第百三十九話 そして増え続けるジジイ…
次回は三月二十二日に投稿します。
ロアンは息子ローレンに速人から離れるように言った。
ロアンの厳しく尚且つ優しい面差しはどことなく老騎士セイルの顔と良く似ていた。
しかしその直後にロアンが発した言葉は速人の予想を悪い意味で斜め上に裏切った。
「はあ…、また猪豚の仔など町の中に連れ込んで…。エイリークのヤツの仕業ですね。もうアイツの子供だってローレンくらいの年齢になっているというのに。ローレン、いいか野生の動物と人間は一緒に暮らせないんだ。この仔は俺が責任をもって町(※第十六都市の事)の外で放してやるつもりだから。早く忘れてしまいなさい」
ロアンは速人からローレンを引き離してしまった。
そしてゴツゴツとした大人の手で速人の頭を撫でる。
(これで悪意があれば生きたまま埋めてやるところだな)
速人は感情を殺しながら黙っていることにした。
ローレンは悲しそうな目で「ごめんね」と速人に対して謝っている。
だが速人はこの時、第十六都市から逃げ出す機会が訪れていることに気がつく。
忍び足でロアンの後ろに隠れようとしたところをダグザに右手を捕られて見事に妨害されてしまった。
「はっはっは。どこに行くつもりだ、速人。我々から逃げて自由を得ようとするお前の邪悪な企みなどとっくにお見通しだ。ロアン、ローレン、聞いてくれ。コイツは新人だが、ちゃんとした人間の子供だ。言葉も話すし、文字も使う。そして何より自由の身となることが一番危険な存在だ‼」
ダグザは目を血走らせながら周囲に向かって吠えた。
ローレンは恐怖のあまりロアンの胸に飛び込み、ロアンは息子を抱き締めている。
ダグザの眼は節穴ではない、真実と虚偽を見抜く慧眼の持ち主なのだ。
速人はダグザの小賢しさに腹を立て、「チィッ‼」と大きく舌打ちをした。
「坊ちゃん、うちのローレンが恐がっているから怖い顔は止めてください。大体こんな小僧が本気を出したところで大人が本気になればわかってくれるもんじゃないですか?なあ、坊主」
ロアンは速人の頭を撫でる。
速人は目を輝かせながらニコニコと笑っていた。
次の瞬間、ダグザは純朴な子供を演じようとする速人の手を掴んで引っ張った。
速人は瞬時にダグザの指の関節技を極め、逆にダグザをねじ伏せてしまう。
「があああああッ‼想像よりずっと痛いッ‼わかったか、ロアンッ‼これがこいつの本性だッ‼頼むからそろそろ堪忍してえええッッ‼」
ダグザはうつ伏せの状態で左腕を真上に向かって捻じられた後、堪らず悲鳴を上げた。
ロアンはダグザの並の軍人よりも上という実力を知っている為に目の前の出来事をすぐに受け入れることは出来なかった。
しかしダグザが血走った目で必死に速人の危険性を訴えているうちに正気を取り戻す。
数分後、ロアンの仲裁により速人は自我を取り戻し、ダグザは自身の左腕を抱えながら泣き咽っていた。
速人は六歳の頃から父親から体術(※他者を制圧する事を目的とした投げ、関節技。下手な殺人拳よりも性質が悪い)を習得して以来、一日として修行を怠ったことはない。
故に一定以上の実力を持つ者が襟を取ろうものならば即座に関節を破壊するよう無意識下に刷り込まれていたのだ。
そしてダグザは相変わらず屈みながら泣いている。
傍のロアンとローレンの親子もダグザに対して同情的な視線を向けていた。
流石の速人も今回ばかりは自身の行動が過剰防衛であると反省し、ダグザに謝罪することにした。
「ダグザさん、今回はゴメンな。俺六歳くらいの頃から父ちゃんに”一回、掴んだら死ぬまで放すな”って教わっていたからさ。とっさに外すことが出来ないんだよ。第十六都市から逃げるのもまた今度にする…」
「…。私こそお前を試すような真似をして悪かった…。もっとエイリークとマギーの”素手同士なら絶対に敵わない”というアドバイスを信じるべきだった…。そして今回の事件は引き分けということにしよう。私もお前の自由を束縛するような真似はしない」
速人はダグザに腕を貸すように目配せする。
ダグザはある程度の苦痛を伴う行為であることを覚悟しながらそっと左腕を出した。
そして…「あがががががががッッ‼痛いっ‼千切れるッ‼痛いぃぃぃッ‼」…という感じで速人の応急措置を受けてダグザは左腕の痛みから解放されることになった。
やがてダグザが手首や肘、肩の具合を確かめている姿を見て平常心を取り戻したロアンが戻って来る。
