第63話 王家の密偵と辺境の村
SIDE:グランツ
イザベラ様から勅命を受け取った6日後。
私は最速で準備を整えてオルタナの街を出立し、ひとりエストランド領へと向かっていた。
オルタナ周辺では魔物が強すぎて馬車の定期便が運行されていないため、入念に武装を整えて徒歩で北へと足を進める。
運が悪いと道中で北部辺境域をうろつく上位種の魔物に襲われるため、エストランド領に向かうのはそれだけで命がけというのが一般常識だが、密偵として血の滲むような訓練を受けてきた私にとっては到着するだけなら難しくなかった。
この6日間でそのための準備は十分にしてきたのだ。
先方にも準備に時間がかかることは精霊経由で伝えてあるため、私の行動計画に抜かりはない。
道中では細心の注意を払って魔物の気配を探りつつ、単体の魔物ならば貴重な魔道具の力を借りて速やかに排除し、群れが近づいてきた時には気配を消してやり過ごす。
時には北部辺境域で採れる貴重な素材に目が眩んだ商人がこの道を決死の覚悟で歩くこともあると言うが、このような危険地帯をろくな訓練も受けていない一般人が歩くなど、私には自殺行為としか思えなかった。
きっとそいつらはよほどのギャンブラーか、よほど物を知らない阿呆なのだろう。
常に死と隣り合わせの街道を進んで行くと、やがて魔物の気配が極端に薄くなり、道の先に簡易な木柵で囲まれた村が見えてくる。
ようやくひとつの死地を乗り超えたことに安堵しながら、私は村を囲む木柵の手前まで歩き、初めて目にするエストランド領を眺めた。
見た目は『ろくな防衛能力も無い開拓村』といった感じだろう。
街を囲む木柵は腰の高さまでしかなく、成人男性なら軽く飛び越せる。
村の中央には酒場のような立派な建物と石畳の広場が見えるが、それ以外はまばらに家が建っているくらいで、家と家の間には小さな家庭菜園が造られていたり、洗濯物が風に揺れていたりと、長閑な田舎の光景が広がっていた。
……先ほどまで歩いてきた危険地帯との温度差に、密偵として鍛えられた危機感知能力が激しく警鐘を鳴らす。
このような違和感しかない光景を目にした時は、特に注意しなければならない。
本来ならば堅牢な石壁を造らなければ暮らせないような秘境に、簡易な木柵だけで生活できているということは、それを可能にするだけの何かが隠されているのだから。
そんな直感を信じた私は、何があっても動じないように決意を固めてから、エストランド領へと足を踏み入れる。
そして木柵の開かれた場所から領の中へと入った瞬間、
「――王家の密偵が何用だ?」
「っ!!?」
私の背中に短剣が突き付けられた。
……どこから現れた?!
周囲の影には気を配っていたし、他に隠れるところなどなかったはずだ。
なにより私の所属が完璧に看破されていることに、短剣の先端が当てられている背中に嫌な汗が流れる。
そのまま私は身体を動かすことなく、相手を極力刺激しないように返答した。
「……い、イザベラ様経由の勅命で訪れました。商売の手伝いが目的です」
簡潔に用件を伝えると、背中から切っ先が外されて、先ほどまで感じていたとてつもないプレッシャーが霧散する。
「あらやだっ!? それならそうと村に入る前に言いなさいよ!」
そして私の肩をバシバシ叩きながら背後から現れたのは……どこからどう見ても田舎の主婦みたいな格好をした女獣人だった。
家事の途中だったのか腰にエプロンを巻いたその女性は、手にした包丁で村の北側を差し示す。
「領主様のお屋敷は村の一番奥だから、酒場に行く前に顔を出しなさい! 先に一杯ひっかけようなんて考えちゃダメだからね!」
「……は、はあ?」
お節介な村人のようなことを言う女性に私が困惑しながら返事をすると、彼女は包丁をエプロンの腰紐に差し込んで、パンパンと手を鳴らして周囲へと呼びかけた。
「はいっ! 解散、解散~! 聞いての通りイザベラちゃんのおつかいみたいだから、全員仕事に戻るように~っ!」
その声に呼応して周囲にある風景がグニャリと曲がり、血のような赤い液体になって地面へと吸い込まれていく。
「ちぇ~っ! 敵じゃないのか~!」
「久しぶりに実戦で血を見れると思ったのに~!」
「しかし今の新機能はヤバいですな!」
「この『コーガクメイサイ』ってやつ? なんでも坊ちゃまが『モニター』を作るついでに考えたんですって! あの子って本物の天才よね~」
そして新しく現れた者を加えた5名の女性たちは、その手に持った鎌やトンカチなどを手の中で器用に回しながら、村の中へと戻っていく。
おそらく彼女たちは生まれつき【不老種】だった私とは違い、自力で定命の壁を打ち破った強者の集まりだろう。
そのイザベラ様に匹敵する足取りに軽い目眩を覚えながら、私はその場で数回深呼吸した。
すー、はー。
すーー、はーー。
すぅーーー、はぁーーー。
……よし、大丈夫。
あまりにも『隠し事』の次元が違いすぎて、もう入口で引き返したくなってきたけれど……私はまだ任務を続行できる。
どうせここで目にした情報は秘密にしなければならないのだから、先ほどの意味不明な未知の技術も見なかったことにすればいいのだ。
固めたばかりの決意が砕け散りそうになるのを必死で繋ぎ止め、私はエストランド領の奥へと激しく震える足を進めた。
領主様の屋敷は奥にあると助言をいただいたので、宿屋も兼ねているらしい酒場を素通りして、村の奥へと進んで行く。
木柵の向こうの放牧地では、大人しく地竜が草を食んでいて……その光景に私は再び目眩に襲われた。
あれって一頭で街とか滅ぼす【城砕竜】だよな……?
