第94話 エストランド領の上級淫魔
SIDE:ノエル
師匠との模擬戦から一〇分後。
庭からリビングに移動した私とアイリスは師匠の前で正座していた。
自発的に正座したのがよかったのか、腕を組んで立つ師匠はとても満足そうに告げてくる。
「それじゃあ改めて! 今日からあんたたち三人は正式にあたしの弟子にするから!」
人数が増えたということはアイリスも師匠から気に入られたのだろう。
「……あの……三人ではなく二人では?」
当然のように人数に入れられていることを察したリドリーちゃんが恐る恐る手をあげたが、師匠は無視して話を続けた。
「本格的な教育は『島』のほうでやるから、あんたたちは一週間以内に荷物をまとめて引っ越しを終わらせること! ……なんか質問ある?」
その問いかけに、白髪メイドさんの手によってリドリーちゃんの手が強制的に下げさせられたため、私は入れ替わりで挙手をする。
「はいっ! そこの一番弟子っ!」
すでにアイリスとリドリーちゃんも弟子入りさせることは決定みたいなので、空気を読んだ私は他の気になる点について質問した。
「引っ越しをするというのは初耳なのですが……エストランド領から通ってもいいですか?」
生まれ故郷のド田舎を愛する私にとって、それはリドリーちゃんの弟子入りよりも大切なことだった。
メアリーに【転移門】を使ってもらえば遠く離れた場所でも一瞬で行き来できるし、通うこと自体はできると思うのだが……。
私の切実な希望に、しかし師匠は少しだけ考えて、
「あたしは別に構わないけど……」
視線を母様のほうへと持っていく。
すると回答を託された母様は、私にとってショッキングな内容を口にした。
「残念ながら……今のお前にそれを許可することはできないな。エストランド領の男児は一〇歳になったら一度この土地を離れるのが決まりなのだ」
「なんですって!?」
初耳のルールに思わず私が正座を崩して立ち上がると、母様は指先をチョイチョイっと曲げて、部屋の隅に来るようジェスチャーしてきた。
素直に従ってひとりで部屋の隅まで移動すると、ガシッ、と母様に肩を組まれる。
「……いいかノエル? ゴリアテのほうに戻るのはいいが、私より強くなるまでこの土地には帰ってくるな」
「……どうしてですか?」
なにやら事情がありそうなので理由を訊ねてみると、母様は懐から取り出した魔道具で【防音結界】を張って声を潜めた。
「お前……最近アリアと頻繁に遭遇するだろう?」
「え……」
言われてみれば確かに最近はアリアさんと道ですれ違うことが多いような……。
「それは精通が近づいてきている証拠だ……つまり、もうすぐお前はアリアの捕食対象となる」
「ああ……」
そういや精通って人によっては一〇歳くらいからはじまるのか……。
エストランド領で酒場を経営するアリアさんは、本物の【淫魔族】である。
男を誘う甘い香り。
桃色の髪と、大きな乳房。
露出度の高い紐みたいな衣装は彼女の妖艶な身体に食い込んで、見るだけでその魅力的な柔らかさを伝えてくる。
そんなエッチなお姉さんのことを思い出して、私はエストランド領を離れなければいけない理由がわからなくなった。
「……だけどアリアさんに食べられるなら悪くないような…………」
鼻の下を伸ばす私の頬を、母様は強めに引っ張ってくる。
「馬鹿っ! お前がアリアに食われたら、アイリスとアリアが殺し合いになるだろうが!」
「ああっ!?」
ハッ、と脳ミソに掛かったピンクの魔力を振り払って、私は自分が精神状態異常にかかっていたことを自覚した。
「やはり魅了の魔力を仕込まれていたか……気をつけろ。そうして対象の理性を奪っていくのが、サキュバスたちが得意とする常套手段だ。やつらの使う【魅了】はかなり特殊だからな」
どうやら母様は私がアリアさんに捕食されない強さを手に入れるまで、エストランド領から離れた場所で修行させるつもりらしい。
「……アリアさんってそんなに強かったんですか?」
あまり戦っているところを見たことがないお姉さんの実力について訊ねると、母様は首を横に振った。
「いや、純粋な戦闘能力だけなら今のお前と互角くらいだが……」
「それなら警戒する必要もないのでは?」
アイリスかリドリーちゃんかメアリーがいれば制圧できそうだから私が楽観的に返すと、母様は真剣な顔で確認してくる。
「あいつと会話した時のことを思い出してみろ。お前はアリアから誘惑されて、性欲に打ち勝つ自信があるか?」
その質問に、私はつい最近あったアリアさんとのやり取りを思い出した。
そう……あれは誕生パーティーの準備をしていた今朝のこと……。
食材を搬入するため勝手口から出入りしていたアリアさんと私は家の裏側で遭遇して、その時にこんな秘密の会話があったのだ。
『おはよう、ノエルくん』
『おはようございます、アリアさん』
『無事に10年の時を生きられてよかったね。双月の女神に感謝を』
『ありがとうございます』
私の成長を祝福してくれるアリアさんに頭を下げると、綺麗な顔が近づいてきて耳元に甘い吐息がかかる。