どうやらこのわずかな間にローレンは家の中に戻ってしまったようだった。(※緊急避難)
「ダグザ坊ちゃん、今日はどういったご用向きでお越しになられたのですか?」
ロアンは速人から微妙な距離を取りつつ、ダグザの用事を聞いた。
質問の途中、それとなくスウェンスの家の方角を見ていたのでダグザが祖父を訪ねてきたということは察しているのだろう。
速人はスウェンスの食事は近所の人間が世話しているという話をダグザの母エリーとレナードから聞いている。
(多分ダグザさんのお祖父さんのご飯はセイルさんたちがしているんだろうな。だから心配して聞いているのか)
速人はロアンの真剣な表情からそのように推察していた。
ダグザは今の今まで祖父を放っておいた経緯から困ったような顔をする。
ダグザは思慮深い性格なので一度考え込んでしまえば行動が遅れるという悪癖があった。
速人は出過ぎた行為であることを承知しながらダグザに変わってロアンに理由を説明することにした。
「ロアンさん、今日はダグザさん、お祖父さんがご飯ちゃんと食べているかなってお弁当を持ってきたんだよ。ホラ、お弁当箱持っているでしょ?」
速人はそう言ってダグザの持っているバスケットを指さした。
ロアンは目を凝らしてダグザの手荷物を見る。
ダグザはロアンたちに祖父の世話を任せた罪悪感から、実にもうしわけなそうな顔でロアンに謝った。
「速人の言う通りだ、ロアン。今日はお祖父さまの事が気になって家まで訪ねてきた。それで手土産代わりに弁当を持ってきたんだが、タイミングが悪かったかな?」
ダグザもまた妻アレクサンドラと母エリーから現在スウェンスはセイルとベンツェルの家から交互で食事の世話をしてもらっているという話を聞いていた。
故に父ダールでは無く自分が祖父の家に来た事、長年一方的に連絡を取らなかった事に対してロアンがどれほどの憤りを感じていることも理解していた。というか前日までの速人とのブリーフィングで”身内に怒鳴られるのは覚悟しておけ”と警告を受けていたのだ。
しかし、当のロアンの態度は冷静なもので、ダグザの態度にむしろ感心している様子だった。
「いえ、ご心配なく坊ちゃん。今日は親方から昼の食事は遅く持ってくるように言われているので問題はありません。もしも親方の家に行くというなら私もついて行っても宜しいでしょうか?」
ロアンは右手を胸の前に置き、ダグザに向かって頭を下げてきた。
機械油の臭い染みついた野暮ったい服装をした男だが礼節の方はしっかりとしている。
竜騎士として名を馳せた父セイルの影響が強いのかもしれない。
速人がロアンの折り目正しい態度に感心しているとダグザが軽く肘で突いてきた。
何かの相談事の合図だろうか。
速人はロアンに悟られぬようダグザに応じることにした。
「ダグザさん、何か御用事?」
「いやロアンを連れて行っても大丈夫か、という話だ。私は問題が無いと思うのだが…」
「ここで断っても不自然だから一緒に来てもらおうよ。いざという時はロアンさんをダシにして交渉することも出来るだろうし」
(お前はそうやって他人を道具のように使う事しか考えていないのか⁉)
ダグザは何かを訴えるような目で速人を睨む。
速人は不敵に笑いながらスウェンスの家に向かって歩き始める。
ダグザはロアンに出発を促すと速人の後を追いかけた。
程無くして三人はダグザの生まれた家、角小人族自治区画の中心部(※立地的な意味)にあるルギオン家本宅に到着した。
スウェンスの家は二階建ての第十六都市でいうところの中流階級の人間が住んでいそうな普通の家だった。
ダグザの曾祖父エヴァンスは豪奢な生活を嫌い、かつて都市の上層に存在した城のような家を出て中層に一軒家を建てたことがこの家の始まりらしい。
エヴァンスが上層を離れた後は、古くからのルギオン家の家臣たちは競って移り住み現在の角小人区画が誕生したということになる。
家屋の一部と工房と思しき部分が一体化しており、管理の行き届き具合からスウェンスが現在でも使っていることが理解出来た。
速人は後ろを見てダグザとロアンの姿を捜したが二人はまだ追いついていなかった。
速人は敷地に入る時はロアンの許可を取る必要があると思っていただけに煩わしさのようなものを感じていた。
ダグザたちが家の前に到着した時、ダグザの表情に変化があった。
