閑話 アイリスの花嫁修業
アイリスとイザベラさんが引っ越してきてからというもの、私とリドリーちゃんはアイリスの家で3時のオヤツを食べることが日課になっていた。
ティータイムを兼ねてイザベラさんから貴族のマナーを教わっていると、となりで優雅にティーカップを置いたアイリスがこんなことを訊ねてくる。
「ねえ? のえるはどんな女性が好き?」
婚約者からの質問に、私も優雅にティーカップを置いて当たり触りなく答える。
「……僕はありのままのアイリスが好きだよ?」
「そういうのいいから! 本当の好みをおしえて!」
だけどアイリスはいつになくグイグイきて……詰め寄ってくる婚約者の勢いに私はソファの上で仰け反った。
「のえるは! どんな女性が好きなのっ!?」
「ええ……?!」
なかばアイリスに押し倒されるような体勢になって困惑する私を見て、給仕をしていたイザベラさんが苦笑する。
「申し訳ありませんノエル様……そろそろお嬢様に花嫁修業をと思ったのですが……ノエル様の理想のお嫁さんになりたいと張り切っているみたいでして」
「!?」
なんてかわいい婚約者だろうか!
健気に理想のお嫁さんを目指そうとする婚約者の姿勢に私は感動した。
「ちょっと待って! それなら真面目に考えてみるから!」
「うん!」
元気よく返事をするアイリスの肩を掴んで押し戻し、真剣に好きな女性のタイプを考えてみる。
しかし真面目に考えてみると女性の好みというのは難しいもので、私はしきりに首を傾げることになった。
いちおう前世で好きだった女性のタイプは覚えているのだが……それをここで言ってしまうのはマズいと思うし……。
「う~ん……」
そうして私が首を傾げて唸っていると、紅茶の淹れ方を教わっていたリドリーちゃんが、私にニヤニヤした顔を向けてくる。
「むふふ……そんなに照れなくてもいいのですよ、坊ちゃま」
「……うん?」
「私みたいなお姉さんが好きなら、素直にそう言えばいいのです!」
自信満々にペッタンコの胸を張るリドリーちゃんに、私はきっぱり否定した。
「いや、リドリーは『できの悪いお姉ちゃん』って感じだから、異性として見たことはないと思う」
「!? 生意気なっ!?」
だって生まれた時からいっしょにいて、オシメまで変えてもらった記憶があるのだから、これで彼女を異性として意識していたら私はかなりの特殊性癖持ちだろう。
「いけませんよ、リドリー。侍女たるもの常に平常心です」
「うう……すみません、師匠……」
ガシャッとティーセットを揺らしたリドリーちゃんにイザベラさんが注意して、私はその姿に閃きを得た。
「! イザベラさんはタイプかもしれません! こんなお嫁さんがいてくれたら嬉しいです!」
清楚な黒髪に落ち着いた物腰。
常に背筋が伸びていて、ひとつひとつの所作が美しい。
こんな気品あるお嫁さんと結婚できたら嬉しいことをアイリスに伝えると、イザベラさんが珍しくテンションを上げた。
「あらあらあらあらまあまあまあまあ! 流石はノエル様! 女性の好みがよろしいですねぇ!」
「ぐぬぬ……」
すかさずクッキーを乗せたお皿を私の前に置いてくれるイザベラさんと、その後ろで拳を握りしめて唸るリドリーちゃん。
なんか後で鉄拳制裁されそうな気配だが、マナーや所作の美しい女性というのはそれだけで素敵だから、私の選択に間違いはないだろう。
無難な答えを絞り出せたことに満足する私の肩を、アイリスの小さな手が掴む。
「ふーん……他には?」
……小さな指が肩に食い込んで痛いんだけど……アイリスって握力が強いんだね?
