act.12
夢を、見ていた。
どこまでも白く、上も下もないような果てのない空間。
そのだだっ広い空間の中、彼女は立っていた。雪のように白い肌に、吸い寄せられるような赤い唇。腰まで真っ直ぐに流れる漆黒の髪が、シンプルな白いドレスと相まってとても神秘的な雰囲気を醸し出している。眠るように伏せられた瞳を縁取る長い睫毛は涙で濡れていた。
取り残されたように悄然と立ち尽くすその姿に、花音は寂しさを覚えた。
この場に花音が存在しているのか、していないのかはわからない。あるのは、映像を見ているような不思議な感覚。
ふと、彼女が目を開ける。髪と同色の瞳は、どこか悲しげな光を帯びていた。
「ごめんなさい――」
鈴の音のような声が、謝罪の言葉を紡ぐ。
「わたくしのせいで、争いが起きてしまう」
独り言か、それとも誰かに宛てた台詞なのか――それは定かではない。
「愛する世界を、愛する者達を、止められない。わたくしの力では、あの子を助けられない」
悲しげに、哀しげに、彼女は微笑む。自分を抱きしめるように、両腕を抱え込みながら。
「あの子がわたくしを必要としない限り――わたくしはあの子を助けてあげられない。それでもわたくしは、あの子に祝福を与えるの。世界のために。あの子のために」
苦しげな表情を浮かべ、彼女はもう一度目を伏せた。その瞬間、一筋の涙が彼女の頬を伝う。
(どうして泣いているの?どうしてそんなに苦しそうなの?――ねえ、泣かないで)
花音は、彼女に声をかけたかった。
けれども、言葉を発することはできず、花音の思いは彼女に届かない。
触れることも、声をかけることもできない状況の中、花音は願う。
せめて彼女の憂いが晴れますように、と。
*
翌朝、花音は誰かに呼ばれたような気がして目を覚ました。
眠りと覚醒の狭間をぼんやりと漂いながら、花音は“夢”について考え始める。
あの女性の姿が記憶に焼きついて離れない。所詮夢は夢でしかないのだが、どうしてか気にせずにはいられなかった。それが、いずれ薄れゆくものだったとしても。
あれは、一体何だったのだろうか。
(夢を鮮明に覚えてることなんてなかなか無いよねえ?……でもま、気にしても仕方ないか。まだ眠いし、もう少し寝よっと。寝坊してもアリアが起こしてくれるだろうしね)
欠伸をひとつ零し、布団を肩まで掛け直す。
そうして布団に潜り込みながら瞼を閉じるが、妙な違和感が花音の脳裏をかすめた。
違う。何かが違う。
先程視界に入った天井も、体を包み込む柔らかいベッドも、見覚えはあるけれど、何かが違うのだ。
そこまで考えて、花音はふとある事実に思い当たる。
ルディアスの部屋を訪れた後、自室に戻った記憶がないのだ。
(――まさか!)
花音は慌てて起き上がると、きょろきょろと周囲を見渡した。
どう見ても、花音の部屋ではない。それどころか、幾度か訪れたある人物の部屋と酷似しているような気がする。
花音の背中をひやりとしたものが伝った。
(……ってことは)
恐る恐る、自分の隣に視線をずらしていく。
そこには、こちらに背を向けて眠るルディアスの姿があった。
「――――っっ!!!」
思わず大声で叫んでしまいそうになったが、即座に片手で口を覆い隠すことで事なきを得る。
(う……うわああああやらかした!やらかしたよ自分!)
これでは以前と同じ状況ではないかと、花音は頭を抱えたくなった。
違和感の正体はこれだったのだと、花音は昨夜のことを思い出しながら大きくため息をつく。
(あ、あんな格好で泣き疲れて寝ちゃうなんて馬鹿じゃないの自分!そしてルディアスも叩き起こしてくれればよかったのに!そしたらこんな風にそっ……添い寝みたいなこと!)
