第29話 刻死樹海の奇跡
SIDE:神に祈る冒険者
その神々しい光景を、俺は必死で目に焼き付けていた。
俺に絶望を与えた恐るべき魔女を、まるで赤子の相手をするかのように圧倒した子供。
夜空を思わせる黒髪と、金月と蒼月と同じ瞳を持ったその御方は、従者の首に口を付けてその身体から穢れを吸っていた。
小さな喉が動くたび、従者の腐った肌が正常な色へと戻っていき、やがて彼女は女神のような金髪金眼の美女へと変貌を遂げる。
二つの月明かりに照らされる中、背後に邪神を控えさせて行われたその奇跡は、まるで宗教画を思わせる神秘的な光景で……気がつけば俺は胸の前で腕を組み、大地に膝を突けて滂沱の涙を流していた。
――使徒様だっ!!!
なんと慈悲深い奇跡だろうか……心からの祈りを捧げた俺の元に、双月の女神様は使徒様を遣わしてくださったのだ!
仲間を見捨て、子供を見捨て……もはや無価値だと思っていた俺の命にまで、偉大なる神々はその御手を伸ばしてくださるというのか!
女神様の慈愛に触れた俺――いや、私は――心を入れ替えて祈り続ける。
そして私が使徒様の美しい御姿を魂へと刻みつけたころ、使徒様は従者の美女から口を離し、卑しい私へと目を向けてくださった。
二つの聖貴色を帯びた瞳に見つめられ、私の全身が歓喜で満たされる。
「……大丈夫ですか?」
使徒様からの気遣いの御言葉に、私は慌てて地面に額を擦り付けて平伏した。
「は、はひっ! 貴方様の御力で命を救われました! この御恩は身命を賭して御返しさせていただきますっ!」
この御方に死ねと言われれば、私は喜んで死ねるだろう。
だから私に差し出せる全てを使徒様に捧げるつもりで感謝の言葉を口にしたのだが……心根まで聖人であらせられる使徒様は驚きの行動に出た。
「いえ、お礼なんていりませんよ」
そう言って私へと歩みより、大地に膝を突いて平伏した私の身体を使徒様が起こしてくださる。
卑賤なこの身に触れてもらえた喜びに溢れる涙が止まらない。
使徒様はその美しい御尊顔で私へと微笑むと、口元に人差し指を付けて優しく微笑んでくださった。
「……ですが、この森で起きたことは内緒にしてくださいね? 僕のことを言いふらされると困ってしまいますから……」
使徒様からのお願いに私は首がもげるほどの勢いで首を縦に振った。
「っ……決してっ! 決して貴方様のことは口にいたしませんっ!!」
たとえ拷問されようが、最愛の者を人質に取られようが、私が使徒様のことを漏らすことはないだろう。
神と等しい御方との約束に、私はこの森で目にした数々の奇跡を墓場まで持っていくことを心に誓った。
使徒様は私の言葉に満足そうに頷いて、今度は半分ほど切断された私の指に視線をお向けになる。
「怪我をしているみたいですね……初めてなので上手くいくかわかりませんが、回復魔法をかけましょう」
「い、いえ! そこまでしていただくわけには――」
私はこれ以上、使徒様に迷惑を掛けまいと必死で止めようとしたが、慈悲深き使徒様は微笑みを浮かべたまま私へと手の平を向けて、短く聖句をお唱えになった。
「――『癒やしの光よ、この者の苦痛を払いたまえ』」
そして私の身体は激しい聖光に包まれた。
◆◆◆
SIDE:ノエル
やべー……夢中でシャルさんの呪いを吸ってたら、いつの間にか瞳に掛けた『変色』の魔法が解けてたよ……。
どうやら森に迷い込んだ一般人の方に私の瞳が見られてしまったらしく、その人はまるで聖人と対峙するような感じで私に接してくるし、母様が瞳の色を他人に見せるなという理由にも納得である。
涙を流したまま祈り続ける一般人のおじさんがお礼をしてくるというので、私はそれをやんわり断って代わりにお願いをした。
「いえ、お礼なんていりませんよ……ですが、この森で起きたことは内緒にしてくださいね? 僕のことを言いふらされると困ってしまいますから……」
「っ……決してっ! 決して貴方様のことは口にいたしませんっ!!」
もげそうなくらい首を振ってくれているし、たぶんこれで大丈夫だろう。
だけど念のためダメ押しで私はおじさんに恩を売っておくことにした。
「怪我をしているみたいですね……初めてなので上手くいくかわかりませんが、回復魔法をかけましょう」
「い、いえ! そこまでしていただくわけには――」
半分くらい千切れかかっているおじさんの指へと、私は手の平を向ける。
初級の回復魔法くらいなら、追いかけっこで転んだアイリスがイザベラさんにかけてもらうところを見たことがあるし、術式も簡単だから上手くいくだろう。
……おじさんを実験台にしているわけではないよ?
