第百七十一話 エイリーク伝説(少年時代編)
次回は八月の十二日くらいに投稿します。少しでも涼しくなっていますやうに…。
ダンッ!ダンッ!
またダイアナの妹たちがエイリークの手によって地面に転がされた。
「ひいっ!」
姉妹たちの中で素早さに定評があるミネルヴァは大地を蹴って逃げ出そうとしたが、エイリークは彼女に先回りをして顔を掴んで持ち上げた。
ミネルヴァはヨトゥン巨人族とは別の種族の出身だが、テレジアの一族の中では背丈が高い部類に入る。
言ってみればエイリークよりも背の高い女性だった。この場合はそれが気に入らなかった。
エイリークは目を血走らせて恐怖のあまり話せなくなってしまったミネルヴァを恫喝する。
「テメコラ…よく見ればテリーのところのミネ公じゃねえか。よくも俺様への恩を忘れて俺様よりもデカくなりやがって…。このまま上下から圧力加えてペチャンコにしてやろうか?ああンッ‼」
ミネルヴァは自分には悪意がない事を必死に訴えようとするがエイリークの握力がそれを許さない。
そこでアイアンクローを外そうと手を伸ばすが、先にアイアンクローの威力で脳に酸素が回らなくなってしまい意識を失ってしまう。
バタバタバタ!…ピタッ。
ミネルヴァ、戦闘不能。
「ミネルヴァー!」
ダイアナの妹たちの中で指折りの剛の者であるミネルヴァが倒れて、ダイアナとトリシュが悲鳴を上げる。
エイリークは「けっ、手間取らせやがって…」と毒づくとミネルヴァの身体を地面に落とした。
間一髪の差でベックが間に合い、ミネルヴァは着地寸前で抱き止められた。
作者からくれぐれも言っておくが気絶した人間を雑に投げてはいけない。
人間は意識を失うと容易に骨折してしまうのだ。
エイリークはミネルヴァの様子を気にすることもなく残った二匹の獲物のもとに赴く。
彼にとっては基本的にマルグリット以外の人間は女性あつかいされることはない。
娘のレミーでさえイライラしている時には頭突きをかます事もあるほどだった。
「お前らがブス軍団がこの先どんな生活を送ろうと俺には関係ねえ。つうか子分が俺様に対する造反しようなんぞと考えているだけで万死に値するんだよ。アイアンクローとジャイアントスイング、どっちがいいんだ?選ばせてやんよ」
「待て、エイリーク!いきなり町にやって来たのはお前の方だろう!少しは私の話を聞いたらどうなん…ぐわッ⁉」
「この乱暴者め。何十年経とうとお前の性格はガキの頃の…ママ助けてッ⁉」
エイリークはダイアナとトリシュの顔面にアイアンクローを決める。
(さて一体どうしてやろうか。二人をぶん回した後に頭をぶつけてやるのも面白いな…)
エイリークはバスケットボールのように背の高い女戦士二人の顔を掴んでぶん回した。
そこにウォーミングアップを終えた速人が現れる。
エイリークは速人の放つ殺気に反応して攻城兵器のようにダイアナとトリシュを投射した。
速人はダイアナとトリシュを受け止めて地面に置く。
ひゅっ!
エイリークは間一髪の差で速人に向かってストンピングを仕掛ける。
先ほどダイアナとトリシュを投げる際には速人がキャッチし易いように速度を落とした。
キャッチと同時に踵を叩き込むという選択肢もあったがそれではお気に入りの靴がブスの血で汚れる可能性がある。
ゆえに速人が威力を殺してブス共(※ダイアナとトリシュの事)をキャッチした後、ガードがギリギリ間に合わないタイミングでエイリークは攻撃を仕掛けた。
そしてエイリークにとってマルグリット以外の女性は(※娘のレミーも含める)どうなろうと知ったこっちゃないブスだった。
「日頃の恨みここで晴らしてくれるぜええええッ‼エイリーク・エレガント・ヒール・スマッシャー‼オラオラオラオラオラーッッ‼」
ガスガスガスガスッ‼
エイリークは速人のガードが上がる前に連続して上半身を踏みつけた。
速人は顔面と両腕、そして胸板を使って強烈なストンピングを受け止める。
(自分の半分くらいしか身長がない子供を相手にここまでやるか…?)
