第百八十一話 そして第十六都市に帰る。
すいません。また遅れてしまいました。次回は十月十七日くらいに投稿します。
ベックは立ち上がり、シャツのボタンに手をかける。
純白のシャツの下から強かな肉に覆われた自然の装甲が真の姿を現す。
長年、休む事無く鍛え続けられてきた重厚な筋肉は陽光の輝きを放ち見る者を魅了する。
鋼の強度と柳のしなやかさ、齢を蓄えた衰えなど感じさせない。
ベックの肉体は今をもって最盛期を迎えつつあった。
「フン、何を今さら泣きわめいていやがる。いつもいつもお前は事が終わってから泣くだけだ…、泣き虫マティ」
ぬんっ!
ベックはへその下に力を込めて筋肉を膨張させた。
そして泣きじゃくるマティス町長に近づき、力いっぱい頬を打った。
マティスは丸めた紙くずのように地面を転がり壁に当たって止まる。
打たれた右の頬からは血が流れていた。
だがマティスの涙は止まらない。
彼はドアノブに手をかけた時、メリッサの死とスウェンスの危機を始めて知ったのである。
マティスの記憶が正確ならばメリッサの死は彼と彼の家族がサンライズヒルの町に引っ越した時期と変わらない。その事実が彼の心をさらに苦しめる。
メリッサとスウェンスは旅立つマティスの足かせになってはいけないと周囲には伝えないように言っていたのだ。
ベックの目から流れる涙が何よりもそれを物語っていた。
「どうして知らせなかった…。ベック、お前はいつも余計な世話ばかり焼く。メリッサさんが死んでしまうかもしれないと知っていたら俺だってサンライズヒルには行かなかったさ」
マティスは涙を拭い、地べたに腹がくっつくほど低い位置に構える。
そして地面を蹴って矢のように駆け上がり、ベックに体当たりを決めた。
ベックは体格的にひと回りは大きいマティスの弾丸タックルを受け止める。
お互い五十歳以上になって身体能力の低下は免れなかったが、マティスのタックルはスピード、パワーが共に強化されていた。
若い頃のように力だけに頼った体当たりならば受けるまでもなく回避して終わらせていただろう。
(コイツ、いつの間にこんなパワーを…)
ベックは微笑みながら、つま先でブレーキをかけてマティスの巨体を止めた。
話が変な方向に流れて行きそうになったのを看破したテレジアは手に汗を握り観戦する速人に向かって二人の喧嘩を止めるように言った。
「おい、小さい悪魔。あの見苦しい老いぼれどもの不毛な喧嘩を止めな。あいつらもう二十年以上前から顔を合わせる度に男同士でああやって抱き合ってるんだよ」
ついにマティスとベックは手を組んで力比べを始めていた。
ベックが押せばマティスがそれに抗う。
昭和のプロレスのような由緒正しい戦闘だったが、実践派のテレジアはお気に召さなかったようだ。
(こういうドラマのある試合は今のギャラリーにも受けが良いのに…。やっぱりテレジアさんは女の人なんだな)
速人は後ろ髪を引かれるような思いで背負っていたバックを地面に置いた。
そして音も無くステップを踏み、マティスの背後に接近する。
マティスは勝負に集中するあまりその事に気がついていない。
「この野郎コラ!誰が泣き虫だコラ!俺が泣き虫ならお前は何だコラ!お前なんか全然怖くねえぞコラ!」
マティスはベックに向かって意味不明の罵倒を繰り返す。
部屋の中にはマティスの孫娘が残っているので今後の教育に悪影響を与えかねない光景だった。
一方ベックは手を掴んだままマティスに向かってヘッドバッドを繰り返している。
「うわ…、ベックのイメージ今日一日でかなり変わったよ」
「あはは。ベックはね、アムが生まれてからは性格変わっちゃったからね。ダーリンがソルを泣かしたらよくああやってヘッドバッドをかましていたもんさね。アンとジュリア、大丈夫かな…」
機械のようにマティスに頭突きを繰り返すベックの姿を見たレミーが呟く。
マルグリットは苦笑しながらアンとジュリアの方を見ている。むしろこの後の二人の制裁の方こそが要注意だった。
ガッ!ガッ!ガッ!石と石を打ったような音が部屋の中に響く。
いつしか皮膚が裂けてベックとマティスの額から血が流れていた。
「…」
ガタッ‼
傍観者だったマティスの妻アンは孫を部屋の外に出してから大きな壺を手に持っている。
「アン。母様が待てってさ」
テレジアはダイアナに命じてアンの乱入を阻止させた。
そしてソファのひじ掛けに頬杖をつきながら二人の”処刑”を鑑賞する。
「シッ‼」
速人はマティスの背後を取り、延髄に向かって突きを繰り出していた。
マティスはベックと拮抗した状態を維持しながら体を反転させて急所への直撃を避けようとするが先に速人の突きが当たってしまった。
