プロローグ 20 武道の試練
次回は9月17日に投稿します。
速人は絶壁を滑るように降下する。
真下には濃厚な殺気の渦と天を衝くような巨躯が待ち構えていた。
爛々と輝く真紅の双眸は速人の姿形をはっきりと捉えていた。そして、怪物は細い唸り声があげる。それはまるで速人に対して「ただでは殺さぬ」と言っているかのように聞こえた。
速人はヌンチャクを軽く振り回し、巨大な怪物を見据えた。
なるほど。思ったよりも大きい。
速人はヌンチャクを左から右に持ち替えてさらに振り回した。あたかもボクサーが体を上下左右に揺らして動きを読ませないようにしているようにも見える。敵の攻撃に対してカウンターを合わせられないような相手など恐れるに足らないというものだ。
大喰らいとの距離をじわじわと詰める。大喰らいは今にも獲物に食らいついて来そうな様子だ。
そうだ。まずお前から仕掛けて来い。
絶えず動き続けるヌンチャクを片手に速人は笑う。自然と獲物を前の飢えた獣のように牙を剥き、次の逃走の瞬間まで息を止める。
魔獣の端まで裂けた口から涎が滴る。大喰らいは鋭い突きを繰り出した。
巨躯に似合わぬ神速の奇襲。これを見てから躱すことは決して容易ではないだろう。
速人は後方に下がりつつヌンチャクを振り回し、これを外に弾き飛ばす。
あくまで理屈のでの話になるが、この時点までは速人と大喰らいは互角の勝負を演じていた。
だが、天と地ほどもある体格差が無敵のヌンチャク殺法を穿ったのである。
大喰らいの剛腕が放った一撃は速人の身体を空中に弾き飛ばしたのだ。
大喰らいはこの時まで己の勝利を疑わなかった。
この時までは。
大喰らいのような怪物にも身体の大きさが勝敗を決するという理屈を本能で悟っていた。
しかし、一瞬の油断によって大喰らいが片目を失ってしまったのも事実。攻撃を受け、弾かれながらも速人が撃った石礫が大喰らいの右目に突き刺さっていた。
速人は大喰らいを崖から引き離すように反対側の位置まで移動する。
どこかの骨が確実に砕けていたが、そんなことは微塵にも外に出すことはない。
そして、すぐにでも動けるよう骨折したと思われる部位は補完するようなイメージを送り込んで精神的な応急処置を計った。
次の瞬間、大喰らいと目が合った。
下から迫る殺気、その正体はトゲのような体毛に覆われた大喰らいの剛腕だった。
魔獣の暴力性だけを前に押し出したようなケダモノとは思えないようなショートアッパー。
速人は瞬時に着弾地点を見抜き、圏内から逃れる。魔獣の爪牙を銃器のそれに例えたことは過大評価とは思わない。極度の緊張状態にある速人の五感が訴えていたのだ。
「その動き。想定内だ」
首筋のあたりがヒヤリとする。また、命を拾ったのだ。速人は間一髪の差で回避をした。
極めて早く、重い一撃だったが軌道が単純なので読み切ることは容易かった。
白い息を吐きながら大喰らいは攻撃を続ける。
大喰らいの方は優勢が続いているにも関わらず、どこか苦しそうにも見える。
当然の展開だ。
そもそも大喰らいとは水中でしか生活できない生物なのだ。運動能力の減退、体力の極端な消耗といった具合に地上での行動には多くのリスクがつきまとう。
速人は装甲の比較的薄そうな部分を狙った。脇、腹、手足の関節部に鋭くヌンチャクを当てる。
攻撃する度に弾き返される。手応えというものがない。普通の刀剣の類が通用しないとは聞いていたが、噂に違わぬ硬度である。
敵に背中を向けてヌンチャクを大きく回した。
左足を軸にして、一気に反転する。そして、さらに二回転。速人は魔獣の猛威をくぐり抜け、波打つ足場をものともせずに絶妙な運足を用いて死角に回り込んだ。
狙いはいまだ健在の左目。移動しながら回転を続けることにより速人のヌンチャクは破壊力を増していた。旋風と化したヌンチャクが大喰らいの顔左半分に迫る。
「グルゥゥゥ!!グワァァァァ!!!」
大喰らいもまた全身に捻りを加えて反撃を試みる。全身を半回転させながら裏拳を放ったとでも言うべきか。
速人は大喰らいの野生と闘争本能に惜しみない称賛を禁じえない。
だが、これは生死を賭けた戦いなのだ。速人はさらに旋回して大喰らいの反撃を回避する。
最初からいくつもの罠が張ってあった。怯むことを知らぬ獣の性、その獰猛な本性につけ込んだのだ。
「悪く思うなよ」
大喰らいの頭にある熊の耳に似た器官。これは耳ではなく、スタンから角のような突起物だと聞かされていた。そして実の耳の働きを担う部分は偽耳よりもやや下に位置することも知っていた。
光を奪い、次に音を奪う。敵に全力を出させない弱者の戦法。
次の瞬間、棍が大喰らいの側頭部にある小さな穴に打ち込まれる。螺旋の衝撃が孔内まんべんなく伝導し、鼓膜を引き裂いた。速人のヌンチャクの一撃が大喰らいの聴覚器官を破壊したのだ。
地面に魔獣の黒ずんだ青い血が滴り落ちる。
「ギョオアアアアアアアアアーーーーッッ!!!」
