第百七十七話 テレジアとの交渉
調子に乗って書いているうちにまた遅くなってしまいました。すいません。次回は九月十七日くらいになります。
「テオ…」
エイリークはセオドアの瞳を見つめながら一歩だけ距離を縮める。
二人が第十六都市を離れてから十数年、色々な出来事があった。
エイリークも”もしもこの場にセオドアとエリオットがいてくれればどれほど心強かったか…”と思った時もたくさんあった。
だがそれはエリオットとセオドアたちも同じだろう。
生まれた時から都市の中で育った彼らが外で暮らすということは過酷な試練であることには違いない。
「握手からやり直そうぜ」
エイリークはそっとセオドアに右手を出して仲直りの握手を求める。
次の瞬間、セオドアは些かの躊躇いも無しにエイリークに向かって両手を出した。
エイリークは再会の感動の涙を流しながらセオドアの両手を取った。そして両足で彼の右肩を挟んで、手首から腕をしっかりと極める。
エイリークはそのまま背中から身体を地面につけてセオドアを巻き込みながら一回転。
ここに模範的な回転式腕十字固めが完成する。
セオドアは自分の右肘の可動部と下腕骨に代わって悲鳴をあげる。
エイリークはタップが聞こえても関節技を解くことは無かった。
「いででででッ‼止めてくれ、エイリーク‼ここは再会のハグとかそういう場面じゃないのかよ‼折れる、折れる、折れるーッッ‼」
「うるせえ、このヘタレが‼テメエは子分の分際でいっつも俺様に迷惑をかけやがって‼」
ゴロリ。
エイリークはセオドアが声を出せないように半回転する。
エイリークの身体と自分の腕のせいでセオドアの口は塞がれてしまった。
その後、セオドアは何度も床を叩いて妻や娘たちに助けを求めたが意識を失うまで誰も気がつくことは無かった。
(何の役にも立たない男だが、こうなっては憐れだな)
速人は口から泡を吹きながら気を失っているセオドアの上半身を起こして両肩を抑えて”喝”を入れる。
セオドアは身体をビクッと震わせた後、意識を取り戻した。
速人はセオドアを抱き抱えて空いているソファに運んだ。
「速人君、ごめんなさいね。うちの亭主ったらエイリークと会うといつも遊んでばかりで…。テオもお礼を言わないと駄目よ?」
速人は手持ちのハンカチでセオドアの口元についている泡を拭いながら頷いた。
セオドアは「面目ない」と冷や汗をかきながら苦笑している。
(これが飼い殺しにされたリュカオン族の末路か…)
やがてセオドアの様子が落ち着いた頃にエイリークとマルグリットがソファの近くまでやって来る。
セオドアは小さな悲鳴を上げると速人の後ろに隠れてしまった。
もう彼には自分の家にも速人以外の味方はいない。
この時、速人は”結婚は必ずしも人生の正解にはなり得ない”という言葉を心の中に刻んでいた。
「テオ、お前今までどこに行ってたんだよ。俺ら、ずっと探していたんだぞ。全く、いなくなるならせめて別れの挨拶くらいしろっての」
「そうさね。ダーリンもアタシも他のみんなも、アンタとエリオがいなくなってからずっと探してたんだよ?」
気がつくとエイリークとマルグリットは両目に涙を浮かべている。
十数年の空隙。セオドアとエリオットも覚悟の末の決断だと考えている。
しかし、セオドアは再会した二人の姿を目の前にしては何も言わずにエイリークたちの前から姿を消したことに後ろめたさを覚えた。
同時に(関節技より、そっちが先だろ)と心の中でツッコミを入れる。
セオドアは速人の手を借りてソファから身を起こした。
右腕というか右半身がジンジンと痛んだが、セオドアはエイリークたちに対する罪悪感に比べればかすり傷程度のものだった。
何しろセオドアは十数年前に第十六都市を出奔して以来、幾度となく悪夢ぬうなされていたのである。
セオドアは大きく頭を振って謝罪の言葉を述べる。
「すまなかった。エイリーク、マギー、ダグ、ベック。あの時、俺は自分の事しか考えていなかった。俺の親父やエリオの親父でお前たちに憎まれるのが恐かったから町から逃げ出したんだ。エリオはああいう性格だから俺につき合ってくれただけなんだ。全部悪いのは俺だ。…今さら許してくれとは言わない。罪は全て償う覚悟だ」
セオドアは腹の底から全てをぶちまける。それは嘘偽りの無い真心からの言葉だった。
セオドアはそう言いながら当時を思い出して感情のままに目から涙を流している。
エイリークの父マールティネスの死。
