act.1
三日前から降り続く雨は止む気配を見せない。朝家を出る前に見た週間天気予報では傘マークがずらりと並び、晴れる日は当分先になりそうだ。
「やっぱり止まないかあ……あーあ」
こうも毎日雨ばかりだと気が滅入る。
窓を濡らす雨粒をじっと眺めながら、花音は陰鬱とした表情でため息をついた。
放課後の教室は人が少なく、閑散としている。普段はそれなりにざわついているのだが、天気のせいもあってか、今日に限って数人しかいない。そして彼らも、既に帰り支度を始めているところだった。
早く帰りたいのは花音も同じだが、帰る約束をしている友人が来るまでは教室から動けない。これも花音が浮かない表情をしている原因の一つである。
「もう、五分って言ってたのに三十分も過ぎてるじゃない!何やってんのよあいつは!」
できれば雨足が強くならないうちに帰りたい。
友人にそう告げたのはちょうど三十分前。彼女はわかったと二つ返事で了承したものの、違うクラスの知り合いに教科書を貸していたらしく、五分で戻るからと言い残して去っていった。
時間通りに戻らないのをみると、大方話し込んでいるのだろう。
「あいつ絶対忘れてるわ……後五分待って来なければ先に帰ってやる」
密かに決意を固め、机に頬杖をつく。クラスメイトが教室を出る際に投げて寄こした挨拶に笑顔で応え、花音は再度視線を窓の外に移した。
そこに意味はなく、暇を持て余したゆえにとった行動なのだが、これが自身の運命を変える第一歩となろうとは思いもしなかった。
「ん……?」
水滴で歪む窓越しの景色。この教室からだと学校の桜並木がよく見えるのだが、それが光を帯びた気がして、花音は椅子から立ち上がった。
「なんだろ……ちょっと見に行こうかな」
携帯電話を持ってさえいれば友人が先に教室に帰ってきても問題はない。
花音は携帯電話を制服のポケットに押し込み、傘を片手に外へ出た。
学校を囲むように植えられた桜は、美しい花を散らし枝いっぱいに緑色の葉をつけている。
五月ももう半ばに差し掛かり、新緑の季節が到来し始めているというのに、こう雨続きでは景色も楽しめない。
もちろん、普段は考えないようなことだけれど。
「靴濡れちゃうかな……まあいっか。さっき光ってたのはどこだろ」
水色の傘をさし、花音は水溜まりに気を付けながら葉桜に近づいていく。木々の傍で周囲を見渡しても、先程見た光は見当たらなかった。
それほど期待はしていなかったが、何となく肩を落とす。同時にポケット内の携帯電話が震えたが、すぐに止まったので多分友人からのメールだろう。
「さっさと教室に戻らないと!あの光は気のせいだったみたいだし」
呟くように言い、踵を返したときのことだった。
急に一陣の強い風が吹き、花音の手から傘を奪いとった。
「あっ!?」
風に煽られた傘を慌てて追うも、なかなか捕まらない。
「もう最悪!待てってば!」
花音の言葉とは正反対に、傘はますます手の届かない場所へ飛ばされていく。花音は濡れるのもかまわずそれを追いかけた。
瞬間、二度目の風が吹いた。
「っ!?」
花音は強い風と雨にバランスを崩し、後方に倒れていく。花音は避けられない痛みを想像し、ぎゅっと目を瞑った。
しかし、いつまでたっても痛みはやってこない。それどころか、吹き付ける風雨すら感じられないのだ。
花音は恐る恐る目を開けた。
「……え?」
最初に目に入ったのは、驚愕の表情でこちらを見つめる青年と、その後ろで同じように目を見開いている青年の二人だった。片方は腰まである長い金髪に碧眼、もう片方は茶色の短髪に同色の瞳。服装に差はあれど、どちらも見慣れない格好をしている。
「月女神の巫女……」
手前にいた金髪の青年が呆然と呟く。もう一人の茶髪の青年も何か言いたげに口を開閉させているが、言葉が思いつかないようだ。
(この人達、誰なんだろ?)
混乱する頭で最初に思ったのはそれだった。
ここはどこなのだろうとか、考えることは本来たくさんあるはずなのだが、今はぼんやりとそれだけを思う。
(こんな美形さんは知り合いにいないし、ファンタジーな格好も見覚えがない。それに、よく聞き取れなかったけど『みこ』とか言ってなかった?)
尻餅をついた体勢のままそんなことを考えているうちに、茶髪の青年が動いた。何やら慌てた様子で周囲にいる人に指示を出している。
どうやら二人の青年以外にも人はいたらしい。しかし、彼らは足早に去っていってしまった。
この場に残されたのは、花音と青年二人のみ。
「伝承は事実だったということなのか?……まさか、こんな小娘が?」
金髪の青年がゆっくりと近づいてくる。それを諫めるかのように、茶髪の青年が声を張り上げた。
「素性も知れぬ者に近づくなど危険です!せめて確認を――」
「別に後でもいいだろ」
茶髪の青年の忠告を遮った金髪の青年は尚も花音へと近づくと、すぐ傍で足を止めた。
花音は顔を上げ、青年の青い瞳と視線を交わす。
「単刀直入に聞くが、お前は“月女神の巫女”か?」
「……は?」
花音は金髪の青年の言葉の意味がわからず素っ頓狂な声を上げた。
(月女神の巫女って……この人何言ってるの?)