ずんっ。
その場に崩れ落ちるマティス。
しかし速人は白目を剥いたマティスの身体を支えながらソファに寝かせた。
「ベックさん。そろそろ家に帰るから服を着てよ…」
速人はバックから綺麗に折り畳まれたシャツを取り出す。
万一、エイリークが服を汚してしまった時の為に用意しておいた物だった。
余談だがマルグリットとレミーの着替えも用意してある。
ベックは冷や汗をかきながら首を縦に振り、おとなしくシャツの袖に手を通す。
決して速人お凶行を恐れたわけではない。
ベックがこのまま上半身が裸の状態で家に帰れば妻のコレットと娘のケイティから怒られるのは間違いないからである。
否、出かける前と服装が違っているという時点で怒られるのは確定ではあるが。
(この年齢でこれを着るのか…)
ベックは背中にハイビスカスの花がプリントされた水色のシャツを身に着けた。
「おい、速人!何でベックに俺様のシャツ着せてるんだよ!」
エイリークはベックが身に着けているやたらと胸の開いたシャツを指して言った。
レミーとマルグリット、ダグザは微妙な表情でベックの姿を見ている。
今のベックの姿は服装だけ二十歳くらい若返っていた。ベック自身も自分の服を身て赤面している。
「エイリークさん、よくシャツのガラを見てくれよ。あれは前に襟首が解れてきたから処分しようって言ったシャツだろ?あれはもう着ないって言ってたじゃないか」
「だーっ‼ソレはソレ!コレはコレ!だっつーの‼俺様はジジイが袖を通したシャツなんざ絶対に着ないからな!弁償だ、弁償!新しいの買え!」
「わかったよ、エイリーク。私が新しいシャツを買ってやるからおとなしくしていてくれ。…ふう」
ぎしっ。ベックは汗で額に張りついた前髪を整えながらソファに腰を下ろした。
下にはマティスが仰向けになって寝ている。
「うぎゅっ」
「おや失礼」
クッションの代わりに下敷きにされたマティスが悲鳴をあげる。
ベックはマティスを気にかける様子も無くその場から動こうとしない。
二人の間に流れる不穏な気配を察した速人とエイリークはマティス対ベックの第二ラウンドが始まる前に引き離した。
「苦労かけたね、小さな悪魔。お礼の代わりにそこの独活の大木も一緒に連れて行ってくれないか?マティスがは若い頃にスウェンスの家に下宿していた事もあるんだ。連れて行ったらきっと喜ぶんじゃないか?」
「待ってくれ、テリー。私にはサンライズヒルの住人の健康を守る義務が…」
マティスは血相を変えて反論する。
サンライズヒルの町にはマティス以外の医者はいないし、彼は町長でもあるのだ。
普通に考えればエリオットとセオドア以上に町を空けるわけにはいかない存在である。
しかし、テレジアは首を横に振りながら残酷な真実を伝えた。
「…マティス、お前の出来る事ならアンとジュリアが全部やってくれるからいついなくなっても大丈夫だよ。町のまとめ役なら私にだって立派に出来るさ」
テレジアの話を聞いたアンとジュリアは気まずそうに苦笑している。
元からアンはマティス同様に第十六都市の医療施設(※大学病院的な物)で知識と技術を学び、戦時中は軍医として活躍していた。
一方、二人の娘ジュリアは戦時中はエイリークたちの救護係として隊商”高原の羊たち”の活動していた経験がある。
単純に人を治した数を比べればアンとジュリアはマティスよりも多くの人間の命を救っていた。
マティスも真実を知らなかったわけではないのでガックリと肩を落とす。
その時、出発の準備が整ったセオドアとエリオットらが部屋の中に戻って来た。
どうやらテレジアの話を聞いていたらしくセオドアとエリオットは真っ先にマティスを慰めに行く。
エイリークとダグザも自信喪失して真っ白になってしまったマティスに慰めの言葉をかけていた。
「親父さん、しっかりしてくれよ。俺たちはいつでも親父さんの味方だからさ」
「マティス、貴方はいつも俺たちに言ってくれたじゃないか。”何度でも失敗していい。生きてさえいれば何度でもやり直せる”って」
セオドアの言葉を聞いてマティスは一度は瞳の輝きを取り戻したが、続くエリオットの言葉を聞いて再びガクッと落ち込んでしまった。
速人も医者を相手に”医療行為に失敗しても死ななきゃいいじゃん!”みたいな誉め言葉を贈るのはどうかと思った。
その後マティスは日頃の雑な医療行為を反省しながらエリオットたちと一緒に同行することを承知した。
「エイリーク、私も一緒に第十六都市に連れて行ってくれ。今でも親方の弱気な姿など想像できないが、それもメリッサさんが亡くなってしまっては仕方のないことなのかもしれない」
マティスは余所行き用のジャケットを羽織りながらエイリークに伝えた。