エストランド領から入荷される地竜の素材って、野生の地竜のものではなかったのか?
頭突きで城壁を破壊する危険な竜種が家畜化されている現実は、ちょっと人として受け入れ難いものがあった。
……もしかして私は夢を見ているのだろうか?
二、三度、頭を振ってもう1度同じところを眺めてみても、相変わらず地竜が草を食んでいる。
「……どうしてここの人間は、これを当り前のように受け入れているんだ?」
もはやこの土地では地竜を飼育するのが日常の一部なのか、道行く村人たちも気にしていない。
そのあまりにも異様な光景に背筋を凍らせつつ歩き続けると、ようやく北の果てに他の民家よりも大きな家が見えてきて、私はそこが目的地であることを悟った。
えっと……なんだアレ?
見た目は村長や豪農の立派な家といった感じではあるが、その家に施されている魔法的な防衛網が凄いことになっている。
そこらの砦どころか王宮にすら匹敵する防御結界や攻勢結界の数々は複雑怪奇に入り組んでいて、たとえ火竜のブレスが当たっても軽く弾きそうなほどだった。
……この土地で暮らすには、こんな家を用意する必要があるのか?
などと呆けていたら今度は屋敷の向こうに四人の人影が現れて、その者たちは1対3の変則的な組み手を開始した。
「――せやあああああああああっ! 【龍脈裂波】っ!」
三人の人影に囲まれた獣人が裂帛の気合いとともに大地を殴ると、岩盤がめくれあがって弾け飛び、周りを囲む者たちの足場を崩す。
しかしその三人は下から襲い来る岩石の弾丸を逆に足場として利用して、縦横無尽に獣人の少女へと殴りかかった。
「わっ!? ちょっ……本気で連携するのはズルいですって!?」
しばらく獣人は神がかった技の切れで三人の猛攻を捌いていたが、すぐに限界が訪れて三つの拳が少女の体に突き刺さる。
「ふぎゃーーーっ!!?」
そして血反吐を撒き散らしながら大地を転がった少女に三つの人影は歩み寄り、懐から取り出した上級ポーションを振りかけた。
「弛んでいますよ、リドリー。今から始まるのは神戦紀に考案された伝説の鍛錬法――【千本死合い】。その腑抜けた精神を叩き直すために、今からあなたには千回死にかけるまで私たちと戦ってもらいます」
「――せ、せんっ!??」
イザベラ様に似た人影の言葉に、獣人の少女はビクリと震えた。
続けてセレス様に似た人影が歩み出て、千本死合いとかいう拷問のルールを説明する。
「口答えをしたら1回、手を抜いたら10回、逃げ出そうとしたら100回、違反するたびに死合いの回数を追加する……死にたくなければ本気で取り組むように」
「……そ、そんなっ…………」
そのあんまりなルールに愕然とする獣人の少女へと、最後に赤髪の獣人が笑顔で告げる。
「はぁい♪ いま口答えを2回して1回手を抜いたから、残りは1000と11回ねぇ♪」
「ああっ……あああああああああああああっ!?!?」
そして狂乱して逃げ出そうとする獣人少女を追いかけて、三人の鬼畜たちは楽しそうに笑った。
「「「プラス100っ♪」」」
そんな非人道的な鍛錬を見て、私はそれが幻覚であることを確信する。
屋敷にかけられた精神感応系のトラップにでも引っかかったのかもしれない。
ふっ……精神異常に抗う鍛錬を受けているこの私を術にかけるとは大したものだが、流石に幻覚の内容が常軌を逸しすぎているだろう。
そして連続する異様な光景に私が自分の正気を疑っていると、屋敷の正面入口が開いて、今度は黒髪の獣人女性が現れた。
その御方の姿を目にした私は即座にその場で平伏する。
夜空を思わせる黒髪に片割れの月と同じ金眼。
かつて我が王とともに【修羅の古道】を踏破して【廃都】へと赴き、その地に蔓延る邪神を討滅した金月の使徒――【閃剣】のラウラ。
私はそれほど宗教に熱心なわけではないが、それでも偉大なるラグナリカ様と同じ色を持つ英雄に敬意を示すのは当然だった。
「む……イザベラが言っていた商人か?」
大地に平伏す私へとラウラ様が声をかけてくる。
