第55話 オルタナ事変 ③
SIDE:ギルベルト
それは絶望的な光景だった。
人体で作られた不気味な像が並ぶ地下空間、人皮のローブを纏った邪術使いたちの儀式により、身も凍るような魔力とともに巨大な邪神が這い出してくる。
その悍ましき姿は目にしただけで発狂しそうなほどイカれたものだった。
絶えず流動する不定形の身体。
体表を泳ぎ回る無数の邪眼。
身体から生えた数百本の触手はひとつひとつがまるで独立した思考を持っているかのように蠢いていて……たった一本の触手にすら俺たちでは手も足もでないことが本能的にわかってしまう。
「……む、無理だ……こんなの相手に勝てるわけがない……」
「うああっ……ああああああっ!? あああああああああああああっっっ!??」
「……こ、この世の終わりだ…………世界はこいつに滅ぼされるんだ……」
その姿を見ただけで半数の戦士たちが武器を取り落とし、戦う代わりに様々な行動を始めた。
膝を突き、涙を流して祈り始める者。
頭を掻きむしりながら金切り声をあげる者。
蹲って丸くなり、現実から目を逸らすように震える者。
まるでオルタナの街よりも大きな存在と対峙しているかのような気配が、俺たちの心から抵抗する気力を奪っていく。
さらには邪神から精神攻撃を受けたのか、
「……そ、そんなぁ…………」
「!? どうした【血飢】っ!?」
あのマーサ様までもが膝から崩れ落ちて戦闘不能になってしまった。
絶望する俺たちを前に、邪神を呼び出したロドリゲスは哄笑を上げる。
「ふはははははっ! さあっ! 邪神様、ここにいる贄をお受け取りください! 私からのささやかな贈り物でございます!」
その宣言の直後。
俺の全身に鳥肌が立った。
「うぁっ…………」
見られている……。
邪神の眼球のひとつが俺のことを見ている。
これまで全ての眼球をリドルリーナ様へと向けていた邪神がほんの少し自分へと意識を向けただけで、俺は死よりも酷い最期を幻視した。
他の戦士たちも同様だったのか、邪神からたったひとつの目玉を向けられただけで次々と手にした武器を落としていく。
となりにいたエレナも自慢の長杖を捨てて、膝を抱いて失禁しながら子供のように泣きじゃくっていた。
……ここまで、か。
構えていた両拳から力を抜いて、他の者たちと同じように膝を突く。
たったの一瞥で心が折れ、目の前の異形が絶対に敵わない存在だと思い知らされてしまった。
願わくば楽に殺して欲しいものだが……こいつにそんな優しさがあるとは思わないほうがいいだろう。
そして俺の心が絶望に塗りつぶされそうになったとき、静かに発せられた独特の笑い声が地下空間にこだました。
「……くっ……くくっ……くくくくくっ…………」
邪神が現れた時から、その無数の視線を一身に受け、常に注意を引きつけてくれていた神の末裔。
リドルリーナ・エミル・ミストリア様は、その圧倒的な存在を前にしても平然と立ち続けていた。
項垂れていた者も、発狂していた者も、暗闇の中に灯った光へと目を向ける。
そして俺たちを希望の光で包み込むように、リドルリーナ様は力強い言葉を発した。
「……戦士たちよ、なにも恐れることはない……やつはもう瀕死だ」
最初はその意味を理解できなかったが、続く言葉で俺は全てを察した。
「すでに我の仲間が深手を負わせている」
リドルリーナ様の仲間…………アーサー様か!?
