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アドミニストレーターズ! 1  作者: 椎名典明
1/8

第一章

SCP財団というサイトに影響を受けていないと言えば嘘になります。

全六章(+エピローグ)中の第一章です。


 九月一日。きっと、学生に一年で最も憂鬱になる日のアンケートを取ったなら上位になるに違いない夏休み明け最初の一日。周囲を歩いている同じ学校の生徒より、私の足取りは重く、ついでに瞼も重かった。


「おはよ、汐音―、久しぶりっ。元気だった?」


 重い足取りで校門をくぐった折、同じクラスの友達に横から声を掛けられた。私の暗く沈んだ気持ちなど歯牙にもかけずに勢いよく背中を叩かれて少し辟易。


「おはよ、ももちゃん。でも久しぶりって、先々週遊んだじゃん」


 なるべく自分の陰鬱な気分を外に出さないように笑顔を作って隣の友人に声を掛ける。


「二週間も会ってなかったんだから久しぶりでいいのっ。てか汐音、どしたの? 目が真っ赤だよ?」


 しまった。態度と表情はいつも通りを装ったつもりだったけど、充血した目までは隠せなかった。そういえば朝、自分の顔を鏡で覗いたとき、まるで吸血鬼みたいだなって思ったのを思い出す。


「ちょっと寝不足でね……眠いの」

「あ、分かった。例のメンヘラ彼氏のことでしょ」

「メンヘラなのは合ってるかもだけど、彼氏じゃない……ただの友達」


 二人で会話しながら、校門から昇降口にかけて歩いていく。先ほどまでは重くてゆっくりな足取りだったけど、ももちゃんに合わせて少し速足になる……いや、普通の足取りになる。


「まだそのお友達に粘着されてるの? 大変だねー」

「ううん、もうそういうのはないよ。なくなったんだけど……」


 続きを言うかどうか迷う。そのお友達に粘着されなくなったことで悩んで最近眠れなくなっているのだけれど、説明が難しい……というか、出来ない。きっと今の私の境遇を説明しても信じてもらえない。


「あ! そういえばさっきLINEでちらっと見たんだけど、うちのクラスに転校生が来るみたいだよ?」


 私が続きをどう答えるか迷っていると、ももちゃんはその雰囲気を察したのか違う話題を振ってきた。


「転校生? ふーん……」

「あれ、あんまり興味なさそう」


 転校生っていったら一大イベントなのに! と語気を強めて言うももちゃん。

 私も普段だったらどんな人が来るのか興味津々だったと思うけど、今はそれどころじゃないんだよ……。

 二人でそんな話をしながら廊下を歩いて教室にたどり着く。私とももちゃんの席は離れているのでそこでお別れ。じゃね、と手を振って、私は窓側から一つ手前の列の一番後ろの自分の席に座る。あれ、いつもなら私の左隣……一番窓際の一番後ろの角の席は何もない空間のはずなのに、今日は机が用意されている。

 ……なるほど、そこかしこから転校生のことについて話が聞こえてくる。つまり、私の隣の席に新たな生徒がやってくるということなのだろう。いつもの私だったらわくわくどきどきしていただろうか。今の私には、転校生が男の子なのか女の子なのかすらどうでもいい。

始業開始ギリギリだったので、鞄を机の横に掛けるとすぐに先生が教室に入ってきた。久しぶりに見る担任の顔。いつものように朝の挨拶をして、夏休みに関する他愛のない話を少していた……気がする。正直、眠かったり色々あって先生の言葉があんまり耳に入ってこなかった。


「あー、もうみんな知ってるかもしれないが、今日から転校生がうちのクラスに来る。おい、入れ」


 先生が教室のドアの方を向いて声を掛けると、ドアが横に開かれて男の子が教室にゆっくりと入ってくる。私はそれを無感情でぼーっと眺めていた。わー、本当に転校生だ。身長は普通より少し高いくらいだろうか。体型も普通……ちょっとがっしりしてるかな? 顔は……まぁ、ちょっと格好良いかも。少し大人びてるな、って印象。老けてる、ってことじゃなくて良い意味でね?

