第百九十六話 戦況の流転
次回は五月二日に投稿する予定です。
オーサーはかつての大戦後のレッド同盟の状況を説明した。
話の内容はどれもありふれた”喉元過ぎれば熱さを忘れる”ような愚行の繰り返しであり、エイリークたちも無力感を覚えさせられる。
(結局、俺たちのやっていた事は何だったんだ。こんな事になるなら平和なんか最初から要らなかったんじゃないのか…?)
オーサーは俯いて歯噛みするしかないエイリークと彼の仲間に向って手を差し伸べる。
「もう十分だろ、エイリーク。別にグリンフレイムの言葉が正しかったわけじゃない。誰かが汚れ役を買って出なければ世界は変わらない。けど新しい”世界の秩序”なんて俺みたいな凡夫には相応しくない役柄だ。本当に選ばれた人間は誰なのかなんてのはみんなが知っている…」
エイリークは苦しそうな表情で差し出された手を見る。
オーサーの右腕は間近で見ると傷痕だらけだった。
(俺がオーサーの手を取ればハニーは死ぬまで俺の為に戦う。ダグは立場から別れる事になるだろうが、ソルやハンスたちは死ぬまで俺に従うだろう…)
かつて母アグネスが死の間際に見せた笑顔。別離の言葉さえ交わさずに苦しんで死んだ父マールティネス。
最愛のマルグリットとの間に生まれたレミーとアインを抱き締めた時に誓った物がある。
どんな理由があろうとも、この平和だけは守らなければならない。
逡巡の後、エイリークはオーサーの手を振り払った。
「エイリーク…」
これだけは例え親友であろうとも絶対に従うわけにはいかない。
「駄目だ、オーサー。俺はお前の望みを聞いてやるわけにはいかない。どんなご大層な理由があろうが戦争は何も生まねえよ」
「想像通りの回答だな。別に驚きはしねえよ。だが時代は待っちゃくれねえよ。後十年もすれば力を取り戻した帝国は必ず失地回復という名の侵略戦争を始める。今はナル家のアドダイ太公が抑えているが十年後にヤツが生きているという保証は無え。自治都市だってダグの親父が死んだら領土拡大に乗り出すだろうよ」
オーサーの心は再び漆黒にまみれる。
全ては承知の上で話したはずだというのに、心は理解に追いつかない。
「いい加減な事を言うな、オーサー。我々はそこまで愚かではない‼」
ダグザが憤りを隠さずに反論する。
相手が赤の他人ならばまだしも多くの時間を共有し、苦楽を共にしたオーサーなればこそ許されぬ暴言だった。
ダグザの言葉は続く。
「我々は仮初の平和を手に入れる為に多大な犠牲を払った。それがどうしてこんな結論に至るというのだ。私の前で説明してみせろ、オーサー・サージェント‼」
ダグザは拳を震わせ、黒い瞳は涙で潤っていた。
自身の不甲斐なさと友の変心に対する悔し涙だった。
オーサーは呆れた様子でため息をつく。
「ここでお前と言い合うつもりはねえよ、ダグ。俺とお前じゃ背負っている物が違いすぎる。お前が生まれた時から背負っている荷物なんざ俺には持ち上げる事さえ出来ねえ。こう言えばわかるか、御曹司のお坊ちゃん?俺みたいな小者には今の現実には耐えられねえ。だから全部ぶっ壊そうと思ったんだ」
そして自虐的な虚無を含んだ笑みを見せる。
オーサーとてダグザのように我慢しようと思った事がないわけではない。
戦場で弟が行方不明になり、意見の食い違いから両親と妻子と隔絶状態にならなければ素直に今の平和を享受出来たのかもしれない。
だが、彼は弱かった。
蹴躓いて、転んで泣いてしまったがゆえに自力で立ち直れなくなってしまったのだ。
「今の平和を壊すだと⁉聞き捨てならんぞ、オーサー‼お前は俺たちの為に命を盾にして戦ってくれたじゃないか‼」
それまで黙っていたソリトンが居ても立っても居られなくなり吼えた。
ソリトンにとってオーサーは恩人であり、心許せる仲間だった。
それは真実が明らかになった今でも変わらない。
「俺の方こそお前らの気が知れねえよ、ソル。エイリークの両親が悲惨な死に方をして、それでも自治都市の為に戦うなんざ俺には出来ねえ」