馬車に乗った時からある程度は覚悟していたが、今のダグザは祖父への後ろめたさからかなり気落ちしているのだ。
速人とダグザは前日まで腰を据えて話し合ったつもりだが、スウェンスの家まで来たところで勇気が無くなってしまったのだ。
(まあこればっかりは仕方ないよな…。親の仕事が忙しい時にはここで暮らしていたって言ってたし。…エイリークさんにもこれくらい繊細な部分があってもいいと思うぜ)
速人は最後の一押しをする為にダグザの前に出て来る。
ダグザはどこか陰のある整った顔をさらに曇らせながら速人を見る。
そして速人が自分の前に現れた理由を内心、察していた。
「あのさ、ダグザさん。ここまで来て悩むのは無しだぜ?どっちが悪いにせよ話合わなきゃ始まらないんだって。こういうハッパのかけ方は好きじゃないけどスウェンスさんだっていつまでも元気ってわけじゃないし」
ダグザはハッと息を飲み込み、顔を真っ青にしていた。
そこに怒りで顔を真っ赤にしたロアンが現れる。
今にも殴りかかってきそうな勢いだったが理性で抑え込んでいる様子だった。
「おい‼速人だったか‼お前は子供だから何を言っても許されると思っているんだろうが、いい加減にしないと本気で怒るぞ⁉坊ちゃんや若様は好きで親方から離れて行ったわけじゃないんだ」
ダグザはロアンの手を取って彼を諫めようとした。
ロアンは驚いた顔でダグザを見ている。
「ロアン、本当に悔しい話だが速人の言う様に私に覚悟というものが足りなかったのは間違いない。だがそれも今日これまでだ。速人、踏ん切りをつける為にも私の頬を殴ってはくれないか?」
ダグザは恥ずかしそうに速人に笑いかけた。
速人は地面に落ちている手ごろな大きさの石を拾い、グシャッ‼と握り潰した。
ダグザとロアンは額に嫌な汗を浮かべる羽目となった。
速人は粉々に砕いた石の欠片を地面にばら撒きながら淡々と語る。
「ダグザさん、そういうのは違うと思うぞ。俺は最後までつき合うつもりだから、絶対に自分一人でお祖父さんのところに行かなきゃ駄目だ。何よりも自分が納得出来ないと意味が無い。…殴って欲しいなら別の機会にいっぱい殴ってやるから」
速人とダグザは互いを見つめ合った。
速人は一歩も譲らない。
ダグザはため息を吐いた後、スウェンスの家の玄関の前に立った。
そして記憶にあるものよりも幾分か古びた扉を叩く前にもう一度、速人の顔を見る。
不細工極まりない顔だが、ダグザを支えようとしてくれている人間の目だった。
「…わかったよ。全く、子供は気楽でいいな」
ダグザはそう言ってから扉を何度かノックした。
家の中から物音がして扉の近くまで歩いて来る音が聞こえた。
この時、ダグザはスウェンスの足音に違和感を覚えていた。
記憶にあるものよりもたどたどしく動作に機敏さが感じられなかった。
ダグザの落胆をある程度、予想していたロアンは小さなため息をついている。
速人は呆気に取られているダグザの左の袖を引いて挨拶をするように促した。
ダグザは正気を取り戻し、扉の向こうにいるスウェンスに挨拶をした。
「お祖父ちゃん、僕です。ダグザです。今日は用事があって来ましたッ‼」
(…一体どこの小学生だよ‼)
速人はダグザの後ろでズッコケそうになったいた。
しかし、今速人のとなりにいるロアンは顔をグシャグシャにして声を殺しながら泣いている。
(ローレン、今のロアンさんの顔を見たら家出するだろうな…)
何か見てはいけないようなものを見てしまった気がして、再びダグザの隣に移動する。
ダグザは緊張のあまり顔を真っ赤にして速人の存在にまるで気がついていなかった。
やがて扉の向こうからドアノブに手をかける音が聞こえる。
「通りの向こうが騒がしいから誰かと思ったが、ダグだったのか。久しぶりだな、元気だったか」
扉の向こうから現れたのが長身の筋骨逞しい体つきをした老人だった。
髪型はボサボサで白くなっていたがダグザやダールと同じく限りなく黒に近いこげ茶色である。
伸びきった前髪を気にして何かと指で触っていた。
「お祖父ちゃん。どうも、御無沙汰しておりました。ずっと挨拶にも行かなくてごめんなさい…」
ダグザは子供の頃に戻ったように涙を流しながら祖父に向かって挨拶をする。
速人はダグザに合わせて頭を下げた。
スウェンスは少し困った顔でダグザを見ながら、その後ろで号泣しているロアンの姿を見て本気で悩んでいた。