第百五十六話 オーサーと李宝典、再登場する。
次回は五月十五日に投稿します。
「レミー、まあ出来立ての調味料なんてこんなもんだよ」
そう言って悪びれもせず皮肉っぽく笑う。
速人は鍋からスプーンで一口分だけさらった。
そして口の中に入れて味を確かめる。
すりおろしたリンゴとショウガの食感が残る如何にもなごった煮の味だった。
故人に注文をつけるなら両方とも皮を剥いてから煮込んで欲しいと考える。
レミーはその間「おえーおえー」と呻きながら何とか先ほど体験した味そのものを忘れようとしている。
胃が焼けつくようなエグさと苦味、そうこれは大酒を飲んだ後のエイリークとマルグリットの吐息に似た味わいだった。
これのどこが思い出深い味になるのか、とレミーは様々な恨みを込めて速人を睨んでいた。
「仮にこれがダグのお祖母ちゃんの隠し味だったとしても、だ。本当に大丈夫なのか?私はダグのお祖父ちゃんってのに会った事ないから知らないけど、あんまり思い出し過ぎると逆に昔の事ばっか思い出すようになってもっと誰にも会いたくなくなるんじゃないか?」
速人はレミーに水の入ったコップを渡した。
レミーは水で口内を一度、漱いでから洗い場に吐き出した。
エイリークの家のキッチンにはこの世界には珍しく使用後の生活用水を処理する排水口があった。
普通使い終わった水はまとめて川に流すか、地面に投げるかどちらかだった。
案外スウェンスの父エヴァンスという人物は下水処理場についても何か考えがあったのかもしれない。
速人は先ほどより少しマシな様子になったレミーに質問の返事をした。
スウェンスという人物はずっと昔に妻の死を受け入れ、前向きに生きようとしている。
今は少しだけ疲れてしまった。ただそれだけの事なのだ、と。
「大丈夫、スウェンスさんはレミーが考えているよりもずっとタフな人間だよ。だけど今はエイリークさんたちが大きくなって落ち着いたから今までの疲れがどっと出て来て気が引けてるんじゃないかな。俺が一昨日、あった時はそんな感じだった」
レミーは樽に入った水でコップを軽く洗ってから、手押しポンプから使ってコップに水を入れた。
口の中にまだあの味が残っているような気がしたからである。
速人は例の調味料の後味に苦しむレミーの為にホットミルクを用意する。
牛乳、バターの乳性脂肪分には辛さ、苦さを中和する能力がある。
速人は仕上げに砂糖を小さじ一杯くらい足して湯気の立つホットミルクをレミーに渡した。
レミーは立腹の様子でもう話すことはないと部屋に戻って行った。
速人はさらに朝食とメリッサがお茶会の時に必ず用意していたスウェンスの好物のケーキの準備を進める。
こうして翌日の明け方まで速人はキッチンを出ることは無かった。
舞台はレッド王国同盟と第十六都市の国境付近に移る。
国境警備を務めるエルフの騎兵隊が、移送用の馬車を連れて砦に向かっている途中だった。
騎兵隊を率いるのはレッド王国同盟の中枢たる七枝議会からも絶大な信用を寄せられている男オーサー・サージェント。
要人移送用の馬車に乗せられているのは一昨日前に公務妨害で逮捕されたノートンだった。
オーサーは中隊の先導を副隊長に任せると馬首を後方に返してノートンの乗る馬車に向かった。
副隊長は直属の上司イアンを通じてオーサーとノートンの両名の関係を知っていたので快く命令に従った。
オーサーは片目を閉じて副隊長の男の気苦労を慰めた。
本来、この隊を率いるはずのイアンという男はノートンの待遇が原因で上司と揉めて本国に連行されてしまったのだ。
オーサーは旧友の変わらぬ正義感を思い出して苦笑する。
「どうも、ノートン殿。この度はご苦労をおかけしました。明け方には村の入り口に到着するのでゆっくりお休みください」
オーサーは馬車の前で頭を下げる。
移送用の馬車には覗き窓が存在せず、外の様子を知る手段は存在しない。
しかし長年のつき合いからオーサーという人物の性格を知っているノートンは今は犯罪者にすぎない自分に対して頭を下げているであろうオーサーに対して申し訳ない気分になっていた。
「オーサー、今回の事件は君に何の落ち度もない。私の我慢が足りなかったことが原因だ。私の家族と村人に害が及ばないように便宜を図ってくれたのだろう?むしろこちらが謝罪したいくらいだ。気苦労ばかりかけてすまない」