 転校生が教壇の横に立つと、先生が自己紹介をするように転校生くんに促す。


「――葉山総司と言います。これからしばらく皆さんと一緒に学校生活を過ごすことになるので、どうぞよろしくお願いします」


 なんか顔だけじゃなくて態度とか声色も大人びてるなあ、なんて思っていると、転校生の葉山くんは言葉を続ける。


「それと、皆さんに一つ言っておきたいことがあります」


 葉山くんはそう言って言葉を切ると、一つ深呼吸をして。


「俺は、不思議なものを探してます。みんなの周りで何か不思議なことやおかしなものがあったら、どんな些細なことでもいいからすぐに俺に知らせて欲しい。よろしくお願いします」


 そうやって葉山くんは大声で言い切ると、深く頭を下げた。

 何か変なことをいきなり言い出した転校生に、教室が少し凍り付いて静まり返る。

 ………………。

 えーっと、なんだっけ、少し前にこういうこと言い出す主人公の話が流行ったよね。

 ……涼宮ハルヒの憂鬱?


 


     ……………




 八月二十三日。おかしな転校生がやってくる十日くらい前。夏休み。


「カラオケ、楽しかったねー」

「…………」

「こうちゃんももっと歌えばよかったのに。良いストレス解消になるよ?」

「……うん」

「もー、仕事やめちゃったくらいでいつまでもそんなに落ち込んじゃダメだよ? 私だってテストが全然ダメなときなんてしょっちゅうだし!」

「……そうだね」


 夏休みも終わりに近づいた頃、私は近所の幼馴染のこうちゃんと一緒に遊びに出掛けていた。ちなみにもう宿題は終わってます……私って偉い。

 こうちゃんは二歳年上の男の子で、今年から会社勤めの社会人一年生。けど、会社が合わなかったのか(私も詳しい事情までは知らないけど)七月に辞めてしまいました。それとか、他にもまぁ……色々あって、今は心療内科のお世話になっています。……詳しい病名はやっぱり知らないけど。心の病気って長引くし難しい。

 だけど、ずっと家にいるよりは、気分を変えて外で遊んだ方が気分もよくなる……って自分なりに調べたので、定期的に外に連れ出しては一緒に遊んでいます。今日も二人でカラオケに行ってきたんだけど……結局こうちゃんは一曲も歌わなかったので、私のオンステージでした。こうちゃんを元気づけに来たのか私のストレス解消に来たのかよく分からない。 


「帰ろっか」

「……うん、分かった」


 ちなみに本日、こうちゃんはこうやって私が問いかけしない限り自分からは一言も喋っていない。

 本当はこの後、夜ご飯でも一緒に食べてから帰る予定だったんだけど、どー考えてもこうちゃんが楽しくなさそうなのでもう家に帰ることにします……。

 二人、無言のままバス停でバスが来るのを待ち。そのままやってきたバスに乗り込んで並んで座る。もちろんその間会話は一切なし。


「あのさ、汐音ちゃん」

「ん、うん? どしたの? こうちゃん」

 ……と思っていたらこうちゃんから私に話しかけてきた。なんと今日初です。

「やっぱり俺さ、汐音ちゃんのこと幸せにしたくて……今は力不足なのは分かっ」

「あー、えっと、ごめん、こうちゃん。今日はそういうのなしで、ね?」

「…………」


 私が会話に割り込んで、こうちゃんが押し黙ってしまう。

 色々と重いです。空気とか、会話の内容とか。私まだ高校二年生だよ? 幸せにしたいて。

 私はバスの窓の外を流れていく景色を見ながら考える。

 あーあ、どうしてこうなっちゃったのかな。小さい頃は色んなしがらみもなく仲良く出来たのに。それに、昔はむしろ私の方が大人しくって、こうちゃんの方が元気いっぱいだったのに。

 あの頃は楽しかったなぁ。ちょうどこの季節だったよね。夏休みに二人でプールに行ったり、山に虫取りをしに行ったり(私はちょっとイヤだったけど狩りだされた)、秘密基地を作って遊んだり。懐かしいなー……。

 もちろん、いつまでも二人で子供のままじゃいられないなんてことは分かってます。ずっと変わらないものなんてない。お互いの環境とか、気持ちとか、ずっと同じままではいられない。そんなのは当然のことだけど。