肩の骨が粉々に砕けそうだよ……。
かつてないプレッシャーを放ってくる婚約者様に、私は恐る恐る聞き返す。
「……ほ、他?」
「うん……のえるは好みの女性についてかんがえていたとき、いざべら以外の女のこともかんがえていたでしょう?」
大きなお目々を限界まで見開いて顔を近づけてくる幼女の圧力に、私は正直にゲロった。
「あ、はい……アリアさんのことを考えていました……」
アリアさんはうちの領で唯一の商店を営むエッチなサキュバスのお姉さんである。
ぶっちゃけ好みの女性について聞かれたとき、真っ先に彼女のことが頭に浮かんだ。
正直に答えた私に、メイド陣から絶対零度の視線が突き刺さる。
「あらあらまあまあ……ノエル様にはキツい教育が必要かもしれませんねぇ……」
瞬時に目の前から撤去されるクッキーのお皿。
「見損ないましたよ、坊ちゃま……しょせん男はボインが好きなのですか……」
確定するリドリーちゃんの鉄拳制裁。
胸部装甲が薄い二人に睨まれて、私はソファの上で縮こまった。
「うう……」
……いや、べつにボインで選んだわけではないよ?
アリアさんの次に思い浮かんだのはマーサさんだけど……決して前世の性癖が引き継がれているわけではないのだ……。
紳士な私は胸の大きさに貴賤はないと思っているからね。
真っ先にアリアさんが思い浮かんだのは不可抗力である。
だって美人なサキュバスのお姉さんが同じ村の中に住んでいるんだよ?
しかもそのお姉さんは『空腹だと相手が若くても食べてしまうから二人きりになるな』なんて注意されたならば……男なら誰だって憧れてしまうだろう。
おかげでアリアさんと私は関わる機会が少ないけれど、大人になったらこっそり二人きりになろうと画策していたわけである。
もちろんアイリスと婚約してからはその計画も白紙に戻したが、ときどき村で見かけるアリアさんの姿は恐るべき吸引力を持っていた。
私の頭を拳で挟んでグリグリしながら、リドリーちゃんが呟く。
「そう言えば、坊ちゃまはアリアさんのことをよく見てましたねぇ……」
私服がビキニのお姉さんを目で追わないのは無理だと思います!
そんな恥ずかしい男心をすべて吐かされたころには、私の前からはティーカップすらも没収されていた。
「ノエル様は3日間、オヤツ抜きとします」
能面のような顔をしたイザベラさんから追加の刑罰まで告げられる。
「お、横暴だ!? 僕は正直に話しただけなのにっ!?」
「いいえ、坊ちゃま。これは正当な罰です」
床に正座させられた私と、その前で仁王像のように阿吽の呼吸を発揮するメイドさんたち。
そして私が針の筵に座らされている中で、なにかをずっと考え込んでいた婚約者様は、ガバっと勢い良くソファから立ち上がった。
「いざべら! 今日からわたしは、寝るまもおしんで礼儀作法のべんきょうをする!」
唐突なアイリスの宣言に、イザベラさんが目を丸くする。
「お、お嬢様っ……礼儀作法は1番嫌いでしたのに……」
瞳を潤ませたイザベラさんは私の前に紅茶とクッキーのお皿を戻してくれた。
続けてアイリスは風のような早さで玄関から飛び出していく。
「アイリス様っ!? どこへ行くのですか!?」
慌てて窓から身を乗り出したリドリーちゃんが訊ねると、アイリスは振り返らずに答えた。
「ありあさんに弟子入りしてくるっ!」
部屋の中に残されたのは感動に咽び泣くイザベラさんと、妹弟子ができそうなことに呆然とするリドリーちゃん。
説教モードから解放された私はクッキーを齧りながら、素直な疑問をリドリーちゃんに訊ねる。
「サキュバスの花嫁修業って……貴族令嬢が受けてもいいのかな?」
その質問で自分が教わった修業内容を思い出したのか、リドリーちゃんは顔を真っ赤にして断言した。
「……こ、子供の教育として、不適切なことだけは確かです…………」
……婚約者の将来が心配である。