第16話 緒戦、重ねた手と手
湖を臨む高台に、城壁の名残りが物寂しく佇んでいた。かつて数万の水軍を率い、一帯を支配した大名の夢の跡。
地下には有事に際して造られた抜け道が遺跡へと通じている。その構造も、すでに十字星の調べにより把握済みだった。
(……静かすぎる)
潤葉の眼下には穏やかな初春の風景が広がるのみ。地下に潜った部隊からも、湖畔で張り込む新月組からも、これといった知らせは届いていない。
冥遍夢に動きがあるとすれば、今日が最も有力だ。陰陽寮の観測と邪教徒の自白――幕府が拷問で口を割らせた――を照合して間違いはない。
(こちらではないとすると古戦場の方か――)
「潤葉様、瑠仁郎から連絡が」
香夜世の手に停まった蝶が紙切れに変じる。
「冥遍夢の船が八隻、到着まであと十分ほどの見込みだそうです」
「首謀者を特定、捕捉する。部隊を速やかに展開させてくれ」
しばらくして現れた船団が、湖岸から離れた位置へと停泊した。
船上から何者かが呼びかける。
「姿を見せたまえ、烈士諸君。まずは話をしよう」
よく通る声だ。内功の練られ具合からして相当な実力者だろう。
邪教の交渉には応じない。朝廷・幕府・烈士組合の総意だ。
「……返事も無しとは。仕方あるまい。勝手ながら祝宴を開かせてもらおう」
俄かに辺りの空気がざわつき始めた。地面から立ち昇る黒い霧が続々と異形を成していく。
召喚の動作が確認できないのが気がかりだが、もたついている暇はない。手筈どおり総勢十九名の精鋭たちが魔物の群れを迎え討つ。
湖畔のあちこちで、勇ましい掛け声と剣戟の音が鳴り響いた。
潤葉の目前には、虎・ヒヒ・蛇が混じった怪物ヌエが、今にも雷を吐き出さんとしている。
「邪魔だ!」一刀両断。「香夜世、地下の様子は?」
「六宝牌より報告。風水師が霊脈の鎮静化を開始しました」
冥遍夢を誘い出すため放置していた歪みを正しているのだ。儀式を行う風水師の護衛には、守りに長けたチーム・六宝牌が付いている。
「よし。敵群を突破次第、船へ攻撃する!」
大蜘蛛、化け蝦蟇、雷獣――魔物の群れを蹴散らしながら、各部隊とも突き進む。
最初に湖岸までたどり着いたのは、遠隔部隊を擁する祭火衆だった。
「魔物を操っているのはどいつだ?」
「わからん。術士を優先して撃つぞ」
船上からは風火の術や連弩の矢雨が降り注ぐ。味方の呪禁師が防護幕を張って防ぐ最中、弓矢や魔導小銃が邪教徒たちを立て続けに撃ち倒してゆく。
「あっけないな。そっちは無事か?」
「ああ……いや、待て。様子がおかしい」
戦場の様相が一変していた。予測されたパターンにはない大物が次々と出現したせいだ。
巨大なトカゲにも似た妖鳥が両翼を広げ、湖上を滑空していた。
「こいつらは……半年前の……!?」
妖鳥イツマデの鳴き声は、時の流れを遅らせる効果を持つ。旧都における先の動乱を経験した者であれば、その恐ろしさは熟知している。
潤葉もまた例外ではなく。
「急いで退避しろ!」
号令が間に合わない。イツマデの放った遅延魔法が、すでに周囲の烈士たちを絡め取っている。
そこへ、救いの主が駆けつけた。
「新月流――〈鳥箙〉!」
空を裂く斬撃に翼をもがれたイツマデが落下する。
新月組の頭領・大曽根澪であった。
「そいつは詠唱の前に動きが鈍る! 狙い時はそこ!」
澪の助言を得た烈士たちが勢いを盛り返した。
「そうか、恩に着る!」
「連携して当たるぞ!」
矢弾や術で翼を狙い撃ち、近接部隊がとどめを刺す。格上の魔物を協力して倒す、理想の陣形が瞬く間に組み上がっていた。
(やはり、僕の目に狂いはなかった)
大曽根澪。純粋な戦闘力では潤葉に一歩及ばないだろう。
(だけど……)
持ち場に固執せず駆けつける判断力。
弱点を的確に見抜く洞察力。
瞬時に皆をまとめ上げる統率力。
(……悔しいな。少しだけ)
今の自分に足りないものを、潤葉はまざまざと見せつけられた心地がした。
「潤葉様」
「ああ、すまない」
香夜世の声で我に返るも束の間、
「六宝牌から連絡です。霊脈が急激に活性化し、沈静が追いつかないと」
「何だって? このタイミングで――」
言いかけて、その意味を悟った。香夜世がうなずく。
「時間差から推測して、イツマデが召喚された直後です」
魔物が強大であればあるほど霊力場を歪ませるのは道理だ。
しかし問題はもっと根本にある。
(奴らが召喚されたタイミングはいつだった――?)
その答えは皮肉にも敵側から示された。
先ほど宣戦を告げた声が、再び湖上へとこだまする。
「諸君には物足りなかったかな? 追って持て成すとしよう」
声の主が合図を送ると、二人の信徒が甲板へと現われる。彼らは些かのためらいもなく自らの胸を短刀で突き、そのまま船端から身投げした。
「――みんな、気をつけろ! すぐに大物が来る!」
潤葉の予想は的中する。湖面が静まるのを待たずして、また二体のイツマデが立ち現れた。
もはや確信せざるをえなかった。冥遍夢は命を糧に魔物を生み出しているのだ。
「我らが命、すべからくマガヨイ様への供物となるべし! ……残念だが、我々をここへ招き入れた時点で諸君に勝機はないと知り給え」
勝ち誇った声。実際、魔物の掃討以前に召喚自体を止めなければ、歪みは増大し続けるのだ。
そして、相手自ら命を捨ててくる限り、こちらには打つ手がない。
「六宝牌から連絡。暴走した霊脈が空間に亀裂を発生させたとのことです」
「……わかった。撤退次第こちらへ加勢するよう指示してくれ」
最後の黒蝶を送り出した香夜世は、斜め下から毅然とした面持ちを潤葉へと向けてきた。
「戸惑っておられますか?」
「…………」
「潤葉様。今はわたくしを守ることだけをお考えください」
「……ありがとう。カヤ」
二人は袖を連ねて高台を駆け下りてゆく。