「……そういえばさ、昔、二人で秘密基地作ったよね」


 ふと、自分の頭の中に久しぶりに浮かんできた秘密基地という単語を口に出してみる。


「秘密基地……。そういえば作ったね、廃墟に。うん、作った作った。懐かしいね。あれってどこだっけ。家の近くだったよね」

「二人でお菓子とか漫画とか持ち込んでさ、今考えるとどーしてあんな埃臭いところで遊んでたんだろうね」

「でも僕は楽しかったよ」


 二人で遊んだ秘密基地の話題に、今日一番食いついてきたこうちゃん。


「そうだ! 今から行ってみよっか、あの秘密基地!」

「え、今から? 場所どこだっけ? あれ? 壊れちゃったんじゃなかったっけ?」

「わたし覚えてる! いこ!」


 この話題を振って、こうちゃんに元気が出てきた気がしたので、私は勢いでそう提案してみる。だって、何がきっかけでこうちゃんの気分が向上するかなんて分からない。色々試してみたかった。

 それにあの廃墟は二人の家の近くだし、これから家に帰るのならついでに寄っていくのに何の不都合もない。まだまだ明るい時間だし。

 ちょうどそのとき、バスが自宅の最寄りのバス停に到着して、私はこうちゃんの手を引いて飛び降りるようにバスを飛び出す。


「ほら、早く!」

「ちょ、ちょっと待ってよ、汐音ちゃん……」


 こうちゃんの手を引いて、私はあの秘密基地を目指して走り出す。そうだ。今までどうして忘れていたんだろう。あの林の中にあった廃墟。小学生の夏休みに偶然発見して、二人で探検した廃墟。あの小学生の夏休み以降、今まで全然思い出すことはなかったけど、思い出してしまえばどこにあったか鮮明に頭に浮かんでくる。

 こうちゃんの息が切れてしまうのもお構いなしに私は走り続ける。二人の自宅から十五分ほど歩いた場所にある林の中、道なき道を歩いて、草を掻き分けて坂道を登って……そこにあの夏に見つけた廃墟はあった。自分でもどうしてこんなにいきなり迷わずにこれたのか分からない。けれど、確かに目の前にはあの廃墟があった。鉄筋コンクリート……? で出来ていて、ボロボロと壁の外側には崩れている部分もあるけれども頑丈そうな作り。窓はついているけれど、高い位置にあるので中がどうなっているのかは外からじゃ分からない。


「懐かしいねぇ……ここ。あれ、昔は二階建てだったっけ?」


 目の前の廃墟は小さいけれども高さと窓の数からすると、どう見ても二階建てだった。外側に二階から続く非常階段が設置されている。

 平屋じゃなかったっけ? 私の勘違いかな。


「はぁ……汐音ちゃん、ちょっと、速いよ……はぁ、はぁ……」

「もー、こうちゃん、運動不足じゃないの? 男の子なのにだらしないなぁ」


 しばらく引き籠ってたんだから運動不足は当然、とか、もう男の子って年じゃないよ、とか我ながら突っ込みどころがいくつもあったけれど、こうちゃんはただ中腰で膝に手をついて息を切らしたまま私の声には答えない。

 もう一度、改めて目の前の廃墟を見てみる。

 ……昔ほど、この廃墟を見てもわくわくしたりはしない。それは私が大きくなって子供しか持っていなかった何かを失ってしまったということだろうか。……大人になっても廃墟にわくわくする人たちもいるみたいだけど、私はどうやらそういった人種ではないようだ。

 しかしそれでも、懐かしいという気持ちは確かにある。


「ね、入ってみよ?」


 未だに息切れしているこうちゃんの腕を掴んで、半ば強引に私はその廃墟の入り口のドアノブを捻り、扉を後ろに引っ張る。……厳密に言うと、多分これって不法侵入だよね。でも、もう何年も放っておかれてる建物だし、どうこうってことはないと思う。多分。

 …………。

 良い子は真似しないでね?