ギルドで出会った偉大な黄金騎士の幻影が、俺の心から闇を取り去っていく。
そして次の瞬間。
リドルリーナ様が構えると同時に、邪神は赤い身体を激しく蠢かせて、その体内から巨大な顔を出現させた。
「「「あぎぃいいいいいいいいいいいいいっ!?? 痛い痛い痛い痛い痛いぃいいいいいいいいいいいいいっ!??」」」
その巨大な顔には目と鼻がない代わりに鋭い乱杭歯が並ぶ無数の口がついており、それらの口から精神を揺さぶる不快な悲鳴を発している。
しかしリドルリーナ様が言ったように、その顔は傷だらけになっており、特に額に刻まれた刺し傷から光のヒビ割れが広がって邪神を苦しめているようだった。
「な、なんだこれはっ!? いったいなにが起きている!??」
異様な有り様に困惑の声を上げるロドリゲス。
続けて邪神が無数の口から邪気を吐き出すが、リドルリーナ様は身体の周りに発生させた水流で冷静に全ての邪気を絡め取る。
そして邪気を封じた大量の水は圧縮されて水球となり、リドルリーナ様はその水球へと研ぎ澄まされた掌底を放った。
「――【水龍衝破】!」
拳士が邪神と闘うために編み出された【魔装闘法】の奥義により、リドルリーナ様の手元から飛び立った水龍が邪神の傷へと侵入していく。
水龍はその身に宿した暴虐を邪神の体内で炸裂させて、その威力に耳障りな悲鳴が地下空間を震わせた。
「「「あぎゃああああああああああああああああああああっっっ!!?」」」
額の傷を庇って赤い触手が伸ばされ、巨大な顔を覆っていく。
そして俺たちに絶望を与えた邪神は、英雄の一撃に打ちのめされて魔法陣の向こうへと沈んでいった。
「……くくっ……獲物を逃がすとはやつもまだ未熟……」
ああ……英雄がそこにいる……。
たったの一撃で邪神を倒し、絶望を打ち払う真の英雄が……。
そんな絵物語のような姿に見惚れていると、いまだに膝を突く俺たちにエスメラルダが檄を飛ばした。
「いつまで呆けているつもりだ! リドが作った好機を無駄にするなっ! このまま邪術使いどもを叩き潰すぞっ!」
リドルリーナ様の活躍を目にした戦士たちは、誰もが希望の灯を瞳に宿しており、全員が1度は落とした武器を手に取り立ち上がった。
「おっ、おのれええええええっ!? かくなる上はこの私が邪神と成って貴様らを喰らってやるっ!」
劣勢と感じたのか狼狽したロドリゲスたちが懐から小さな瓶を取り出す。
瓶の中には気泡を発する黒い液体が入っており、不気味なそれを掲げたロドリゲスたちは一息にそれを飲み干した。
「「「この世に在る全ての魂を創世の神へと捧げる!」」」
神聖教導国の邪神官がよく使う文言を口にしたそいつらは、身体から新しい手足や頭を生やして異形の姿へと変貌を遂げていく。
そして全長5メートルを超える異形のバケモノへと変わり果てたロドリゲスは、リドルリーナ様に狂った笑みを向けた。
「ふはははははっ! 力を感じるっ! 創世神様の絶大な力を感じるぞっ! 光栄に思うがいい下劣な獣人種の女よ! 少し肉が足りないが、貴様を今宵の晩餐にしてやろう!」
膨大な邪気を撒き散らしながら、大きく裂けた口元から涎を垂らすロドリゲス。
そんな怪物を前に、リドルリーナ様は仮面の下から凄まじい怒気を発した。
「…………は? 肉が足りない、だと?」
◆◆◆
SIDE:リドリー
私はロドリゲスとかいうバケモノを前にブチ切れておりました。
世の中にはたとえ神様だろうとも、女の子に対して言ってはならない言葉があります。
それは時と場合と人によって様々ですが、特に女の子本人が気にしている身体的特徴を口にすると逆鱗に触れる可能性が高いです。
そして女騎士さんに胸囲の差を見せつけられすぎた私にとって、『肉が足りない』という言葉は禁句中の禁句でした。
――私の乙女心は、激しく傷ついたっ!
