第百八十話 涙を拭いて明日と向き合う
話を詰め込み過ぎて書くのがかなり遅れてしまいました。次回は十月九日に投稿する予定です。
その瞬間、部屋の中で時の流れが停止した。
速人は威圧的にセオドアとエリオットを見つめる。
真実を何も知らぬ童子たちに伝える、それが速人がセオドアたちに与えた罰だった。
事実を知らねば先へは進めない。また事実を知らないからこそ平然としていられる。
事実を知らない人間はどこまでも勇敢で闊達な弁舌をふるまう。
心の傷は目には見えないから、相手がどれほど苦しもうとお構いなしだ。
では仮に他者の苦しみが見えてしまったらどうなるか?…こうなるのが普通だ。
自由奔放なエイリークでさえ己の無力と向き合い、言葉を失っている。
彼は誰もが認める英雄だが決して無敵というわけではない。
祖父母、両親から背負わされた責務が彼を完全無欠な英雄に仕立て上げているだけだ。
「黙れよ。無関係なお前に俺の何がわかるんだよ…」
「逆だよ、エイリークさん。俺は無関係だから何でも言えるんだ。俺は知ってるぜ?メリッサさんが死ぬ少し前、マルグリットさんが初産で大変だったんだろ?だからメリッサさんはベックさんにレミーが生まれた後に自分が死んだ事を伝えてくれって頼んだんだ。俺の知った事じゃないけどね」
速人の一言でエイリークは言葉を失い、マルグリットは両手で顔を覆って咽び泣く。
時間が経過すれば記憶が薄れて忘却の彼方に消える。
悲しみはやがて消えて無くなる。
それは何と非情で、無責任な言葉なのだろうか。
少なくとも今のエイリークとマルグリットはその領域に達してはいなかった。
日毎にメリッサと過ごした平穏な日々を思い出し、肩を寄せ合っては涙を流す。
最愛の家族同然の人間を失った悲しみの前では力など無意味でしかない。
だが速人はセオドアたちをさらに追い詰める。
例え彼らに憎まれ、疎まれたとしても避けて通る事は出来ない道である。
「エリオットさん、これでわかっただろ?事態は一刻を争うんだ。スウェンスさんに会えるのは、これが本当に最後の最後かもしれない。自分のちっぽけなプライドとメリッサさんから受けた恩、どっちを取るつもりなんだ?」
エリオットはまだ顔を上げない。
いつの間にか、テーブルの上には彼の流した涙で小さな水溜まりが出来上がっていた。
エリオットは頭を何度も横に振り、その度に涙を流す。
いつか街に戻って感謝の意を伝えるつもりだった。
いつか、いつの日かと言っている間にメリッサの命の期限は容易く過ぎていた。
取り返しのつかないどころではない。
エリオットとセオドアを牢屋から出して街の外に逃がしてくれたメリッサの恩に報いる日は永遠に来ないのだ。
エリオットは口の端が血で滲むほど歯を噛み締めた。
「速人、スウェンは本当に生きる力を失ってしまったのか?彼はそんな苦難にも屈しなかった。マール伯父上が僕の父に殺された時も皆を支えてくれたんだ…。君は今のスウェンに会ったんだろう?見たままでいいから…教えてくれ」
速人は皮肉っぽい笑みを浮かべながら首を横に振った。
エリオットは初対面の時から精神的に幼い部分が目立つ人間だと思っていたが、彼は予想以上に成長できていない。
速人は短く息を吐いてから真実を伝える。
一緒に暮らしているエイリークとレミーでさえ聞いたことのない冷たい響きを持つ声だった。
「それは実際に自分で見て来いとしか言いようが無いかな。仮に俺が大丈夫だから心配する必要が無いって言ったら信用するのかい?」
速人は項垂れるエリオットを見下ろしながら以前に出会ったスウェンスの姿を思い浮かべる。
胸筋パンパンのマッチョ老人だった。ダグザの祖父というよりもエイリークの祖父と紹介した方が良いような姿をしていた。
(あれで身内に言わせると衰えているって言うんだから前の姿の方が気になるな、実際…)