「いえいえ。それにしてもエイリークの馬鹿の強さは飛び抜けていましたね。アイツの仲間たちの強さもかなりのものでしたが、同盟や帝国でもあれほどの腕ききばかりを集めた隊商はないでしょうに」
「確かに強さに磨きがかかっていたな。昔の部下に声をかけて戦ったとしても勝てなかっただろう」
ノートンの声には失望よりも、ある種の期待が込められていた。
今のエイリークは帝国と同盟と自治都市の政治家たちから見れば新たな脅威でしかない。
いずれ待遇に困窮し、エイリークやイアンの築いた新勢力との対立に発展する可能性は高くなっていた。
オーサーの導きで敗者という道化を演じたノートンだったが未来への展望は明るいものになったいた。
だが今の時点でイアンの部下たちにノートンたちの思惑が見破られることは避けたかったので気分が浮き立たぬよう自制する。
オーサーはノートンから離れて中隊の副隊長のところに向かった。
「よう、ご苦労さん。今回の一番の功労者は君だよ。イアンの下で働くのとエイリークの相手は大変だったろう?仕事が終わったらみんなで酒でも飲みに行こう。…私の薄給じゃあ、ワリカンだけどね」
オーサーは得意の人懐っこい笑顔で、友軍の大先輩を移送する不本意な任務を押しつけられた兵士たちの心労を慰める。
騎兵たちは「そこはアンタのおごりでしょうが」と笑っていた。
ノートンも馬車の中で苦笑している。
本来はいがみ合う関係のはずの一行は戦時中から現在に至るまでの苦労話をするほど打ち解けていた。
偏にオーサー・サージェントという人間の力で。
オーサーは懐に隠し持っていたとっておきの高級酒の入った水筒をノートンに渡した。
騎兵たちは口々に特別扱いだと二人に文句を言っている。
騎兵の大半はイアンと共に戦争を生き抜いた優秀な兵士であり、ノートンの事も知っている旧知の間柄だった。
オーサーは隊の殿についてゆっくりと馬を進めている。
ふとノートンが話を切り出してきた。
「何かと申しわけが立たないな、オーサー。今回はエイリークとイアンに接触することが出来たからまだ良かったが、どう考えても私は君の足を引っ張ってしまったとしか思えないぞ」
ノートンは外の騎兵たちに後ろめたさを覚えながら水筒の蓋を開けた。
水筒の中は琥珀色の蒸留酒で満たされ、独特の芳しい香りが鼻先まで漂ってきた。
ノートンは御者席に座る人影に向かって軽く頭を下げた後に一口、呷った。
「いえいえ。十分すぎるくらいですよ、ノートン殿。少なくとも貴方が止むに已まれず民草の代表として立ち上がったという事をエイリークとイアンに伝わりましたからね。やがて奴らと議会の間には決して埋めることの出来ない溝が出来上がる…」
馬車の中から見ることは出来なかったが、オーサーの瞳は深い闇だけを映していた。
同じ時代を生きる人間としてノートンは彼に共感する。
多大な犠牲を払い、勝ち得た平和の果実を対面の保持という取るに足らぬ理由で為政者たちは台無しにしようとしているのだ。おおよそ許されて良い暴挙ではない。
レッド王国同盟の人間として言うならば、国内の不協和音はダナン帝国に侵攻の理由をくれてやるだけだ。
実際に最前線で戦い続けたオーサーとイアンの失った者は計り知れぬものだろう。
「オーサー。私はしばらくの間、郷里に引き込むつもりだが助力が必要ならすぐに声をかけてくれ。
願わくば余命の全てを費やして協力することを誓おう」
ノートンはやや芝居がかった動作で酒を飲んだ。
酒精の度合いが強い種類の酒だった為に、ノートンはすぐに眠ってしまった。
オーサーは馬車の扉をノックしてノートンが眠ってしまったことを確かめてから御者に先に行くように伝える。
御者は鞭を打って馬車を走らせ、オーサーは隊と距離を置くことに成功した。
周囲に誰もいないことを確認してからそっと口を開く。
「はは…。滅相も無いお言葉を。全ては”新しい空”の為に」
それは感情の感じられない空虚な言葉だった。
やがて音もなくオーサーの背後に黒い渦が出現して、中心から人影が現れる。
水色の裾の長い着物を羽織った鋭い目つきの男だった。
男は普通の歩幅でありながらオーサーの乗る馬と同じ速度で歩いている。
「オーサー・サージェント、なかなか見事な饒舌ぶりだったぞ。お前が敵ならば舌を抜いた後に八つ裂きにして本陣に首を飾ってやるところだ」
男はそう言って口の端を歪ませる。
(これ絶対に怒ってるんだよな…)
オーサーは冷や汗をかきながら「恐縮です」と小さく返す。
突如として現れた男の名は”新しい朝”の最高幹部”六洞帯主”の一人、李宝典だった。