「ハッ! 勅命により馳せ参じました。御用命があれば、なんなりとお申し付けください」
王の盟友に最敬礼でもって接すると、しかし彼女はそれを嫌がった。
「まずは立て、それとその堅苦しい物言いをやめろ」
ラウラ様は貴族にするような対応を嫌うとは聞いていたので、本人の許可を得た私は即座に立ち上がって少しだけ口調を崩す。
「失礼しました。最低限の礼節を守らないと色々と怖いものでして」
万が一にもエストランド家の不興を買えば、ミストリア王国の国益は大きく損なわれるだろう。
北部辺境域から降りてくる魔物たちへの守りを失い。
国王陛下が苦労して結んだ吸血鬼たちとの休戦協定を失い。
そしてオルタナの街から齎される高品質な魔道具や魔物の素材による莫大な収益をも失うことになる。
今も王宮ではオルタナの領主の地位を巡って貴族たちによる暗闘が続いているし、『エストランド家が指を動かせば王国全体が動く』などと囁かれるほど、この国の貴族たちはエストランド領のことを特別視していた。
そんな事情もあって形式的な対応をした私へと、ラウラ様は憐憫の視線を向けてくる。
「宮仕えというのは面倒なものだな……嫌にはならないのか?」
「いえ、やりがいはありますので」
我らエルフやダークエルフにとって、双月神に関わる仕事をすることは最大の名誉だ。
特に私の場合は両親の世代からミストリア王国に仕えていたため、蒼月神の子孫でもある王家のために仕事をすることは自分自身の存在理由と言えた。
「そいつは結構」
私の返答に納得したらしいラウラ様はひとつ頷いて踵を返すと、短く「ついてこい」と先導を開始する。
どうやら彼女自ら案内をしてくれるらしい。
素直にその背中を追いかけると、なぜかラウラ様は家の中ではなく裏庭へと向かって、そこからさらに北西の方角へと進み出した。
「すまんがうちの子供たちは今、森の中へと入っていてな……マーサたちは可愛がりの最中だし……メルもショックで寝込んでしまったし……お前にメアリーを使わせていいのかもわからんから、代わりに私が走って案内しよう」
「? ありがとうございます??」
メアリーというのがなんなのかは不明だが、道案内はありがたいので礼を言ったところで、私はようやく彼女の言葉の意味を理解した。
『森の中へと入っていてな……』
エストランド領の北西にある森って……【刻死樹海】?
神の血を引く陛下ですら『二度と入りたくない』と言っていた最高クラスの魔境に今から行くの?
……いやいやいや。
そんなわけありませんよね?
いくらなんでもそんな普段着みたいな恰好で武器も持たずに魔境に入るわけありませんよね!?
しかしラウラ様は魔境に向かって一直線で進み、私へと振り返って訊ねてくる。
「お前もイザベラの訓練を受けたことがあるなら、それなりに走れるよな?」
その曇りなき美しい笑顔に私は過去最大級の嫌な予感を抱いた。
……鍛え上げた私の直感が言っている。
この人の案内に従ったら……確実に死ぬ、と。
先ほど背中に突き付けられた包丁が可愛く思えるほどの濃密な死の気配を前に、私の頭はどうやって案内を断るべきかと必死で回り出す。
「あの……お手数かけるのも申し訳ありませんし、やはり私はこの村で待っていようかと……」
そして絞り出した完璧なお断りの言葉は、
「まあ、遠慮するな。ちょうど軽く準備運動をしようと思っていたところなんだ」
英雄の純粋な善意によって即座に斬り捨てられた。
あああああああああっ!? ヤバいヤバいヤバいっ!??
草原を一歩進むごとに死の気配が濃くなっていく。
そしてラウラ様が、ぐぐっ、と身体を伸ばして、
「さて、そろそろ走るか」
と言ったところで、
(あ……終わった…………)
私は彼女の背後で振りかぶられる死神の鎌を幻視した。
――拝啓、神の園で暮らすアイリス殿下……私ももうすぐ、そちらへと向かいます…………。
そして忠誠を捧げる小さな女神の姿を思い出した私は、金月に遣わされた狼に導かれ、帰還不可能と謳われる死の森へと足を踏み入れた。