怒れば怒るほど私の感覚は研ぎ澄まされていき、1秒が10秒へ、10秒が1000秒へと引き伸ばされていきます。
そのまま魂の奥底から湧き上がる怒りのパワーに身を任せると、なぜか視界の端で揺れる私の髪の毛が紅く染まっていきました。
今ならなんでもできるという全能感。
まるで武術の神様にでもなったかのような心地よさに、私は自然と拳を構えます。
そして怒り狂う魂の囁きに耳を傾ければ、誰かが優しく力の使い方を教えてくれました。
へー……そんな武術があったんですか……。
これまで習ってきた全ての技が、私の中で纏まっていきます。
【魔装闘法】で周囲の力を支配下に置き、【鬼怪闘法】で自分の力を最大限まで高め、そして【仙理闘法】によって全ての力を丹田で回して制御する。
なんだか懐かしい感覚に、自ずと笑みが零れました。
そうです。
拳技の極地であるこの技の名前は――
「――【鬼神闘法】」
まるで追い込まれた獣のように4人の邪術使いが襲いかかってきますが、私は構わず正拳突きを放ちます。
それはあまりにも自然な一撃でした。
力むこともなく。
逸ることもなく。
相手を殴ることすら考えずに。
私がやったことは、ただ右の拳を前へと突き出しただけ。
しかしその拳に宿った【破城正拳】を超える強大な力は、4人の邪術使いを爆散させてもなお止まることはなく、ロドリゲスを巻き込んで地下空間の奥の壁に巨大な拳の跡を刻みます。
そして遅れて、ズズンッ、と大地が揺れたところで――私は我に返りました。
…………あれ?
なぜか邪術使いたちが変身した後の記憶が曖昧なのですが……いったいなにが起こったのでしょうか?
気がつくと邪術使いたちが消えていて、ロドリゲスは奥の壁でペチャンコになって血を吐いています。
周囲を見渡すとエスメラルダさんとマーサさんが私にキラキラした瞳を向けていて、ギルベルトさんが涙を流しながら私に祈りを捧げていました。
……どういう状況ですか?
なぜかやけにさっぱりした気分で呆けていると、壁から地面にベチャッと落ちたロドリゲスが悲鳴を上げながら逃走を始めます。
「ひ、ひぃいいいいいいいいいっ!?? バカなっ!? そんなバカなぁあああああああああっ!!?」
「あっ!? こら! 待ちなさいっ!」
なんとなくもう2、3発くらい殴っときたい気分だったので追いかけると、ロドリゲスは地下空間のさらに奥にあった通路へと逃げ込んで行きます。
「血だっ! もっと創世神様の血を飲めばあんな獣人なんてぇえええええっ!!?」
狂ったようにそんなことを叫ぶ怪物を追いかけていくと、通路の先には壁に大量の人骨が埋め込まれた墓場のような部屋があり、その最奥には人体で作られた巨大な創世神像が置かれていました。
創世神像の前には祭壇が築かれていて、そこには先ほどロドリゲスが飲み干した小瓶が大量に並べられています。
「!? あれは何者だ?」
いっしょにロドリゲスを追いかけてきたギルベルトさんが緊張した声を出しました。
祭壇の前には黒いローブに身を包んだ人影があり、その者はロドリゲスが近づくとゆっくり振り返ります。
「そこをどけぇええええええっ!? もっと血を飲ませろぉおおおおおおおおっ!?」
そしてロドリゲスがボコボコと肉を蠢かせて巨大化させた右腕でローブの男を薙ぎ払おうとすると、男は外套の中から抜き放った剣であっさりロドリゲスを両断しました。
「「「なっ!!?」」」
その斬撃の威力に、追ってきた戦士たちが驚愕します。
男が放った斬り上げはロドリゲスを両断するだけでは止まらず、剣から発生した聖なる光が地下室の天井を貫いて、オルタナの上空まで伸びていくのがわかりました。
聖光の影響で邪悪な創世神像が青白い炎を発して燃え上がり、人骨が埋められた地下空間で神剣を振り上げる男の姿を照らし出します。
まるで宗教画にでも描かれそうなその光景に、エスメラルダさんが目を丸くしました。
「っ!? その剣はっ!!?」
……ここで彼を『謎の男』で終わらせることができれば本当によかったのですが……残念ながら私は照らし出された男の姿に、ものすごーく見覚えがありました。
私も欲しかった漆黒の外套。
マーサさんに言われて私が用意した鎖付きの首輪。
さらには毎日顔を合わせている神剣まで握っているのですから……これはもう間違えようがありません…………。
私にジト目を向けられたその男は慌ててマントを翻すと、血液操作で【創世神の血】を回収して影の中へと飛び込みます。
「――待てっ!!?」
エスメラルダさんが大声で呼び止めますが、後に残されたのは聖光の残滓だけ。
そして無駄に格好良い演出だけ残して消え去った謎の男の所業に、私は心の中で絶叫しました。
――なにやってんですかっ!? 坊ちゃまあああああああああああああっ!?!?