速人が考えている間にエリオットは泣き出してしまった。
ジェナは悲哀に沈んでしまったエリオットの隣で何とか支えになろうと彼の手を握っている。
そして親の仇を見るような憎悪に満ちた視線を勇人に向ける。
「悪魔め、やはりお前は母様の言った通りのヤツだ。優しい言葉で私たちをぬか喜びさせておいて、最後は残酷な真実を告げて跡形も無く消えて行く。私たちが嘆き、苦しむ姿はもう十分に見ただろう!早くお前の故郷にエイリークとセオドアの魂を持って帰るがいい!」
ジェナは涙を流しながらエイリークとセオドアを人差し指でさす。
そしてジェナは悲しみに暮れるエリオットの頭を幼子を慰めるように撫でていた。
(エイリークはともかく何ゆえにそこまで嫌われているんだ、テオ…)
ダグザは青ざめた顔でエイリークとセオドアを見た。
この中でスウェンスの現状を知る者は速人とダグザしかいない。
否、孫であるダグザさえ一方的に距離を置くようになってしまった祖父スウェンスには気後れをして会いに行かなくなってしまった。
今のエリオットとセオドアとは何ら変わらない状態だろう。
二人を憐れんだダグザは彼らの共犯者として速人の前に立った。
「待ってくれ、速人。祖母の死の原因は戦争だ。少なくとも私たちはそう思っている。そしてテオ、エリオ。私は何日か前に速人と一緒に祖父に会いに行っているんだ。正直なところ今の祖父はお前たちの記憶の中にある祖父ではない。会えば後悔する事になるだろう。だがこれだけは察してくれ、祖父と祖母はお前たちを憎んでなどいない。…お前たちの無事だけを祈っている。そしてそれは今ここにいない他のみんなだって同じ気持ちだ…」
ダグザは最後に顔を手で覆う。
声を震わせ、涙が頬を濡らした。
速人は嘆息するとエリオットとセオドアに近づいて彼らの顔を見つめる。
二人は年甲斐もなく幼子のように泣いている。
否、より正確に言うとレミーと速人以外の人間は全員号泣していた。
「それでどうするのさ。まだプライドがとか、自分が許せないとか言っているつもりなの?俺は別にさ、街に永住しろとか言ってるわけじゃないんだよ。会ってちゃんと話をして、それで今後の身の振り方を考えた方がいいんじゃないの?」
セオドアは鼻をすすり、涙を拭いてから速人を見る。
迷うまでもない。今のセオドアにとって過去の過失など些細な問題だった。
あの時、メリッサとスウェンスから受けた恩を返す機会があるとすれば今しかないだろう。
街の住人、かつての友人たちが許してくれるあどと思ってもいない。
犯した罪の罰は全て受ける。その上で最低限の筋だけは通したかった。
「俺は第十六都市に行くよ。行ってみんなに謝る。誰に言われたからではない、自分の意志でそうするつもりだ。ジュリア、義母さん、俺は自分の意志でみんなのところに行ってくるからここで待っていてくれ」
全てを言い終えた時、セオドアの涙は止まっていた。
誰に言われたわけではない、自分で決めた事である。
同じ頃、エリオットもまら覚悟を決めていた。
自分が殺した父親の責任ではない。エイリークへの劣等感からでもない。
数多くの危険を顧みずメリッサとスウェンスは自分たちの為に手を差し伸べてくれた。
エリオットは涙を拭いてから速人の正面に立った。
彼の隣で手を握ってくれていたジェナは心配そうに夫の顔を見ていたが、エリオットは微笑を返して愛する妻の頭を撫でる。
思えばジェナが放浪の果てに死にかけたエリオットとセオドアを救ってくれた。
今のエリオットは一人ではない。
妻と子供たち、そして家族があってからこそのエリオットだった。
彼らの信頼に報いる為に、例え一族の掟に逆らうことになったとしてもやり遂げなければならぬ事がある。
エリオットはジェナの手を除けて、微笑かける。
ジェナは溢れる涙を拭いながら夫の決断を見守るのであった。