ダイアナは速人に守られながらエイリークという人間の底知れぬ器の小ささに驚愕していた。
速人はエイリークのストンピングの嵐を防御しながら彼の呼吸音を聞いていた。
まず純粋な力比べや反射速度の勝負ともなればエイリークに勝てる人間などまず存在しない。
エイリークは十全を備えた戦士である。
しかし、心音と呼吸と血流だけは身体能力の高さが不利に働く場合がある。
これらの要素のリズムが読まれた場合、どこまで我慢すれば良いのかを容易に予測することが可能なのだ。
そして次の瞬間エイリークの呼気のリズムの強弱が乱れ始めた。
「マズイさね。今の無茶な追撃でダーリンの負けが確定しちまったよ…」
速人はエイリークのストンピングを完全に受け止めた。
さらに追撃するが押し込める事は出来ない。
速人は筋肉を引き絞り両腕を固めて徐々に前進する。
その姿は大きな盾で己の身を隠し、戦車に乗った敵の攻撃を防ぎ続けた古代ギリシャ時代の重装歩兵に似ていた。
(駄目だよ、ダーリン。前に出たらせっかくのリーチ差が無駄になっちまうよ)
マルグリットは目を閉じて首を横に振った。
しかしレミーの目には相変わらずエイリークが優勢に見えているのでマルグリットが悲嘆に暮れている理由がわからない。
「母ちゃん、どういう意味だよ?父さん、全然勝ってるじゃないか。子供相手にマジになって恥ずかしいけれど、ここから負ける要素は無いと思うよ」
「ええと…」
レミーは思い切ってエイリークの敗因について尋ねる。
しかしマルグリットはエイリークが敗北する原因を理解はしているが上手く説明できない。
そこに普段よりも真剣な表情をしたベックが現れ、助け舟を出す。
ベックは外見こそ温厚で真面目そうな男だが、心は熱く好戦的な面もある。
特にエイリークは子供の頃にレスリングをベックから教わっていた事もあるので今回の安易な選択にベックは立腹気味だった。
「私が答えよう、マギー。エイリークの姿をよく見なさい、レミー。徐々にだが、速人君に押し返されているだろう。愚かな男だよ。速人君の攻撃を待っていればいいのに、わざわざ自分から当てに行っている」
ベックは速人に向かってストンピング攻撃を続けるエイリークを指さす。
レミーはエイリークの体勢が最初に見た時よりも前に向かって傾いている事に気がついた。
バランスが悪いとまでは言わないが時間の経過と共に蹴りの威力と速度が減衰しているのは間違いないだろう。
「そうか。父さんにしてみれば最初から糞豚に手足の長さで勝っているわけだから接近する必要が無いのか…」
レミーの正鵠を射るが如き回答を聞いたベックは満足そうに首を縦に振る。
この時、ダイアナとダグザはベックもまた常識人とは一味違った常識の持ち主であることを再確認する。
よく考えてみるとベックはエイリークの祖父ダルダンチェスの生徒であり、エイリークの父マールティネスの親友でもあるのだ。
頭のネジが一本外れていたとしてもおかしくはない、と妙なところで納得してしまう自分にダグザは自己嫌悪を覚える。
「その通りだ、レミー。エイリークが接近すればするほどにヤツは無理な体勢を強いられ、やがては…」
ベックの発言と同時に速人はエイリークの右足を掴んで引っこ抜いた。
エイリークは軸足で抵抗して、その場に踏み止まろうとするが失敗する。
なぜならば速人は足を取った直後わざとエイリークとの力比べに負けたフリをして必要以上の力をかけさせたからである。
以降エイリークは前後左右に逃げようとする度にバランスを崩し、軸足の支えをよりいっそう頼りの無いものにしていた。
速人は間髪入れずにエイリークの踝と踵を抑え膝から下の自由を奪う。
エイリークが百人力の剛脚をもっていようとも脚の腱を固められては動かしようがないというもの。
速人は脛の疑似的な筋肉痛に苦しむエイリークの脚を担ぎながら背中を向けた。
この相手の足を担いで大槌のように地面に叩きつける技には土返しという名前がある。
読んで字の如く人間の体を鎚に見立て、地面を平らにするのだ。
次の瞬間、エイリークの額に汗がぶわっと浮いた。
「ああなるわけか。なるほど、いつも通りの展開だな」
「エイリークさん、お覚悟を…」
速人はエイリークの身体を前方に振り抜く。
エイリークは自由が利く上半身を使って直撃を防ごうとするが直前に体の方向を変えられて側面から地面に叩きつけられた。
「んがッ!ふうッ!」
エイリークは目、鼻、耳、口から血を流しながら手をついて逃れようとする。