実はオーサーは脳筋の七節星、見てくれが獅子の両面獅と同じくらい苦手な人物だった。
李宝典は倭刀のように鋭い瞳でオーサーを睨む。
彼は決して怒っているわけではないが、他人からすれば薄氷の上を歩かされているような落ち着きのない気分になってしまう。
「実に気に食わん話だが、”敵を欺くにはまず味方から”という貴様の方針は間違ってはいまい。しかしノートンという男に強力な武器をくれてやっても良かったのではないか。例えばこのようなものだ」
李宝典は袖の内側から柳葉刀と呼ばれる曲刀を出した。
オーサーは反射的に身を竦めて距離を取ってしまう。
まるで殺意を持った者が自分の喉元に刃物を突きつけた時のような心境に陥ってしまったからである。
李宝典はオーサーの反応を見た後、出した刃物を袖の内側に戻す。
もしもオーサーがこの場で臆し、逃げ出す素振りを見せれば斬り捨てるつもりだった。
オーサーは手綱を打って馬を李宝典の隣まで移動させる。
李宝典はオーサーの動向など意に介せず歩き続ける。
下界の視察とオーサーの監視という本来の目的は終わり、本拠地である樹泉山に通じる場所に行くだけだった。
「ところで李宝典殿。貴方の目から見て、エイリークという男はどのように映りましたか?私の知る限りでは性格に問題はありますが、十年に一人の逸材とみて間違いないでしょう」
オーサーはエイリークの勇姿に思いを馳せながら、李宝典の心象が少しでも良くなるように語ってみせた。
常に不遜な態度とムラ気の多い性格を除外すれば、エイリークは英傑と呼ぶに度量を持った男である。
李宝典を首尾よく説得すれば神仙たちにお目通りが叶うかもしれない、という下心もあった。
しかし、李宝典はオーサーの儚い望みを一刀両断する。
「エイリーク、あのやたらと派手な男か。彼奴の才覚は並だな。私の知る限りではせいぜい中の上というところだ。特筆すべきものは皆無と言っていい。性格は…七節星といい勝負だ」
「今後はエイリークと頻繁に連絡を取って仲間に引き入れるつもりです。その際には六洞帯主にお目通りをお願いしたいのですが…、何とかなりませんか?」
オーサーは李宝典に向かって頭を下げる。
しかし、李宝典の表情は一向に晴れる気配はない。
オーサーのエイリークに対する思い入れは度が過ぎていた。
万人を受け入れる王の器の持ち主には違いないが、なればこそエイリークは易々と鞍替えをするような人物には見えなかった。
今後の計画の最大の障害となる可能性の方が高い。
李宝典がオーサーに対して色よい返事を出来ない理由の最たるものだった。
「わかった。黄永主には私から口添えしておこう。但し期待はするなよ、オーサー。黄永主は私のような出来損ないとは違う真の仙侠だ。貴様の理屈が通じるとは思えん」
李宝典は小さくため息をつく。
彼が人間だった頃から、今のオーサーのように頭を下げられると無下に出来ない性分だった。
しかし、オーサーにしてみれば千の味方を得たのと同様の気持ちだったらしくそのまま何も告げずに騎兵隊のところに戻って行った。
李宝典はやや呆れながら空を見る。嵐を呼びそうな雷雲が渦巻いているというのに風が一つも吹いていない。
そして、そこに憤怒のような気配を感じる。
薄らと六洞帯主の真の首魁、黒嵐王の気配を感じた。
「…願わくば、世界が変革の”ふるい”の時を迎える前に天数を持たぬ者と相見えたいものだ」
李宝典は中空に生じた黒い渦の中に入る。
遥か上空の雷雲の中では紅玉の瞳が大地に住まう者たちを静かに見守っていた。
瞳の主は大きな翼をはためかせ空を舞う。
雷雲は消え去り、やがて曇天からは滝のような雨が降り出した。
そして舞台は再び、第十六都市のエイリークの家に戻る。
速人は夜を徹してついにメリッサのケーキを完成させた。
鉄製のオーブンの扉を開けて中から焼き上がった長方形のケーキを取り出す。
ラム酒とバター、リンゴの芳醇な香りがキッチンの中を満たしていた。
速人は凄絶な笑顔で表面が茶色のケーキに顔を寄せる。
熱が引いたら表面に酒を塗るつもりだった。
「ついに出来たぜ、アップルジンジャーケーキ‼待ってろ、スウェンス、俺が本物の思い出のケーキを食わせてやるからな‼」
速人の魂は中天を照らす日輪のように燃えていた。
しかし、数秒後にはこのケーキがスウェンスに食べさせる為のものではなくエイリークに試食してもらう為に作った物だとすぐに気がついてしまった。