第33話 つながるこころ
化粧台の前に座り、身なりを整える。三面鏡に映る澪の髪は、相変わらず左半分が真っ白に染まったままだ。
変わり果てた姿を見つめる左眼も、血のように紅い。
(戸惑っているのは私だけじゃないんだよね、カーヴェ)
内に潜む異界の存在に呼びかけるも、返事はない。
話ができるのは眠っている間だけ。ままならない感情をぶつけ合い、満足に通じない言葉を交わし合い、やっとのことで一つ二つの本音を聞き出す。
そんな先の見えない日々に、一度は疲れ果ててしまった。
けれど、今は違う。
「澪姉、今日も綺麗だよ」
甘く言葉を囁く恋人が、後ろから澪を抱きしめる。
髪を撫でる息づかいに安らぎを感じながら、澪は彼の手にそっと口づけした。
「献慈……」
二つ年下の、顔立ちにもまだあどけなさの残る少年。だけど、節くれ立った指も、血管の浮き出た手の甲も、もう男の人の手をしている。
献慈と出会い、一緒に過ごすうち、澪は自分が甘えるのも甘えられるのも好きなのだと知った。
(今の気持ちは……どっちかな。両方?)
もっとも、今日はこれから来客があるので、過度な接触は控えようと思う。でないと、歯止めが利かなくなってしまうから。
私が? 違う。献慈が、に決まっている。そう自分に言い訳する。
「よかった。顔色、良くなってる」
鏡越しの真っ直ぐな眼差し、献慈の。澪がこうなってしまう前から、ずっと変わることのない、眼差し。
「ねえ、どうして献慈は変わらずにいられるの?」
言った後になって、言葉足らずだったと澪は思い返す。
それでも、こちらの意図を汲んで答えてくれるのが献慈だ。
「いつでも澪姉の支えでいられる俺でありたいと思うから」
「そっか」
胸を満たす想いに、涙が溢れそうになる。
恋をしたのは、澪のほうが先だった。
でも、愛を知ったのは、きっと献慈が先。
「澪姉? 何だか嬉しそうだね」
「うん。私、やっと献慈に追いつけたのかも」
「俺に……?」
献慈は目を瞬かせるも、澪が立ち上がると、察したように自分も身を起こした。
(私のあげられるもの、ぜんぶ献慈にあげる)
出会ってから十ヵ月。背丈の差は縮まったけれど、献慈の頭はまだ目の高さ。
だから、少しだけ身を屈めて、顔を傾ける。
言葉以上の想いを、言葉よりも迅く、重ねて。
*
澪は手早く身繕いをし、襖越しに遅参を詫びる。
「遅れてごめんなさい!」
畳張りの応接間では鬼面の巨僧、幽慶が澪の到着を待っていた。
湯呑みと茶菓子の置かれた座卓を挟んで、ラリッサが座布団に正座している。
「うちとお話しとったけぇ、大丈夫よ」
「左様。それよりも澪殿、聞いていたよりも元気そうで安心しましたぞ」
心配をかけて申し訳ない、と澪は幽慶に頭を下げる。その顔を、ラリッサがじっと覗き込みながら、にんまりと笑う。
「お肌つやっつやじゃね?」
「そ、そう?」
澪は着物の襟を引き寄せつつ、ラリッサから体を離した。
「早速ですが和尚さま、霊視をお願いします」
「相わかった」
幽慶は両手の人差し指と小指を互い違いに合わせた狐窓を作り、澪の姿を覗き込んでみせる。
「ふむ……安定しておる。良くも悪しくも、な」
澪の霊体は今や完全に悪魔と一体化してしまっていた。他ならぬ澪自身もそれを実感している。
幽慶が経文の描かれた護符を差し出す。澪は指先を小柄で切り、その上に血を数滴垂らした。血が護符に染み込むよりも先に、傷は塞がっている。
幽慶の要求はもう一つ。
「では、御髪を少し頂こうかの」
澪の黒髪と白髪、それぞれをラリッサが美容ハサミで適量切り落とす。幽慶はそれらを懐紙に包んで、護符とともに小箱へと収めて持ち帰る。
「どうかよろしくお願いします」
深々と頭を下げる澪に、幽慶はすぐさま言葉を返した。
「それはお互い様よ。転移ゲートの認証標、あやつの分もすぐに作らせるとしよう」
融合した霊体同士を引き剥がすため、向かうべきは場所は決まっていた。必要な協力者の存在もだ。
頼もしい友人たちの助力を得て、お膳立ては着実に整いつつあった。
*
その晩も、澪は夢の中でもう一人の自分と向き合っていた。
荒涼たる岩地の上、女同士。漆黒の妖魔と夜ごとの語らいは、剣と拳にて。
「今さらだけど、色気のない話し合いね」
乱れ打つ拳脚を掻い潜り、刀を振るい、意志を押し通す。
「かーゔぇ、コノヤリ方シカ知ラナイ。コウヤッテ生キテキタ」
力こそが縁となる、魔界の理だった。
負けた方は勝った方の言うことを聞く約束。
カーヴェは「この身体をあと少し譲り渡せ」。
澪は「あなたのことを一つだけ教えて」。
我ながら、割に合わない取引だと、澪はわかっていた。
後悔はない。
「どう? これで私の五連勝」
岩壁に刻まれた印の数は二十八勝、二十七敗を示している。初めての勝ち越しだ。
「みお、強クナッタナ」
「カーヴェのおかげだよ」
拳を交わしてわかり合う男たちのような間柄に、澪はどこか憧れていた。不本意な形だったけれど、カーヴェとはそんな関係を築けたように思う。
「ソレデ、今日ハ何ガ知リタイ?」
「逆に質問。あなたは何か知りたいことある?」
今ならばわかる。人間とは異質な貌が映し出す表情の意味も。
「解セナイ……ナゼみおハ、かーゔぇヲ拒絶シナイノカ」
「だって、憑依する器がないと、あなた消えちゃうんでしょ?」
澪を押し潰そうとしていた不安の正体は、自分と繋がっていたカーヴェの恐怖や孤独そのものだった。
「なぁんて、何度も負けそうになってた私が言えた義理じゃないかもだけど」
「……イヤ。かーゔぇモ感ジテイタ、みおノ不安ナ気持チ。ナノニ、甘エテイタ」
カーヴェはぽつりと言葉を継いだ。
「みおハ、おーさニ似テイル」
オーサ。それはカーヴェにとってかけがえのない姉妹の名。
「ありがとう」
澪は思わず答えていた。これまでで一番、お互いの心が近づいたと感じられた瞬間だった。
二人が立つ荒漠の原野は、いつしか眩しい緑に覆われていた。