 回したドアノブに力を込めて、強く後ろに引っ張ると、ギギギ、という錆びた鉄が擦れる音がして、重厚なドアがゆっくりと開かれる。

 開かれたドアの隙間から中を覗くと……思ったより廃墟の中は整然としていた……というより、何もなかった。ところどころにヒビが入った打ち付けられっぱなしのコンクリートの壁と、やっぱりところどころ割れているタイルの床。それ以外は何もない。広さは三十畳くらいだろうか。そんなに広いとは言えない。入り口のドアから右の部屋の隅には二階に行くための階段に続くと思われる通路があった。


「んー、なーんにもないねえ。昔もこんなんだったっけ?」

「多分……。確か、ここにござとか持ってきてたような気がするよ」


 うーん……なんとなく思い出してきた。確か、秘密の地下室を発見してはしゃいでたような。あの地下室ってどこから行くんだっけ。

 私が腕を組んで部屋を見回していると、こうちゃんはふらっと部屋の隅の通路に歩いていった。そのまま階段を上っていく足音が聞こえてくる。

うーん……思ってたより何もないなぁ。子供の頃は気にならなかったけど、この建物にはトイレもなければ水道もないことに気づく。壁際には電気のスイッチもなく、そもそも天井には蛍光灯が付いていた跡もない。いくらなんでもそれはおかしい。一体、何のために作られた建物なんだろ。考えれば考えるほど不自然。

 コツ、コツ、コツ、と、おそらくはこうちゃんが通路から階段を一段一段上がっていく音が響く中、そんなことを考えていると、ギギ……という何か扉を開く音が通路から聞こえてくる。きっと、こうちゃんが二階の扉を開いたのだろう。


「ねえ、汐音ちゃん何か……何か、変なものあるんだけど……」

「んー? なになにっ?」


 二階には何かがあったのだろうか。私は少しワクワクしながら通路を出て階段の上にいるこうちゃんを見上げる。こうちゃんは二階の入り口でドアを開けて呆然と部屋の中を眺めている。

 なんだろ、そんなに驚くような何かがこの廃墟にあるとは思えないんだけど。私は小走りに階段を駆け上がって、二階の通路からドアを開いて部屋を覗いているこうちゃんに近寄った。


「こうちゃん? どしたの……?」


 わくわくしていた私の心は、こうちゃんの姿を間近で見た瞬間に平常に戻った。

 部屋を眺めているこうちゃんの様子は、どう見ても普通じゃなかった。微かに手が震えていて、歯がカチカチなっているのが聞こえる。

 尋常じゃない様子のこうちゃんに動揺しつつ、私も恐る恐る二階の部屋の中を覗き込む。

 ……部屋の様子は一階の部屋とほとんど変わらなかった。打ちっぱなしの壁に、ところどころひびが入ったタイルの床。高い位置にある窓から差し込んでくる西日。ただし、違うのは、床には何かの……布切れ? 無数の布切れが散乱しているのと、もう一つ。


 部屋の中央に得体の知れない何かが鎮座していた。


 目を凝らしてよく見てみる。

 あれは一体なんなのだろう……。

この世のものとは思えない何かがそこには居た。例えるならB級映画かチープなお化け屋敷に出てくるシーツを被った幽霊のように、頭頂部は丸く、胴体は寸胴だった。……そういう例えを出しておいてなんだけど、実際に何かがシーツを被ってるわけじゃないし、もちろん顔なんてものもなければ手足もない。……あれは被り物をしている人ではないし、その表面は布でもない。もっと重厚な質感を持っている。……一体何で出来ているのだろう。表面は薄いピンク色で、樹木のように皺が入っているけれども、ぶよぶよしたゼリーのような質感にも見える。大きさは巨大で二メートルはありそうだった。

 生き物……には到底見えないのだけれど、その形容し難い何かのいたるところから直径二センチ程度の数十本の触手のようなものが生えており、まるで重力を無視するかのように中空をゆらゆらと揺れていた。

 その物体が一体何なのかは皆目見当がつかなかったけれども、一目見た瞬間に例えようもないおぞましい恐怖が湧き上がってきた。自分の本能が、あれには決して近づいてはいけないといっている。出来ることならそもそも見てもいけないし、そんなものが存在すると知ることすら許されないと言っている。