花音の反応と表情に違和感を覚えたのか、金髪の青年が眉を寄せた。
「違うのか?黒き髪に黒き瞳、見慣れぬ服装――まさしく伝承の通りだが……」
「伝承?伝承っていったい――」
「陛下、その娘は伝承すら知らない様子。巫女に成り済まそうとした間者の可能性だってあります。どう見ても普通の小娘が巫女であるはずがありません」
花音の台詞を遮り、茶髪の青年が金髪の青年の横に並ぶ。
あまりの言われように、花音はむっとした顔で茶髪の青年を睨み上げた。
「ちょっと!あんたそれ言いすぎじゃないの!?」
思わず叫んだ瞬間、二人の目が花音をとらえる。それに少しだけ怯むが、言ってしまった以上後には引けない。
「大体何なのさっきから!巫女だの間者だのって、私はそんなの知らないし、聞いたこともない!説明もなしにそんなこと言われたって、わかるわけないでしょ!?第一、あんた達は何者なのよ!」
ここまでまくしたてるように言ってから、花音ははっと我に返る。
(やば、怒りに任せてつい叫んじゃったよ!)
しんとした中、二人の顔色を窺うと、金髪の青年は驚いたような表情をしているが、茶髪の青年は案の定不快そうに顔を歪めていた。
「無礼な娘だ……やはり巫女の器では」
「――くくっ」
突然、金髪の青年が低く笑った。
はじかれたようにそちらを見やると、彼は顎に手を当てて笑みを浮かべていた。
「面白い娘だな――気に入った」
「……は?」
茶髪の青年と花音の声が重なる。
二人の反応を気にせず、金髪の青年は話を続けた。
「娘、お前の名は?」
「え?花音、だけど……」
「花音か。なあ、お前月女神の巫女かどうかわからないんだろ?」
「いや、まずここがどこかもわからないっていうか……」
ぼそぼそと答えると、金髪の青年が視線を外し黙り込む。しかしそれも少しの間で、彼はそのまま茶髪の青年に顔を向けた。
「キルス。部屋を用意しろ。こいつの話を聞くから人払いもな」
「しかし、正体もわからない娘を――」
「キルス」
金髪の青年が、茶髪の青年――キルスを静かに手で制した。
「ならばお前、いきなり俺達の前に現れたことについてどう説明をつけるつもりだ?」
「それは……」
「それに、もしもこいつが本物だったら、お前の発言は不敬に当たるんだぞ。口を慎め」
「……申し訳ありませんでした」
キルスが金髪の青年に深々と頭を下げる。
(ああもう、何なのよこの微妙な空気は!)
花音は会話を黙って聞いていたが、この重苦しい雰囲気にだんだん耐えきれなくなってきていた。
かといって口を挟むこともできず、ただ傍観するばかり。
一体どうすれば。
「さて、うるさい奴らが来る前に移動するぞ。とりあえず俺の部屋だ。キルス、人払いを」
「かしこまりました」
金髪の青年の命令を受け、キルスは目礼して踵を返す。彼がこの場からいなくなると、金髪の青年が花音に手を差し伸べた。
「ほら、立て」
花音は一瞬迷ったが、素直に金髪の青年の手を取ることにした。花音が手を乗せると、強い力で引っ張り上げられる。
「許せよ。あいつは自分の職務に忠実なだけだ」
手を離しながら、金髪の青年が呟くように言った。
「職務?」
「あれは俺の護衛。最近城に入った暗殺者を捕らえてから神経質になっているらしくてな」
「あ、暗殺者!?なんでそんな物騒なの!」
「俺の命を狙ってるからだろ。最も、簡単にやられはしないけどな」
花音は、暗殺者やら命を狙うやら、普段耳にしない単語が出てくることに軽く違和感を覚えていた。
いや、彼らの言動だけではない。
雨の中にいたはずなのに、目を瞑った瞬間室内にいたのだ。こんなことなどありえるのだろうか。
「……ねえ、ここはどこなの?」
一気に不安になり力なくそう言うと、金髪の青年は花音の目を真っすぐに見て口端を上げた。
「ここはクロスレイド。俺の国だ」
「くろす……?俺の国……?」
反芻するだけで理解が追い付いていない様子の花音を見据えたまま、金髪の青年は不敵に笑った。
「俺はルディアス・クロスレイド――この国の王だ」
金髪の青年――ルディアスの言葉に、花音が思い切り叫んだのは言うまでもない。