エイリークの両親の死の原因を指摘されてソリトンは言葉を失う。
彼自身、戦争の最中に幾度となく世界への復讐を考えた事があった。
「待ってよ、オーサー。アグネスとマールの事はアンタには関係ない。これはアタシたちで話合ってちゃんと決めた事なんだからさ…。おい、ソル。歯ぁ食いしばりな」
ばんっ‼
マルグリットは突然ソリトンの横面を張り飛ばした。
「‼」ソリトンの体が風に吹かれた紙屑のように転がる。
オーサーとダグザは血の気が引いた顔でその光景を見守っていた。
だんっ、だんっ、だだんっ。だんっ‼
その後、ソリトンは水切り石のように何度か地面に体をぶつけながらぶっ飛ばされて道の反対側にある建物の陰にぶつかって動きを止めた。
道行く人々は緊張しながら動向を見守っていたがエイリークとマルグリットの夫婦の仕業だという事に気がつくと見て見ぬふりをしながら通過する。
さながら触らぬ神に祟りなし、というところだろう。
「ありがとう、マギー。少しだけ冷静になる事が出来た。オーサー、お前の意見はやはり納得出来ない。エイリークとベックはマールとアグネスが死んでも誰も憎まなかった。俺たちよりも何倍の時間もつき合いがあるというのに…」
ソリトンはハンカチで顔を拭うとオーサーを睨みつける。
普段は多少の事では動じない静かなる男の顔に怒りが顕れていた。
先ほどのマルグリットの一撃によって生じたすり傷と腫れはソリトンの持つ”妖精王の贈り物”によって回復している。
「ちょっとマギー‼何でウチの旦那の顔を殴るのよ‼顔だけは止めてっていつも言ってるじゃない‼」
ソリトンが顔に怪我を負った事で彼の妻ケイティが目を尖らせてマルグリットに詰め寄る。
マルグリットは居心地の悪そうな顔をしながら苦笑する。
「あっ、ゴメン。昔のクセでつい…」
この場にいるマルグリットとソリトン、ハンスとモーガンは同じ場所で生まれ育った間柄だった。
盗賊たちが作った集落で、そこで生まれた子供は物置で親たちの気まぐれで与えられた餌をもらって生きなければならないような最低の環境でマルグリットたちはこの世に生まれたのだ。
生まれ持った”妖精王の贈り物”のせいでソリトンは感情の表現が難しく特に大人たちから虐げられた。
マルグリットは仲間たちに人並みの感情を持たせる為に思い切り殴って躾けた。
「いやそれはソルに限った事じゃないんじゃが…」
糸目の巨漢ハンスがツッコミを入れる。
ズガンッ‼
次の瞬間、ハンスはマルグリットのスィングブローによって倒された。
ハンスの妻モーガンは必死の形相で夫を抱き抱える。
「ちょっと止めてよ、マギー‼まだ屋根の修繕終わってないんだから…‼」
夫の命も大切だったが雨漏りをするようになった屋根の修繕の方が優先順位が高かった。
「ハンス、大丈夫?」
「いつもすまんのう、モーガン。屋根は今週中には何とかするからそれで勘弁してくれ…」
モーガンはハンスの頭に手を当て”治癒力促進”の魔術を使う。
「そんなのアンタらで何とかしなよ。つーか何時アタシらの立場が対等になったんだ?」
ハンスはどうにか意識を保ちながら答える。
「うう…。以降気をつけます…」
マルグリットは再びオーサーに向き直った。
「オーサー、嫌な事を思い出させやがって…。また戦争が始まればアタシの親みたいな連中が増えるだけさね」
一度、秩序が破綻すればそれを理由に無法を働く者が現れる。
マルグリットの両親や祖父母は元々は眷属種族に使える融合種族だった。
しかし戦乱の世が続いて主人の力が弱まると裏切り、盗賊に身を落とした。
生きる為に手段を選ぶ事が出来なかったのかもしれない。
だが彼らは次々と他の集落を襲って勢力圏を拡大し、最後にはダナン帝国の領地に手を出してしまった。
帝国から差し向けられたドワーフの軍人ドルマは瞬く間に彼らから領地を取り戻した。
マルグリットたちはその生き残りだった。
「なあ、マギー。お前ならわかるよな?盗賊連中が反省なんてするわけが無え。ほとぼりが冷めれば、また同じ事の繰り返しだ。このイカれた世界には誰もを従わせる絶対的な力が必要なんだよ‼」