花音はほんのり赤くなった頬を隠すように、勢い良く枕に顔をうずめた。
その拍子にベッドが少しだけ揺れたが、ルディアスは熟睡しているのか身じろぎすらしなかった。
ルディアスを起こしてしまわなかったことに安堵しつつ、花音はゆっくりと顔を上げる。
現状について、寝ている人物をわざわざ起こしてまで説明してもらおうとは思わない。むしろ、話が終わってからすぐに退室しなかった花音自身に責任があると思っている。だが、このやり場の無い複雑な思いはどこへぶつければいいのだろう。
しかし、ルディアスが弱さを見せた花音を受け入れ、慰めてくれたのも事実である。
花音は上半身を起こし、迷いながらもルディアスの背中に優しく触れた。
「――ありがとう」
それだけを言い、花音は極力物音を立てないようにしながら部屋を出て行った。
寝ているはずのルディアスの唇が、人知れず弧の形を描いたことも知らずに。
*
ルディアスの部屋を後にした花音は、自室までの道のりを人目につかないよう細心の注意を払いながら進んでいた。夜着のまま出歩くことはなるべく避けるようにと、アリアに言い含められていたからだ。花音にとってはパジャマ同然のそれでも、妙齢の女性が夜着のまま城内を歩き回るのはやはり好ましくないのだろう。
幸い、ルディアスと花音の部屋は同じ階ということもあってか比較的近い位置にある。
さっさと戻って二度寝でもしようと、花音は歩くスピードを速めた。
「うわっ!」
「ぶっ!」
廊下の角を曲がった瞬間、不運にも反対側からやってきた人物にぶつかってしまう。
花音は顔を押さえ、急いでその人物から距離をとった。
「す、すみませ――」
「いや……って、お前!こんなところで何をしているんだ!」
驚愕と呆れを含んだような声が頭上から聞こえ、花音は弾かれたように顔を上げる。
どうやら、花音が衝突した相手はキルスだったようだ。
(……あちゃー)
まずい相手に見つかってしまったようだ。
今後の予想としては、もはや聞き慣れたと言っても過言ではない長い説教が花音を待っているような気がする。朝から面倒なことになりそうだと、花音は内心ため息をつきながらキルスの顔色を窺った。
キルスは眉をひそめながら何か言いたげに口を開閉させている。顔はやや赤く、若干目が泳いでいるようだ。花音は普段と違うキルスの様子に首を傾げたが、ルディアスの部屋に不本意ながらも泊まってしまったことがばれて怒っているのだろうと勝手に解釈し、とりあえず謝罪してみることにした。
「あの、キルス?」
「お前というやつは……なんという格好で出歩いているのだ!」
「……はい?」
花音がおずおずと話を切り出すのと同時に、キルスが赤い顔で叫んだ。
何を言われているのかわからずぽかんとする花音の前で、キルスは無言で上着を脱ぎ始める。
突然のことに驚愕し目を見開いたまま固まっていると、キルスは花音を見ないようにしながら無造作に上着を差し出した。
「……もしかして、貸してくれるの?」
「お、お前も一応女だろう!?そんな薄着で出歩くんじゃない!」
「一応ってとこが引っかかるけどこの際スルーするわ。ていうか、この前ルディアスの部屋に行ったときと同じ格好なんだけど、これってそんなにダメなの?」
「だ、駄目に決まっているだろう!それに、あれは夜中で誰も見る者がいなかったからだろうが!……もういいから、さっさとこれを着ろ」
今度は、有無を言わさず押し付けられた。
花音は上着とキルスを何度か見比べてから、くすりと笑う。
不器用な優しさが素直に嬉しかった。
「な、何がおかしい」
「ふふふ、なーんにも?私あんたに嫌われてると思ってたから嬉しくて。ありがとね」
そう言って笑うと、キルスは不機嫌そうな表情で花音の横をすり抜けていく。
そのまま何歩か進んだところで、キルスはぴたりと足を止める。
「――陛下は」
「え?」
「陛下は、信ずるに値するかを自分で決めろとおっしゃった。正直、今の段階ではお前が巫女なのか判断できん。だが、お前は陛下に仇名す者では無いと……思い始めている。別に、嫌いでは、ない」
「えっ……キルス、それって」
思いがけない台詞に、花音は息を呑んだ。
言葉を額面通りに受け止めるとすれば、少なくともキルスは花音を嫌っていないことになる。
咄嗟に振り向くと、キルスは花音に背を向けたまま足早にその場を去ろうとしていた。
花音はだんだんと湧き上がってくる嬉しさを隠せないまま、キルスの背に声をかけた。
「――ねえっ!今度は、私の名前も呼んでよね!」
返答はない。
だが、花音はそれでも満足だった。
(あんなに喧嘩まがいの会話してたのに、嫌われてなかったなんて!嬉しいな!これを機にちょっとずつ仲良くなれればいいんだけど)
そう思いながら、花音はキルスに手渡された上着を羽織り、自室に向かって駆け出した。
足取りは先程よりも軽かった。
部屋に帰り着いた後、花音は気分良くベッドに滑り込み、目を閉じる。
夢は、見なかった。
どうしてもキルスとのシーンを書きたかったので最後に入れました。
和解……なのかなあ?