しかし、速人は再び彼の足を掴んで前に向かって振り下ろした。
その後、エイリークは地面とキスをする度に短い悲鳴を上げた。合計五回。
全てが終わったころには速人の足元には赤黒い染みがいくつも出来上がっていた。
「ハニー…。あのチビ糞豚がひどいんだよー。ゴージャスでストロングな俺様を妬んで顔から何度も投げるんだ。愛する俺様の仇を討ってよー。およよよ…」
数十秒後、エイリークはマルグリットの豊かな胸に顔を埋め慰めてもらっていた。
速人の投げ技によってグチャグチャになっていた顔は少し腫れているくらいまで回復していた。
一般的にリュカオン族は不死身に等しい肉体を持つと言われているが、エイリークのそれは同族の間でも規格外と言われている。
だがしかし不死身の肉体を持っているからといって痛くはないというわけではない。
マルグリットは途中までエイリークの頭を撫でていたが、ベックとレミーとダグザの非難を帯びた視線に気がつくと放してしまった。
「ハイハイ。子供じゃないんだから、もういいでしょ?それに昔、今度ダイアナたちを虐めたら承知しないって言ったよね?愛するダーリンだから一回だけは大目に見てあげるけど、今度やったら”めっ”だからね」
「ええー!そんなあ…。でもハニーが”めっ”してくれるならもう一回やっちゃおうかなあ?ギャハハハハ!…ん?レミー、何かあったか?」
レミーが恐い顔をしながら、エイリークとマルグリットの手を引いた。
速人が無表情で両手にヌンチャクを持って振り回している。
そしてその隣では全身をバンプアップさせたベックが指の骨を鳴らしていた。
かつてないほどの身の危険を察知した二人はレミーを真ん中にして距離を取った。
十数分後、負傷してボロボロになったダイアナたちをダグザと速人とベックが手当てをしていた。
ダイアナたちが顔に施した化粧は涙と汗によってすっかり落ちてしまっていた。
先ほどのトラブルでエイリークへの恐怖心を思い出してしまったトリシュたちはまだ泣いている。唯一、勝機を保っているダイアナは速人に深々と頭を下げる。
「悪魔よ、さっきは悪口を言ってすまなかったな。私はお前が人まで調子の良い事ばかり言っているくせに裏では子供を攫って食べる悪いヤツだと思っていたが違ったようだ。非礼の数々、許してくれ」
ダイアナの謝罪を聞いたレミーたちは笑い出すのを必死に堪えている。
速人はこれが他人からの評価だということを思い知らせ、
(そうか。これが俺の評価かよ。クソッタレが…ッ‼)
全身を震わせながら感情の噴出を抑えていた。
ダイアナは微妙な謝罪が終わると今度はマルグリットの方を向いて世間話を始める。
速人は地獄のアマゾネス軍団みたいなメイクの落ちたダイアナの横顔を見ながらダイアナと彼女の妹たちの数人がディーによく似ている事を改めて思い知らされる。
現時点で速人が知る限りではヨトゥン巨人族であること以外は両者に共通点は存在しない。
またディーの一族が身体に施す刺青や化粧の類は簡素な特徴であり(※ディーの首や腕に施されている)ダイアナたちが炎を基調としている事に対してディーたちは雲や霧だった。
速人が頭を捻らせているとダイアナたちの治療を終えたダグザとベックが肩を叩く。
「速人、こっちの仕事は終わったぞ。そろそろ町に出発する準備をしてくれ。それとダイアナたちの話だが、本当に悪い事をしたな。お前は我々とダイアナたちが敵対しているものと思って乗り気では無かったんだな?」
ダグザは研究資材の入ったバックの中に応急処置用の医療道具を戻していた。
その後ろではベックが苦笑いしながら頭をかいている。
(この二人の律義さが百分の一でもいいからエイリークさんたちに備わっていたら…)
速人は心の中で一人悔やむ。
「私からも言わせてもらうよ。マティスのバカは仕方ないけれど普通に考えれば私たちはダイアナちゃんのお父さんと戦ったことになるからね。実はダイアナちゃんたちが第十六都市の野営地で暮らしていた話はシグやアムにも話したことがないんだ。なあ、ダグ。そろそろあの子たちにも戦争の事を話した方がいいのかな?」
「ベック、残念ながら私はまだ早すぎると思うよ。前の戦争は失ってしまったものが多すぎた。私の祖母の話も含めてだが結局何も伝えられずに今日に至ってしまったのは何も後ろめたさだけではない、私たちの心の中で決着がついていない事の方が多すぎるからでもあると思う。エリオとテオの話も含めて」