そしてちょうどいい怪我人を見つけた私は、意気揚々と回復魔法の呪文を詠唱した。
「――『癒やしの光よ、この者の苦痛を払いたまえ』」
カッ、と激しい光がおじさんを起点に湧き上がり、森の中から聖なる光の柱が夜空へと伸びていく。
ヒールを使うつもりがホーリーを放ってしまったような光景に、私は眩んだ目をパチパチさせた。
慌てて駆け寄ってきたシャルさんに軽く頭を叩かれる。
「アホか主君っ!? お前さんみたいな精神力のバケモノが聖句まで唱えるなっ!」
……この世界の回復魔法も精神力依存なの?
もしかしたら私にはヒーラーの素質があるのかもしれない。
光の柱が収まると、その根本には綺麗になったおじさんが気絶しており、いちおう息があって指の怪我も治っていることに胸を撫で下ろした。
「ま、まあ……無事におじさんの怪我も治ったみたいだし……今のうちに森を抜けちゃおっか……」
「このおっさん……たぶん神聖属性に目覚めたぞ? 主君はもう少し自分の異常性を自覚したほうがいいのじゃ……」
シャルさんにだけは言われたくありません。
それから血液アーマーに入り、剣になったシャルさんとおじさんを抱えた私は、ダッシュで森の外を目指した。
◆◆◆
SIDE:命拾いした冒険者
目を覚ますと、私は清潔なシーツに包まれていた。
軋む身体を動かして周囲を確認すると、農村にありがちな質素な部屋が目に入る。
窓から差し込む柔らかな日差し、外から響いてくる住民たちの話し声。
それはかつての私が無価値と切り捨てていたものだが、今の私には何よりも尊いものに思えた。
使徒様は!? 邪神は!?
あの後いったいどうなったんだ!??
「……し、しと、さま…………?」
口を開くと驚くほど喉が乾いていて、私はベッドサイドに置かれていた水差しから慌てて水を飲む。
勢い良く水を流し込んだせいで数回むせたが、乾ききっていた体が潤って少しだけ体調がマシになった。
身を起こしたいところだが、身体にはまだ力が入らない。
おそらくは【狂走薬】を使った副作用だろう。
長年の経験から数日は寝たきりになることを予想して私が嘆息していると、寝室の扉を開けて見覚えのある老人が入ってきた。
「目が覚めたか」
ガタイの良い隻腕の老人は、間違いなく森に入る前に出会った男だ。
「あんたは……」
隙の無い足運びでベッドサイドまで近づいてきた老人は、近くにあった椅子に座りながら片手を上げて私の発言を遮る。
「自己紹介の前に、森でのことを訊かせてくれ……お前さんの他に生き残りはいるか?」
私が力なく首を横に振ると、老人は瞳に悲しみを浮かべて嘆息した。
続けて老人はなにかを覚悟した顔で次の質問をしてくる。
「そうか……それならお前さんを助けた者のことは覚えているか? 姿形だけでもいいのだが……」
その問いに私は口を開きかけ……すぐに使徒様との約束を思い出して、首を横に振った。
「い、いや……私はなにも見ていない……森で倒れて……気が付けばここにいた」
自分でも下手くそだと思う嘘に、老人は深く嘆息してから、逆手に握ったナイフを床頭台の上に置いた。
その鈍い輝きにギョッとしていると、老人はニヤリと微笑んで私に釘を刺す。
「うむ、それでいい……もしもお前さんが森で余計なものを見ていたら、儂はお前さんを始末しなければならなかった……今後もそのことを肝に銘じておくがいい」
眼光鋭い老人の笑みに、私はガクガク首を縦に振る。
……どうやらまた使徒様に命を救われてしまったらしい。
「まあ、スープでも用意してやるから少し待っておれ」
「……ありがとうございます」
軽食を持ってきてくれるという老人の背中に礼を述べ、私は使徒様に癒していただいた小指を見つめて神に祈った。
「偉大なる双月の女神たちよ……私の感謝をお受け取りください」
今でも使徒様が授けてくださった奇跡の気配が私の胸に残っている。
動けるようになったら近くの街で神官になろう。
私のようなゴロツキを受け入れてもらえるのかはわからないが、それでも自分がこの世界と神々のためにできる精一杯のことをしてみたい。
これから先のすべてを捧げられるくらい、空っぽだった私の心は温かい信仰で満たされているのだから。