エリオットがマールを殺害した父アストライオスを殺してしまった事。
そして自分の父親が町に火を放って逃亡した事。
悲劇の数々はセオドアが命がけで行動すれば未然に防げたかもしれない。
だがあの時セオドアは自分が傷つく事だけを恐れて何もしなかった。
セオドアの人生経験が足りなかったから、若いセオドアの能力ではどうしようもない事件だったから、と言いわけを考えれば数えきれない。
エリオットとの放浪生活の中で過去を全て忘れてやり直そうと思ったこともあった。
しかし、そう考える度に自分一人だけが何もせずに責任を放棄したという罪悪感がセオドアを苛む。
「昔の事は気にするなよ。特に俺の親父が死んじまった事は尚更だぜ?もし親父がテオが自分のせいで街を出て行ったなんて知ったらそっちの方が悲しむってもんだ。なあ、ハニー?」
「うんうん。マールはさ、きっとアンタの事も家族っていうか息子みたいに考えていたよ。だからさ、そんな風に自分だけを責めないで昔みたいに仲良くしようよ」
エイリークはセオドアの頭を撫でる。
お互い中年になってしまったが、エイリークとセオドアが友人であることには変わらない。
エイリークはセオドアの髪の毛を撫でながら彼が今までどれほどの孤独と罪悪感を抱えていたかを痛感する。
セオドアはエイリークの大きな手から互いの変わらぬ友情を感じて大粒の涙を流していた。
「マギー…。エイリーク…。どうしてお前らは…俺みたいなクズにそんなに優しくしてくれるんだよ…」
エイリークはセオドアの嗚咽の交じった謝罪を聞いて頬を赤くする。
ふと周囲を見ればマルグリットとジュリアは生暖かい視線で二人を見ていた。
レミーとダグザは二人の邪魔をしないように視線を外してくれている。
テレジアは大きく溜め息をつきながら、十数年前に放浪中のセオドアとエリオットを拾った事が失敗では無かったと考えていた。
その中で速人だけが念願の再会を果たした二人に冷たい視線を送る。
これで二人の中は氷解したのではない。
さらに互いの心の中に踏み込めなくなってしまったのだ。
速人は感動の対面から故意に外れて追加のお茶を用意する。
思ったよりも滞在時間が長くなるかもしれない。
「ははは…。ダールにもよく詰めが甘いって怒られるけどよ。こればっかは生まれ持ったものだから仕方ねえよ。俺には昔の事よりもお前らがいない事の方が辛い、それだけさ」
セオドアはエイリークの言葉を聞いた直後に泣き崩れてしまった。
エイリークが号泣するセオドアの扱いに困まっているとジュリアが娘たちを連れて二人の前に現れる。
幼い娘たちはセオドアとエイリークの姿を不思議そうに見つめていた。
「ねえ、テオ。いい加減、子供たちの前で泣くのは止して頂戴。この子たち、さっきから何が起こっているか全然わからなくて驚いてばかりなんだから」
「えっ⁉…そりゃあ困ったな。おい、エイリーク。お前からも何とか言ってくれよ。このままじゃ俺のあだ名が”泣き虫父さん”になっちまうよ。トホホ…」
ジュリアは少しだけ怒っているような口調でセオドアに話しかけた。
その一方でセオドアは娘たちの前で泣いてしまった事に気がついて動揺していた。
自分の娘たちも将来的にはジュリアのように父親を恐れない女性になるのだろうが今はまだ早すぎるというものだ。
セオドアは父親の威厳を取り戻す為すぐに涙を拭いて咳払いをする。
彼の義父にあたるマティスも同じような誤魔化し方をしていたのでエイリークたちは思わず拭いてしまう。
こうして家族からの評価を落としてしまったセオドアはソファに座ってから一言も話さなくなってしまった。
むしろ今は口を開けばその分だけ損をする気さえする。
速人はセオドアの前に現れ、テーブルの上にお茶を置いた。
セオドアは気を取り直してティーカップを手に取り、お茶をすする。
セオドアの娘たちは父親の安全を確認すると、アンとテレジアの前に戻った。
「…しかしテオよ、正直俺は引いたぜ?ジュリアにあんなにたくさんの子供(※現在五人)を産ませるなんて…。どんな変態プレイを強要したんだよ。良し、お前には鬼畜の称号を進呈しよう」
「アタシも母親としての立場から言わせてもらうけど、いっぱい作り過ぎさね。…もうアンタの目には女は子供を産む道具とか、自分の性欲を満たす為の動物としか見えていないんじゃないの?」
エイリークとマルグリットはジュリアと彼女の娘たちを見ながらセオドアを罵倒する。