ダグザはふう、とため息をつきながらバッグの前掛けの金具を閉じた。
ベックは悲しそうな顔をしながら力なく笑う。
二人ともに思い当たることが多いということだろう。
近くで話を聞いていたエイリークの表情も優れない。
ダグザは出発の準備が整うと荷物を肩にかけ、全員に指示を促した。
「ダイアナ。君たちも我々がここにきた大体想像はついていると思うが、とりあえず町の方に行ってから話をしよう。それでいいか?」
ダイアナと彼女の妹たちはダグザの提案を聞いて黙ってしまう。
しばらく身内同士で話し合いをした後に、彼女らを代表してダイアナがサンライズヒルの町の事情を説明することになった。
「ダグザ、その小さな悪魔から聞いているかもしれないがエリオットとセオドアの糞野郎は今サンライズヒルの町で暮らしている。会うのは構わないが無理矢理連れ出すような真似は絶対にしないでくれ。そしてもう一つ、今サンライズヒルの町には多くの住人が暮らしている。ほとんどの人間が戦争で家を焼かれて途方に暮れていた者たちばかりだ。我々は彼らが定住する事に反対したが、母様がわずかな貢物を出せば許すというので特別に認めることにした。正直、我々と彼らの関係が上手く行っているとは言い難い」
ダイアナは酷く悔しそうに俯く。
ダグザとベックはダイアナの話を聞いて言葉を失い、速人もサンライズヒルの町をウィナーズゲートの町で知り合ったイーサンたちに紹介したことを少なからず後悔していた。
いくら確実な生活用水の調達方法を発見したところでサンライズヒルの町には食料も労働力も足りてはいない。
速人がダグザから借りた金で買った食料も無くなってしまっているだろう。
速人は現実の過酷さを実感するのであった。
「安心してくれ、ダイアナ。ここに来る前にエリオたちの話は速人から聞いている。その際に速人はエリオットには今のエリオットの生活があるから干渉しないでくれとも言われていた。私たちもそれを承知でここに来ている。二人に無理強いはしない、それだけは約束しよう」
(糞ったれめ。何だってこんな物分かりの良い奴が来たんだ。もっとケイティとかハンスとかモーガンとか雑な対応しかできないヤツが来ていたら門前返しにしたやるのに…ッ‼)
ダイアナは俯きながら聞こえないように舌打ちをする。
ダイアナがわなわなと震えながら頭を下げていると彼女の妹たちはマルグリットと世間話を再開していた。
「そういえばさ、速人がエリオは結婚しているって言ってたけど誰としたの?」
…そこまで言ってないよ?速人は顔を青くしながらマルグリットの背中を見つめる。
ベックは両目を伏せながら頭を横に振り、”女性の勘を侮ってはいけない”と幼い速人を諭す。
「あれ?マギー、悪魔から聞いていないの?エリオは…」
その時、町の方角から巨大な駝鳥というか絶滅した伝説の鳥類、怪鳥モアが土煙を上げてやってくる。
巨大な鳥の首の付け根には逞しい体つきをした男たちが”今年は豊作だ”とかわいわいと世間話をしながら楽しそうな雰囲気で世間話をしていた。
やがて巨大な鳥の群れは速人たちの前で止まると、彼らの中でも一番大きな身長の男が颯爽と降りて来る。
男は黒く染めた長髪を風になびかせながらダイアナのところに歩いて行った。
他の男たちは巨大な鳥の上で待機していたが、真下にいるダイアナたちを見つけては手を振っていた。
速人は目を凝らして巨大な鳥から降りてきた大男を観察する。
男の服装がテレジアの一族の民族衣装ではなく、厚手の農作業用のズボンに黄ばんだシャツという姿だったので気がつかなかったのだが紛れも無くテレジアの子マイケルだった。
今はトゲのついた棍棒ではなく鍬を担いでいる。
マイケルはダイアナに向かって気さく話しかけた。
「姉ちゃん、こんなところでどうしたの?…そろそろ家に帰らないと母ちゃんにどやされるよ?」
速人はマイケルの姿を見た瞬間にさらに驚愕する。
マイケルの地毛と思われる髪の色はディーと同じくプラチナブロンドだったのだ。
柔和な顔立も親戚か兄弟じゃないかというくらい、よく似ていた。
癒し系のハンサム中年はまるで青春学園物のエロゲーでは貴重な粘液が飛び散っていない会話のワンシーンのような雰囲気を醸し出しながらダイアナに近寄る。
そして…。
「マイケル、このアホがッ‼人前でメイクは落とすなって、他の連中とは仲良くするなって‼姉ちゃんが普段から言っているだろうがあああああ‼‼」
ダイアナの渾身の叫びと共にフックがマイケルの右ほおに突き刺さった。