潤るみがちな目の端にはまだ涙の跡が残っている。
エイリークはマティスの頭に出来上がった大きなたん瘤(※シャツを破った罰としてアンに殴られた)を心配しながらスッキリとしない表情で答える。
「まあ爺ちゃんに関しては実際に俺も会ったわけじゃないから偉そうな事は言わないけどよ、アルやラッキーはおっちゃんが引っ越して結構気にしてたみたいだぜ?」
エイリークの言葉を聞いたマティスは図らずも動きを止めてしまう。
ベックの年代ではマティスは最年少だというのに何故かエイリークは彼の事を二十代の頃から「おじさん」と呼んでいた。
(今さらエイリークの事をどうこう言うつもりはないがアルの事は失念していた…。どうしよう、適当な口実を作ってアルには会わないように出来ないものか…)
マティスはアルフォンスに怒鳴られている自分の姿を想像して急にやる気を失ってしまった。
マティスにとってアルフォンスは頼りになる兄貴分だったが、いつも大声で怒鳴っているという先入観があった。
親友のベックでさえこれほど怒っているのだから、アルフォンスに至ってはその比ではないだろう。
「…マティ、念の為に言っておくが街に戻ったら下町の連中のところには顔を出してもらうからな。特にアルの親父さんやお袋さんがどれほどお前とアンの事を心配していたと思ってんだ。パンツの着替えの一つは用意しておけよ、全く…」
マティスが逃げ出さないようにとベックが釘を刺す。
アルフォンスの父親は死んでしまったマティスの父親の友人であり、前のサンライズヒルの町が無くなってしまった時には養ってもらった恩がある。
そして何よりもアルフォンスの父親の怒鳴り声は極太の肝っ玉を持つシャーリーでさえ逃げ出してしまうほどの声量があった。
マティスは当時を思い出して顔面蒼白になって震え出してしまう。
速人とレミーはアルフォンスの父親を知ってはいたが、いつも温厚な微笑を浮かべている顔しか知らなかったので今一つ要領を得ない。
アンは部屋に戻ってマティスのパンツの着替えを用意していた。
マティスはアンに礼を言ってからカバンを閉じると肩を落としながら出口に向かう。
ベックはソファから無言で立ち上がりマティスの後を追いかけて行った。
エイリークとマルグリットもジュリアたちに挨拶をしてから二人を追いかける。
ベックとマティスが二人きりなればまた喧嘩になるだろう。
「ええと…。エイリーク、マギー、ダグ兄。うちのお父さんの事、よろしくね?」
「おう、任せとけ。ジュリアも暇になったらガキどもと一緒に遊びに来てくれよな。いつでも歓迎するぜ、ソルかハンスの家で」
エイリークは親指を立てながら笑う。
ジュリアはエイリークの横柄な物言いに顔を引きつらせながらも彼の昔と変わらぬ姿に安堵していた。
一方、マルグリットはジュリアの娘たちの頭を撫でたり、抱っこしたりして再会の約束をしていた。
ダグザはマイケルたちにスウェンスの様子が落ち着いた後にサンライズヒルの町を尋ねる約束をしていた。
マイケルたちは”高原の羊たち”の仲間と再会できることを素直に喜んでいた。
エイリークは部屋を出る前にエリオットたちと話をしていたテレジアに声をかける。
「そういえばテリー。今ウチでヨトゥンのガキを預かっているんだけどよ」
「ああ。ディーとかいう萎びたリンゴいたいなガキだね。この前、そこの小さな悪魔と一緒に街に来ていたよ。そいつがどうかしたのかい?」
テレジアは孫の頭をクシャクシャと撫でながら答える。
エリオットの子供たちは少しでも長くテレジアに構ってもらおうと競っている。
テレジアの外見はかなり厳ついが一族の内部では人気者であり、特に子供たちから慕われていた。
エイリークは一度、速人を見てから質問を再開する。
当然のように速人はしっかりと聞き耳を立てていた。
「何かアイツ、メイクを取ったマイケルっつーかグリンフレイムに顔がそっくりなんだけどよ。もしかして知ってるヤツか?」
エイリークは凶悪メイクを落としたマイケルとディーの温和で整った顔立ちを思い浮かべる。
マイケルだけではない、よく考えてみるとディーの容姿の特徴はダイアナたちとも共通したものがあった。
だがそれ以上にエイリークはハガルの槍によって背後から心臓を貫かれ、絶命したグリンフレイムの顔を思い出していた。
テレジアは不機嫌な顔で舌打ちをした後、エイリークの質問に答える。
「ああ。あの子はね、死んだ私の旦那の双子の弟の子供だよ。前の戦でグリンと一緒に戦っていたフッケってヤツを覚えているかい?そいつの兄貴ってのがグリンフレイムの弟のフロストアンドコールドウィンドって男さ」