二人の視線には明確な侮蔑の意志が込められていた。
セオドアはベックとダグザにフォローを入れてもらおうと懇願するように彼らを見たが、二人は視線を合わせないようにしていた。
「安心しな、テオ。アタシは八人、生んだけどこれっぽっちも困ってなんかいないさ。むしろアンタの代わりはたくさんいるんだからいつ死んだっていいよ」
テレジアがベックとダグザに代わって微妙なフォローを入れてくれた。
事実、彼女は夫グリンフレイムとの間に八人の子供を儲けている。
そのうち一人は流行り病で亡くなってしまったが気に病んだ事は無い。
テレジアに言わせれば”死んだ息子は最後まで生きる事を望み、運命に抗って死んだ”らしい。
彼女の主観によれば応援したつもりだが、逆にセオドアは背負いきれないような重りを乗せられた気分になっていた。
どんよりとした表情で薄ら笑いを浮かべている。
そしてセオドアが意気消沈している間に、マティスの家に新たな来訪者たちがやって来る。
それは町の入り口近くで別れたマイケルたちとエリオットだった。
速人が彼らの話を聞いた限りではエリオットは町に戻る前に一度、農場を回っていたらしい。
彼らの中にカッツらが加わっている。
カッツは速人の姿を見つけると嬉しそうな顔をしていた。
「エイリーク、遅くなってごめんよ。帰りの道で農場の方を回ったら時間がかかってしまってね。最近は人が多くなった分だけ心配事が増えてね」
癒し系の大男マイケルは片目を瞑りながら微笑んだ。
結局、彼はメイクを落としたままエリオットたちを迎えに行ったわけだが偶然鉢合わせた母親の逆鱗に触れるとは夢にも思わなかったらしい。
テレジアは収穫期の麦の穂を刈るように次々とマイケルたちをなぎ倒し、茶菓子を全て食らった。
速人はベックにマイケルたちの介護を任せるとテレジアのところにウサギの形に切ったリンゴを持って行った。
テレジアは悪態をつきながらフォークを使ってリンゴを食べている。
ウサギの姿を見てから口の中に運んでいる事から切り方が気に入っているのは間違いない様子だった。
(テレジアさんにも可愛いところがあるじゃないか。くっくっく…)
速人は心の中で冷笑していた。
「このクソ息子が…。外でメイクを取るなとあれほど子供の頃から言っているというのに…。次にやったら明日の洗濯は全部お前にやってもらうからな、マイケル」
マイケルは首を何度も縦に振る。
ぶん殴られた彼の左頬は真っ赤になって腫れあがり、口の端から血が流れていた。
ちなみにマイケルの後ろに立っていたカッツは下敷きになって気絶している。
直撃を受けていないのでダメージは少ないだろうが心理的外傷になる可能性は少なくない。
サンライズヒルがテレジアの軍門に下る日もうそう遠くはないだろう。
「エイリーク…、その久しぶりだな」
エリオットは器用にマイケルたちを避けて歩きながらエイリークの目の前に到達した。
夫の身を案じたジェナはすぐに彼の傍らまで駆け寄る。
エイリークは何故か旧友に対抗意識を燃やし、マルグリットとレミーを呼びつけて三人で腕を組んでいた。
(今の展開でどこにその必要性を感じた…ッ‼)
速人は肩を震わせながらティーカップにお茶を注いでいた。
「…。さっきテオにも言ったんだけどよ、これでも必死にお前らを捜したつもりだったんだぜ。まさかサンライズヒルにいるとは思わなかったよ。ハッ、俺様も全知全能じゃなかったわけだ」
エイリークは肩をすくめて両手を投げ出す。
その時マルグリットだけは目を輝かせてエイリークのイケメンぶりに心酔していたが、彼らを除く部屋の中にいた全員は”お前が全知全能じゃないことは良く知っている”と思っていた。
エリオットはエイリークの言葉に動揺して、わずかに表情を曇らせる。
今さら言うまでもないがエリオットは天然属性であり、エイリークの遠い親戚にあたる人間だった。
エリオットは目のあたりで切りそろえた前髪を触りながら話を続けた。
「こっちもお前らに見つからないように手を尽くしたからな。旅の道中で俺の親父を恨んでいる連中に襲われたし、おかげで義母上にも迷惑をかけてしまった。サンライズヒルでマティス医師に会わなければさらに遠い場所に行っていただろう…。迷惑をかけてすまない」
エリオットは話を終わらせると爽やかな笑みを浮かべながら拳を握り、両手を差し出した。
エイリークとマルグリットは大慌てでエリオットの手を引っ込めさせる。