「速人、僕も第十六都市に行くよ。今やるべき事というものが分かった。”高原の羊”たちの仲間と別れるにしても黙って姿を隠す以外にも方法があったはずなんだ。だからは今度は絶対に間違えない…。今さら僕たちが出て行って何の役にも立たないかもしれないけど、せめてあの時のお礼を言いたい。皆にも謝りたい。でなければ僕はサンライズヒルで新しい人生をやり直すことも出来ない…」
十数年前、第十六都市を離れてから今までエリオットとセオドアに安息の時は訪れなかった。
逃亡の旅を続けている時も、テレジアの一族と行動を共にするようになってかたも、サンライズヒルの町で暮らすようになってからも過去の忌まわしい記憶が彼らを苦しめた。
エイリークたちの活躍を知った後も誇らしく思う反面、彼らの信頼を裏切ってしまった後ろめたさに苦しめられてきた。
エリオットは誰かに背中を押されなければ何も出来ない自分の弱さを心の底から厭う。
こうして速人がエイリークたちを連れてサンライズヒルの町に来なければ一生、第十六都市に出向くことにはならなかっただろう。
だがその決断は同時にテレジアの意志に叛くことにもなる。
今でもテレジアの一族、ヨトゥン巨人族は世界にとって忌むべき存在として迫害の対象となっているのだ。
「大丈夫。私はずっとエリオの側にいるから…」
ジェナはエリオットの心の内を察して再び彼の手を握り締めた。
仮に一族から追放されることになったとしてもエリオットと運命を共にするという意志表示である。
エリオットはセオドアとジェナの協力を得て千の味方を得た心地となる。
(例え義母の怒りを買う事のなったとしても、スウェンスとメリッサに恩返しする機会は今しかない。…斧で頭を割られたら傷が残るかな)
エリオットは決意を新たにテレジアに第十六都市に行く話をしようとした。
しかし、エリオットよりも先にテレジアがその話を始める。
「エリオット、私たちの事を心配する必要はない。一刻も早くスウェンスのところに行って顔を見せてやれ。そしてジェナ、お前もエリオと一緒に行ってくれないか?一族を代表してメリッサの弔い合戦をして欲しい。私たちはメリッサから数えきれないほど多くの恩を受けている。お前も忘れてはいないだろう」
テレジアは言い終わった後二人に向かって頭を下げる。
エリオットとジェナ、セオドアはテレジアの決断に感嘆の声を上げた。
やがて周囲の人間たちもテレジアの決断を称賛していく。
「ありがとうございます、義母上。本来なら俺は一族の為に我慢しなければならないのに…」
「気にするな、エリオ。今回の事は一生の恩を受けたと思ってくれるだけでいい。さて、小さな悪魔よ。これで全てがお前の思い通りになってしまったねえ」
テレジアは抱きついて感謝の意を伝えるジェナの頭を撫でながら速人を見た。
一方、速人は薄ら笑いをしながら首を縦に振る。
テレジアの言うようにエリオットとセオドアに情で訴えて言質を取るつもりだったのは最初から考えての事だった。
「ぎししっ‼テレジアさんにはかなわねえな、半分正解だよ。俺としてはもっとテレジアさんたちに反対されるかと思っていたんだけどね」
「フン、お前ごときに言われるまでもない。エリオとセオドアの事はずっと気になっていた事さ。だがお前も知っている通り私らは今でも世界中の嫌われ者、ここに滞在している事が明るみに出ればマティスや他の連中を巻き込む事になるかもしれない。我々が黙って出て行くっていう考えも無かったわけじゃないが、弱い連中を守ってやらなければならないし何よりも孫たちに過酷な流離いの旅をさせたくはなかたった。病気や飢えで身内が亡くなるのはもう御免さ」
テレジアは幼くして亡くなった我が子の顔を思い出しながら語る。
病で死んでしまったのは何も彼女の次男だけではない。
育ての親も、兄弟たちもひたすら過酷な旅の中で死んでしまった。
少なくともサンライズヒルの町で暮らすようになってからはまだ誰も死んではいない。
