私は自力で探索できるから、わざわざノエルに入城許可を求める必要はない…………なに? 客人の案内? ……せ、せっかく目の前に面白そうな迷宮があるのだから、いっしょに冒険させてやったほうが感謝されるだろう?」
ぷる……。
なにやら影からこちらを憐れむような視線が流れてきた気がするが、きっと私の気の所為だろう。
この森の影を見ると気が狂いそうになるから、一種の精神異常かもしれない。
ようやく魔法薬の効果が体の隅々まで行き渡って私が重い体で立ち上がると、ラウラ様はそこら辺に落ちていた丁度いいサイズの枝を拾って二、三度振るう。
シュッ、シュパッ。
木の枝から生じた真空波で近くの岩をバターのように斬り裂いた彼女は、続けてその枝で森の中に聳え立つ城下街を指し示した。
「それではこれより街に入る。おそらく息子たちはあの中にいるだろうから、私のあとに付いてくるように!」
……ここで待つ、という選択肢は無いのですね?
森の中の怪しい都市にラウラ様の御子息たちは入り込んでいるらしく、彼女は都市の中まで突っ込んで案内を継続してくれるようだ。
まったくもって『ありがた迷惑』としか言いようがないが、たとえ常軌を逸した提案だろうとも上位者には逆らえないのが貴族社会の嫌なところ……。
「……なるべく足を引っ張らないよう善処します…………」
せめてもの救いだったのは、街に入るためにラウラ様が走ることをやめてくれたことだろう。
木の枝を握り尻尾を嬉しそうに振る彼女は、今までの強行軍が嘘のように慎重に歩み始める。
近づいてくる城下街には城壁が無く、森との境が急に石畳の地面に変わっていた。
そしてそんな違和感だらけの街に近づいたことで、私はその街の更なる異様さに気付く。
「……侵食している?」
私が見つめる前で城下街の石畳が森を呑み込んで、少しずつその範囲を広げていた。
ある程度まで石畳が広がると、粘土のようなものが地面から湧き出してきて、あっという間に石造りの建物へと姿を変える。
「っ!? 生体迷宮かっ!?」
大陸全体の危機とでも呼ぶべきその光景に私は戦慄した。
古来よりこの世界に数多ある迷宮は様々な種類の特性を持っている。
神が創ったもの。
人の手で造られたもの。
古い洞窟や建物に魔物が住みつき魔窟化したもの。
その発生経路は多岐に渡り、迷宮が持つ特性も星の数ほど存在しているが、そんな中でも特に危険視されているのが『命ある迷宮』だった。
最初は例の【新月教団】が造った秘密都市なのではないかと思っていたが、これが生体迷宮となると話が大きく変わってくる。
「ラウラ様……今すぐ陛下に連絡しましょう! これを放置しては大陸の存亡に関わります!」
もはや一国の命運どころの騒ぎではなかった。
生体迷宮は成長の速度が特筆して早いうえに、内部に取り込んだ魔物を爆発的に変異・増殖させる固有能力を持っている。
取り込んだ魔物の強さによって迷宮の危険度に雲泥の差は出るが、この場所が【刻死樹海】というだけで状況は最悪と言えた。
ここに生息するのは単体ならばまだしも、数体群れるだけで私では手も足もでなくなるほどの強力な魔物たちだ。
もしもそのような魔物が取り込まれて増殖したならば、この迷宮から生じる大氾濫は大陸全土を呑み込むことになるだろう。
背筋に冷たい汗を流して進言する私に、しかしラウラ様は珍しく視線を彷徨わせる。
「あー……いや、これは報告しなくても大丈夫だ……すでに対処はうちの息子が終わらせているから……」
……アーサー・エストランドが攻略しているということか?
ラウラ様に焦燥している様子が無いあたり、攻略はすでに終盤へと差し掛かっているかもしれないが、それでも万が一という可能性を否定できない私は迷宮の攻略に全力で協力することにした。
アーサー・エストランドの商売を手伝うという勅命を受けてはいるものの、私の代わりなどいくらでも存在する。
ならばこの命は国家の危機に対処するために使用し、少しでも迷宮攻略の助けとなることが王家の密偵としてやるべきことだろう。
アーサー・エストランドとラウラ様の合流を手助けできれば、この天災とも言うべき迷宮を確実に攻略できるはず。
「斥候はお任せください。ひとつでも多くの情報を抜き取ってみせましょう!」
「う、うむ……その意気だ」
もしかするとラウラ様も息子の迷宮攻略を手伝うために、ここまで体を温めてきたのかもしれない。
どことなく彼女が気まずそうなのは、私を巻き込んだからだろうか?
しかし常日頃から王国のために命を投げ出す覚悟を決めている私は、むしろこのような活躍の機会を与えてくださったラウラ様に深く感謝した。
ふっ……これまで万年下っ端の密偵として冴えない生を歩んできたが、どうやら最後にとびきりの活躍の場が用意されていたらしい。
ミストリア王国の影、グランツ・ハーミット。
大陸の平和を守るため――推して参る!
そして決死の覚悟を胸に、ラウラ様の前を歩き出した私は、さっそく建物の角から単体で現れた見るからに邪悪な魔物を討伐しようとし、
『モキュッ?』
またたく間に意識を刈り取られた……。