 きっとこうちゃんも私と同じようなことを考えたのだろう。顔中から吹き出ている汗は、おそらくは暑さによるものではなく、私と一緒で冷たい汗だ。


「ね、ねえ、こうちゃん……なんか、まずくない? 出よっか……」


 これ以上、ここに居ちゃいけないと、私の中の何かが全力で警告している。私は自分の本能に従うことにして、こうちゃんのシャツの裾を引っ張った、そのとき。


 空気を切り裂く音が聞こえてくるほどの猛烈な勢いで、その物体から生えている無数の触手がこちらに向かってくるのが見えた。


 私たちは何もしていないけれど、その物体が悪意を持ってこちらに危害を加えてきたというのは分かる。


「……っ!」


 私は思わず目を瞑って身をかがめてしまう……が、特にその触手が私に何かをしてくることはなかった。

 だけど、こうちゃんに対してはそうではなかった。


「う、ああ!」


 私が身をかがめたまま目を開くと、こうちゃんは立ったまま、両腕、そして両脚を触手で絡めとられていた。

 こうちゃんが身動きできずに尻もちを着くと、その物体はこうちゃんの身体を少しずつ部屋内へ……自分の方向へ引き寄せていく。


「うあ! なにこれっ! 助けて!」


 こうちゃんが悲鳴を上げて私に助けを求める。

 こうちゃんと目が合う。動けなくなってただ助けを求めることしか出来なくなった絶望、これから何をされるのか分からない恐怖。そういった負の感情がこもった目だった。

 ……正直に言うと、目が合った瞬間、私の心の中に去来したのは恐怖だけだった。この禍々しい何かから一刻も早く逃げ出したい。五体満足なまま安全な場所に行って、今日のことは忘れていつもの日常に戻りたい。今、助けを呼んでくるからね! と限りなく自分に都合の良い文句を叫んで、建物から走り去りたい。

 でもそんなこと、出来るわけない!

 私は心の中に湧き出てきた逃げ出したいという気持ちを振り払うと、慌てて尻もちを着いたこうちゃんの身体を引っ張ってその物体に抵抗する。

 今、ここで逃げだしたら一生後悔する! それだけは嫌!

 私は渾身の力を込めてこうちゃんの身体を引っ張る……引っ張っているけど、女の子一人の力じゃとてもこうちゃんを取り返すことなんてできなかった。その物体から伸びる触手はそんな私の頑張りを嘲笑うかのようにこうちゃんの身体を自分の元へと引き寄せていく。


「もう、なんでぇ⁉」


 私はこうちゃんの身体を引っ張るのをあきらめて、その触手を解こうとする。

 まるでゴムのような質感のそれは、強力な意思を持っているかのようにこうちゃんの手首に巻き付いて決して離れなかった。


「切れて! お願いだから! 切れてぇ!」


 私は普段では絶対出せないような力をもって、こうちゃんの手首に巻き付いている触手を左右に引っ張る。

 だけど……とても無理だった。いくら引っ張っても硬質ゴムのようなそれは少しも伸びたりしない。この無数の触手を一本切ることさえ私にはかなわない。


「はぁ、はぁ……やだやだっ、お願いっ! はぁ、はぁっ……!」


 緊張と疲労で息が尋常じゃないくらい荒くなる。こんなに動悸が激しくなったことは私の人生で今まで一度もなかった。何か、何か手はないのだろうか。


「助けて……汐音ちゃん……」

「うう、はぁ、ううう!」


 もうどうすればいいのか分からない。呼吸が荒くなる。酸欠で目の前がチカチカする。苦し紛れに私はその触手を両手で持って噛みついた。普段だったらこんな得体のしれないものに噛みつくなんて絶対出来ないけど、今の私は「普段」なんてものとはほど遠いところにいる。

 ……でも、やっぱり無理だった。その触手に歯が少しだけ食い込んで、それは決してちぎれないほどの強度ではないことが分かったけれど、私の歯なんかじゃ文字通り歯が立たない。歯形を付けることしかできない。


「はぁ、はぁ……う、はぁ、はぁ……」


 なんだろう。その物体を噛んでしまったせいなのか、それとも酸欠のせいだろうか。あるいは他の何かの要因なのか。

段々と気が遠くなってくる。頭がくらくらして、平衡感覚が保てない。


「汐音ちゃん? 汐音ちゃん⁉」


 こうちゃんの声が遠くから聞こえる気がする。視界が段々と暗くなって、斜めになって、ついには横になる。あれ、どうして地面が横にあるんだろ。ひんやりして気持ちいい……。


「……! ……!」


ここ、どこダっけ……わたシ、なに、してるンだっけ。

何も分からない。自分が誰で、何のためにここにいるのかさえ。

遠くで絶叫している誰かの声を子守唄にして、私はそのまま意識を失った。

もう全部完成はしています。

次回投稿予定:3月22日

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