「良し、これで問題は全部解決だな。後は街に帰ってお茶会の準備をしようぜ!」
エイリークはエリオットとセオドアの手を取って早く出発するように言った。
子供の頃に戻ったように大喜びするエイリークを前に二人は苦笑しながら頷いた。
セオドアはアンとジュリアと子供たちに事情を説明し、数日間は家を空ける事を伝えた。
アンはマティスと一緒に医者の仕事もしているので当分は町から出る事は出来ない。ジュリアも両親と町の住人の手伝い、そして生まれて間もない子供がいるので家を空ける事は出来なかった。
ダイアナとマイケルはエリオットとセオドアとジェナの不在の間は町の全面的なサポートをすると約束してくれた。
エリオットたちはダイアナの申し出に対して最大限の感謝をして出発の準備を進める。
ジェナは三人の子供たちも第十六都市に連れて行くと言っていた。
ダグザとベックとマルグリットは満面の笑みを浮かべて歓迎する。
話の後、エリオットとジェナは子供たちを迎えにテレジアたちの住んでいる場所に向かった。
「エイリーク、ダグ、マギー。実はな、私はお前らに謝らなければなければならない事があるんだ…」
エリオットたちを見送った後、ベックは暗く沈んだ表情である秘密を打ち明ける。
それはメリッサの死についての話だった。
「エイリーク、お前がメリッサさんの訃報が届いたのは一年後くらいの話だろう。あれは私の仕業なんだ。あの頃はアムが生まれたばかりでケイティの健康状態も良くはなかった。私は自分の事情ばかり優先してわざと連絡を送らせてしまったんだ。謝っても許されることではないが、本当にすまないことをしたと思っている」
ベックは深々と頭を下げる。それは真心からの言葉だった。
だがエイリークは事も無げにベックの他愛ない嘘を見破ってしまう。
ベックが孫娘の誕生を喜び、娘の健康を心配するのは間違いないだろうが、その為に嘘をつくような男ではない。
「今さら何言ってんだよ、ベック。そういう話なら俺たちは共犯だぜ?あの頃はレミーが生まれたばっかでケイティよりもハニーの方がヤバかったからな。大体ベックとコレットで朝から晩まで看病してくれたじゃねえか。いくら俺様でもそんな大拙な事を忘れちゃいねえよ」
「そうそう。ダーリンの言う通りだよ、ベック。悪いのはアタシらみんなさ。戦争が終わって浮かれて舞い上がって大事な物は何も見えてなかったんだよ。だからさ、エリオたちと一緒に街に帰ったら婆ちゃんのお墓に行ってありがとうって言って来ようよ」
ベックはエイリークとマルグリットに慰められて泣き出してしまった。
二人が泣き崩れるベックの相手をしている間、速人の前にレミーとダグザが現れた。
ダグザはベックの方を見ながら速人とレミーにメリッサの遺言の話を始める。
「昔話になるが、私たちにお祖母さまの死が遅れて伝わって来たのはベックの責任ではない。お祖母さまが死ぬ前に頼んだからだそうだ。ついこの間、母上から聞かされたよ。ベックはいつも自分の責任にして一人で抱えてしまうんだ」
ダグザは悲しみを含んだ笑顔を浮かべる。
速人とレミーは苦笑しながら荷物をまとめて帰る準備を始めた。
そろそろ町を出発しなければ夕方になる前に第十六都市に辿り着くことは出来なくなってしまうだろう。
速人が居間に残っているテレジアたちに挨拶をしていると扉を開けて泣き腫らした顔のマティス町長が現れた。
マティスは部屋に入った直後、作業着とシャツを破いて絶叫する。
「そ、そんなッ‼メリッサさんが死んでいたなんて…ッ‼ぐあああああああああああーーーッ‼私はなんて大馬鹿野郎なんだああ‼私の馬鹿‼私の馬鹿‼私の馬鹿‼うおおおおおーーーッ‼」
上半身をはだけたマティスは床に向かって頭を何度も打ちつける。
(可哀想だけど。すごく五月蠅い…)
その不毛すぎる光景に速人はかつてない危機を覚えるのであった。