『ところでノエルくんはもう教育係を選んだの?』
『い、いえ……その方でしたらもうすぐ来るみたいで……』
『そっちの教育係じゃなくてぇ……大人になるための教育係よ?』
『…………大人になるための?』
ゴクリと勝手に喉が鳴ると、アリアさんの甘い声が粘度を増した。
『だってノエルくんはアイリスと結婚するんでしょう?』
『……は、はい』
『それなら君はお姫様をリードできるように、ちゃんと夜戦の練習もしておかなくっちゃ』
膝小僧を軽く撫でてくる指先の気持ち良さに、私は練習の意味を正しく理解した。
『……や、夜戦の練習って……それはただの浮気なんじゃ……』
『大丈夫よ? そんなの貴族の間では当たり前のことだし――二人だけの秘密にしておけば誰にもバレないから』
『……二人だけの…………』
そして私の目の前で巨大なお胸を揺らしてアリアさんは立ち上がり、朝日を受けて健康的に輝くムチムチのお尻と太ももを見せつけながら去り際にウィンクを飛ばしてくる。
『秘密の教育係が欲しくなったら、いつでも練習に誘ってね♪』
彼女が放つ甘い香りを思い出した私は、前かがみになって頬を赤らめた。
「まったく勝てる気がしませんでした」
「そうだろう」
だってあの人……本物のサキュバスなんだもの……。
小さい頃は婚約者のアイリス一筋で生きようと決めていたはずの決心が揺らいでいるのも、アリアさんの色香に理性を揺さぶられているせいかもしれない。
私が彼女の脅威を正しく理解したことを確認した母様は、エストランド領から離れなければならない理由を説明してくれる。
「サキュバスの【魅了】にはメルのような強靭な理性を持つか、最低でも私くらいの実力を身につけて魅了の魔力を察知できなければ、絶対に打ち勝つことができないのだ」
「……父様すごい」
私はサキュバスの誘惑に打ち勝つ父親のことを本気で尊敬した。
父様は心までイケメンだったのか……。
夫を褒められて嬉しそうな母様は、自慢げに頷いて私のことを諭してくる。
「うむ、だからお前もメルのような理性を得るか、アリアの魅了を躱せるようになるまで帰ってくるな……さもなくばエストランド領に血の雨が降ることになる……」
チラッ、とアイリスに視線を向けた母様に、私は力強く頷いた。
「わかりました! アイリスの清らかな魂を守るためにも、全身全霊で修行に励みますっ!」
大切な人を守るだけでなく、平和な田舎暮らしを守るためにも!
「よし、その意気だ」
そして【防音結界】が解除されて私が部屋の中央まで戻ると、師匠の前で正座したアイリスが首を傾げた。
「義母様となにを話していたの?」
正直に『エッチなお姉さんから捕食されないように強くなる必要性を説かれていた』とは言えないので、私は爽やかな笑顔で紳士的に対応する。
「君を守れるようになれ、って激励を受けたよ」
「! 流石は義母様っ!」
師匠の前に再び正座すると、感動したアイリスが私の腕に絡みついてきて、師匠が呆れ顔になる。
「……あんたも大変ね」
「そりゃあまあイケメンですから」
モテモテすぎて困っちゃいますな!
美少女を侍らせて胸を張る私に、師匠はひとつ嘆息してから父様へと視線を向ける。
「こいつには色々と教えなければいけないことがありそうだけど……特に率先して教育してほしいこととかある?」
教育方針について意見を求められた父様は、いつにも増して真剣な表情で片膝を床に突いて頭を下げた。
「できればこの子に常識を叩き込んでいただきたくっ!」
「……ん、任せときなさい」
あっさり引き受ける師匠にキラキラした尊敬の眼差しを向ける父様。
そして保護者とのやり取りを終えた師匠は、しばしの別れを告げてくる。
「まあ、島に来る気にもなったようだから、あたしは先に帰るわ……あまり『門』を放置することもできないし……後のことはルガットの分体に任せるから、聞きたいことがあったらそいつに訊きなさい?」
そして師匠は地竜の血液が入った新品のボトルを一本手に取ると「ごちそうさま」とだけ言い残して、パッ、と一瞬で目の前から消えてしまった。
「「「!?」」」
転移魔法や空間超越でもないその技に、私たちは顔を見合わせる。
「……今の見えた?」
「……いいえ、まったく」
「……ま、まあまあの速さじゃったな!」
「……坊ちゃまが今の技を覚えたら……捕まえるのが難しくなりそうです……」
……そいつはいいことを聞いたぜ!
いくつもの新技術を見せられてワクワクした私は、残された白髪メイドさんへと振り返る。
「ルガットさん! 僕たちが教育を受ける『島』っていったいどんなところなんですか!?」
子供から期待の籠もった視線を向けられたメイドさんは、美しい口元を自慢気に綻ばせて師匠の行き先について教えてくれた。
「――これからあなたたちが向かうのはミストリア王国の南西に浮かぶ島……私たちヴラド系吸血鬼の本拠地にして、七柱の賢者によって統治された――【蓋門島】と呼ばれる世界の最果てです」