視覚と聴覚の一部を失い、大喰らいは絶叫する。野生の本能に頼るまでもなく後退する。あふれ出した河水を利用して離脱。しかし、獲物を見逃すという考えは毛頭ない。
頭部を身体の奥に引っ込めて素早く転進する。大喰らいが地面を激しく引っ掻いたせいで砂地に大きな溝が出来てしまった。程無くして溝に水が流れ込み、河川と合流する。
大喰らいが移動するには十分な土壌と化していた。速人は舌打ちをする。退路は断たれたに等しい。
大喰らいが動き回ったせいで陸地の面積が減少してしまった。
もしもこの場で大喰らいを止めなければ、レミーたちが逃げ切ったとしても追いつかれる可能性が出てくる。ヌンチャクの破損もかなり進行している。
速人はだからどうした、と迷いをふり切った。
生死の際に追い詰められたが故に、あの男の背中を思い出したのだ。
「速人。ヌンチャクの未来、貴様に任せたぞ。今日からお前がヌンチャクだ」
その言葉を思い出し、速人は両手を突き出し、ヌンチャクを左右に引っ張った。
我が身は盾。力なき者を守る、生き盾。この先は一歩も通さぬ。
ヌンチャクを振り回す。激しく。時に静かに、揺らめく炎のように繋がれた二本の棍を速人は自在に振り回した。川の水に浸かることで冷静さを取り戻した大喰らいが再び水中から姿を現した。
「あいつ、何やってんだよ。気持ち悪りィ……」
崖の上ではレミーたちが速人と大喰らいの戦いを見守っていた。
アインとシエラが大喰らいの魔力が込められた咆哮を直接聞いてしまった為に身動きできなくなってしまったのだ。
今はとりあえず休ませているが回復する様子が無い。
しかし、崖の下ではさらに途方も無い状態になっていた。ちんちくりんの速人が建物ほどの背丈の怪物と互角に戦っているのである。レミーは逃げることを忘れて戦いを見入っていた。
「お姉ちゃん。速人は?」
アインの声だ。いつもより元気がない。レミーとは違って魔力への耐性を持たないアインとシエラが大喰らいの咆哮をまともに受けたのだ。しばらく金縛り状態になったとしても仕方ない。
今までレミーはアインをただの鈍い足手まといだと思っていたが、同行させる以上はアインが一人になったとしても生還できるくらいの実力が必要なことがわかった。
これからは自分の弟にふさわしい実力がつくまで鍛えてやろう、と考えを改める。(←アイン死亡フラグ)
呆れた表情でレミーは黙って下を指さす。アインとシエラは顔を見合わせた後、崖の上から速人の姿を覗き込んだ。
速人が湿地帯の上で戦っている。大喰らいは立ち上がり、巨体に見合った腕を縦横無尽に振り回していた。対して速人は身体をステップを刻みながら一撃受ければ致命傷になりかねない爪を避ける。
大喰らいはまんまと水辺から引き離される。
速人は大喰らいの攻撃を回避しながら、巧みに壁際に誘導した。
「ここだ。ここを狙え。うまく当てたらお前のエサになってやるから」
速人は心臓に向けて親指を立てる。
大喰らいは溜め込んだ怒りよろしく白い息を口から吐き出す。
何でそんな危ない真似を。
レミーたちはげんなりとした顔で一部始終を見ていた。速人は舌を舐めずり大喰らいの攻撃を待った。
「ガアァッッ!!」
痺れを切らせた大喰らいが両腕を上げて飛びかかる。辺り一面に水飛沫が飛び散り、速人と怪物の姿が一瞬見えなくなってしまった。
まずい。また怪物の攻撃が壁に当たる!
「アイン!シエラ!こっち来い!」
レミーは衝撃に備えてアインとシエラの肩を抱いて身を潜めようとする。目を閉じてその時を待った。いつまで経っても地面が揺れる気配がない。怪物の攻撃は岩壁に当たることはなく、杞憂に終わった。
レミーはすぐに下の様子を確認する。何が起こているのか気になって仕方がなかった。
アインたちもレミーと一緒に真下を覗き込んだ。そして、直後に後悔した。速人がヌンチャクを繋ぐ太い紐の部分で大喰らいの爪を受け止めていたのである。
水浸しになっていた地面にはいくつもの波紋が生じていた。
「見たか!これが俺のヌンチャク奥義、硬気功だッ!貴様の邪悪な意志に満ちた攻撃など、俺のヌンチャクの前では無力に等しいのだ!」
小さな子供が軽トラックの暴走を受け止めたような構図になっていた。
勝利を確信した速人はニヤリと笑う。だが勝ち誇ってはいるが、実際かなり無理をしていた。
目の中の毛細血管が切れて真っ赤になっていたし、歯を食い縛り過ぎて歯茎から血が出ている。
要の硬気功とて映画でやっているのを見たことがあるだけで、実戦に投入できるような代物ではない。というか硬気功にこんな性能はない。
「「んなわけあるかッ!!!」」
目の前の非常識すぎる光景を目の当たりにしたレミーは突っ込んでしまった。
一方、エネルギーを使い果たして仙界から速人の姿を見守っていた雷震子も同様に突っ込んでいた。
おそらく中国拳法の達人たちもこの場面に出くわしたら同じような対応をしていただろう。