「…もう口を閉じてろ、オーサー。アタシはな、牧師だったドルマの弟がアタシの親に殺された事なんて知らなかったんだ。あの時、ドルマがどんな気持ちでマールの説得を受け入れたのかと思うと…」
マルグリットは当時の事を思い出して言葉を詰まらせる。
この時オーサーの胸中もまた複雑な物となっていた。
戦時中、レッド同盟の軍人であるオーサーはエイリークたちを通じて帝国の軍人であるドルマとも交流を持っていた。
ドルマの弟は地方の教会を巡回していた牧師であり、救援活動をしていた町で運悪く盗賊に襲われて命を失ってしまったらしい。
戦争で兄弟を失った者同士、友人関係となったがドルマは苦境のどん底にありながらも自身の力で立ち直ろうとしていた。
オーサーは彼を心の底から応援していたが、反面彼の心の強さを妬んでいた。
「ハッ‼…どうせ俺には理解出来ねえよ。お人好しのドルマの事も。マギー、お前らの事も…。俺の弟は俺や俺の親父が”男なら勇敢に戦え”って言ったからいなくなっちまったんだ。他人にお前のせいじゃないっていくら説得されてもわからねえんだよ‼自分の言った事が忘れられねえんだよ‼自分で自分の事を許せねえんだよ‼」
オーサーの言葉には己の弱さと対峙しようとしない者の自虐、そして弱さと向き合ってそれを克服した者たちへの羨望、憎悪が籠っていた。
「くだらないね。それがアタシらを裏切った理由かい」
マルグリットは腰に下げた短刀の柄に手をかけようとする。
「待てよ、ハニー。俺たちはまだオーサーの話を半分も聞いちゃいないぜ」
エイリークが剣の柄に伸びたマルグリットの手を止めた。
そしてやや強引に武器を取り上げる。
「ダーリン。言っとくけど、アタシの覚悟は決まったからね。…オーサーのねじ曲がった性根を叩き直すってさ」
結果としてマルグリットに睨まれる事になったがエイリークは冷静さを取り戻し、オーサーとの対話に復帰する。
エイリークには今目の前にいるオーサーはいつもの調子の良い事ばかり言う優柔不断な男とは別人に見えていた。
どこか思いつめた、ふと目を離せば消えてしまいそうな瞳はエリオットの父アストライオスと同じ輝きを宿していた。
「ようやくこれでサシでお前と話せるわけだ、エイリーク。待ち遠しかったぜ」オーサーはやけに落ち着いた様子で口を開く。
「オーサー、俺の答えは変わらねえよ。馬鹿な連中が何度同じ事を繰り返そうと俺は俺のやり方で立ち向かって行くだけだ…」
エイリークの声には幾分かの悲哀が含まれていた。
オーサーの同意が得られない事がなど最初から知っている。
彼は今までの人生の中で勝ち得た物の倍以上の多くの物を失ってきたのだから。
そして最後にエイリークは己の右手を差し出した。
「オーサー。もう一度、俺たちの事を信じてくれ…」
オーサーは忌々しそうにエイリークの右手を見る。
(コイツはいつもこれだ。どんなにひどい目にあっても人を信じようとする。俺のようなクズ相手でも最後まで手を差し伸べて信じようとする…)
オーサーの中に底なしの落胆と失望が生まれる。
ここでエイリークに絆されて正道を歩もうとも問題は解決しない。
この時のオーサーは何よりも”理外の力を操る者たち”から見放される事を恐れていた。
六洞帯主と名乗る彼らの協力があればオーサー本来の目的である”戦争の普遍化”が達成も夢物語ではないだろう。
「ぐっ…‼」
気がつくとオーサーの右手はエイリークの手を取ろうとしていた。
実際彼自身が一番よく理解している。
エイリークには理想を現実に近づける力を持っているという事を、十数年間の交流を通して肌身で感じていた。
その時、オーサーの頭の中に武人然とした男の声が響いた。
六洞帯主の一人、李宝典と名乗る男の声である。
(オーサーよ、何も迷う必要は無い。その手を取ってこちらに引き寄せろ。我らがかの者に英雄たる資格があるか、試してやろう…)