今日はエリオットとセオドアを連行する為にサンライズヒルにやってきたわけではないのだ。
エリオットは意固地な性格であった為に逮捕しにきたわけではないということを説明する為にしばらくの時間を費やすことになった。
「我々は別にお前とテオを連行する為に来たわけではない。…そろそろ理解してくれ、エリオット」
ダグザは額に浮いた汗をハンカチで拭いながら相変わらず難しい顔をしているエリオットの表情を窺った。
彼の隣にいるジェナも口添えしてくれてはいるが一向に効果が出ているようには見えない。エリオットは両腕を組んで首を横に振るばかりだった。
「ダグ、お前にはさんざん世話になってばかりだがこれだけは譲るわけにはいかない。俺は町に行って然るべき裁きを受けて来るよ」
「エリオ、お前はそこで話を戻すなよッ‼この石頭ッッ‼」
エイリークはエリオットの二つある三つ編みのお下げを掴んで彼の首を絞める。
しかし、エリオットは自身の顔が真っ青になるまで喉を圧迫されても”これ以上罪を重ねるわけにはいかない”と言って周囲の意見を聞かなかった。
そこに速人が現れてお茶のお代わりを用意する。
「速人…。来ていたなら言ってくれれば良かったのに…」
エリオットは目を瞬かせながら速人を見ている。
どうやら本当に今の今まで速人の存在に気がつかなったらしい。
エイリークは親友を速人に取られたような気がして悪態をつくようになっていた。
「いや俺は最初から部屋にいたよ。それより俺が町に新しい住人を連れてきたばかりに結構迷惑をかけちゃったみたいだね、ゴメン。エリオットさん、お砂糖はいるの?」
「ああ。僕は熱いのと苦いのが嫌いでね。出来るなら湯気が出なくなるまで冷ましてから思い切り甘くしてさらにミルクを入れたお茶にしてくれ」
速人は苦笑しながら注文通りのお茶を用意した。
エリオットは速人からティーカップを受け取ると嬉しそうにお茶を飲んでいる。
その姿をニンマリと笑いながらジェナが見つめていた。
ダンッ‼
エリオットの帰還によって場の空気が落ち着いたところでテレジアが勢い良くカップをテーブルの上に置いた。そして速人を睨みつける。
「小さな悪魔よ。お前の目論見通りに役者は揃ったんだ。そろそろ本題に入らせてもらうよ。そして私にもエリオットと同じヤツを」
「了解」と速人は短く返答するとテレジアのカップに砂糖大目のミルクティーを入れた。
テレジアは速人から奪い取るようにカップを受け取ると一気に飲み干す。
その後、ダグザとマルグリットとジェナから同様の注文が入った。
「私は正直なところエリオットもセオドアもどうでもいいんだ。孫も生まれたんだしね。問題はその次さ。セオドアの言っていた山ほど大きな羊肉、まずはそれを分けてもらおうじゃないか。まだ残っているんだろう?」
テレジアは唇についているミルクティーの雫をペロリと舐めた。
(困った…マルコの肉(※羊の名前です)はもう無いんだよな。ラッキーさんのところで羊の肉を注文して、それを焼いて持って行ったら納得してくれるかな…)
速人はテレジアとの交渉を有利に進める為に作戦を練るとすぐに行動に移った。
だが速人が嫌らしい愛想笑いを浮かべて適当な言いわけをする前にマルグリットが本当の事を話してしまった。
「実は羊の肉の話なんだけどさ。ごめんね、テリー。前にみんなで集まってパーティーをやった時に食べちゃったんだよ。あの時はダールのお誕生会(※マルグリットの勘違い。正確にはダールの慰労会)だったから人数も多くってさ。次はテリーたちも招待するから今回はアタシに免じて許し欲しいのさね」
マルグリットはテレジアに向かって頭を下げる。
普段は陽気で細かい事を気にしない性格のマルグリットだったが自分の失敗は素直に認めるという懐の深さを持った女傑だった。
しかし皆の予想に反してテレジアはマルグリットの謝罪を聞いた直後にその場で時が止まったかのように動かなくなってしまった。
母親の異変に気がついたマイケルとジェナが様子を見に行ったが、テレジアは視線を彷徨わせながら何かを呟くだけだった。
「馬鹿な…。このアタシといた事が…ッ‼羊の話はてっきりセオドアが苦し紛れについた嘘だと思っていたのに…」
テレジアはそこまで言ってから歯が砕けそうになるほど思い切り噛み締めた。
話の内容が具体性を帯びたところでマイケルとジェナは左右に別れ、テレジアとセオドアの間に一直線の道が出来上がる。




