第百二十八話 愛言葉は肉
次回は一月二十六日に投稿する予定です。
そして現場には頭部をルービックキューブのように腫らしたエイリークが泣き崩れていた。
マルグリットは厳つい表情でローストビーフを食べている。
地面には白い皿の破片が散乱している様子から速人とダグザは何が起こったかを予想することが出来た。
「ハニー…。俺が悪かったよ。もうしないから許してよー」
エイリークは泣きながらマルグリットのロングスカートに抱きついた。
マルグリットは赤、青、黒、緑色といった具合に腫れ上がったエイリークの顔を優しく撫でる。
エイリークはその隙にマルグリットのローストビーフに手を伸ばすが寸前のところで裏拳で打たれていた。
よく見るとマルグリットのドレスは埃だらけで髪はボサボサになっていた。
肉を取り合い、夫婦はつかみ合いの果てに二人で転がったのだろうか。
速人が尋ねるよりも先にダグザが肯定の意を示すべく深く頭を下げる。
ケイティは子供たちを連れてレモネードが置いてあるテーブルまで移動していた。
速人はソリトンの妻ケイティの気遣いに心から感謝する。
しかし、肝心のレミーとアインは暗黒の崖っぷちに立たされた詩人のような顔つきになっていた。
「肉は駄目。夫婦とか、最愛の男性とか関係無いからね。だから手を伸ばすなっつーの!」と言われては蹴られるエイリークだった。
マルグリットがローストビーフを食べ終わる頃にはエイリークは元の姿に戻っていた。
一見してギャグマンガのような展開だが、少し前にエイリークから暴行を受けたダグザたちには痕跡が残っている。
治癒能力に長けたリュカオン族の特性によるものだろう。
速人はカートの上に羊の肉を乗せてパーティー会場に現れた。
銀製の巨大な皿の上に乗っているのは先にアルフォンスが用意した牛よりも大きな羊の肉だった。
速人はトマソンとジョッシュとマルコ(※当事者)、そしておまけでクリスに感謝しながら落とさないようにしてカートを押す。
焼き上がった羊の肉には布がかぶせられているので香草の匂いも最小限に止まっていた。
速人がパーティー会場の中央に辿り着くころには参加者の多くが調理台のテーブルの前に集まっていた。
その中にはドルマとウェインの姿もあった。
「すっげえ美味そうな肉だな。こんなデカいのは初めて見たぜ。出所は恐いから聞かないけど是非とも食べさせてもらいたいものだぜ」
「第十六都市に入るまでは、しばらくまともな食事をしていなかったからな。何の肉か知らんが、料理を見てこれほど嬉しい気持ちになったのは子供の頃以来だ。ははっ」
ウェインは布の上から溢れる極上の羊肉のスモークローストの香気に酔いしれる。
速人は帝国の臣民であるドルマとウェインが帝国の秘宝”ジェネラルシープ”が材料として使われていた事を知った時の慌てふためく様子を想像しながらニタリと笑っていた。
ドルマなどはレナードから貸し与えられたジャケットを脱ぎ、喜色満面で蝶ネクタイを緩めていた。
生粋の仕事人間というイメージが先行しているので、かなり希少な姿だろう。
帝国軍人の二人組と一緒に行動していたトラッドが遅れて姿を現した。
トラッドは速人の顔を見た途端に嫌そうな顔をしている。
しかし、見事なまでの巨体を誇る羊のスモークローストを前にしては自然と頬が緩んでしまった。
「おい、速人。この大きな羊ってガキの頃に聞かされた昔話に出てくるジェネラルシープに似てるな」
代々ルギオン家に仕える騎士の家系に生まれたトラッドは、子供の頃によくダナン皇帝が登場する昔話を聞かされた。
中でもダナンが旅の途中に知り合った正直者の百姓に銀色の毛を生やす山ほど大きな羊を与える話は彼のお気に入りだった。
(たしか初代皇帝が旅先で知り合った人々と問答をして一番の正直者にジェネラルシープを与えるという話だったな。皇帝が家臣に信頼の証として動物(※主に家畜)を与えるという帝国騎士の始まりに纏わる話だとダグザさんが言っていたな)
ルギオン家が主君と縁を断ってからは故国と疎遠になってしまったが、その子孫たるトラッドでもジェネラルシープへの憧れだけはしっかりと残っているということなのだろう。
トラッドは子供のように灰色の混じった青い瞳を輝かせている。
昔話の登場人物にでもなった気持ちなのだろう。
速人はトラッドの期待に応えるべく布の端を持ち上げる。
「…。アル、私の記憶が正しければアレは本物のジェネラルシープにしか見えないのだが」
ダールは額に汗を浮かべながらアルフォンスに尋ねた。
ダールの心配も当然の事である。
もしもドルマとウェインが秘宝”ジェネラルシープ”を食べたことが明るみに出れば始祖(※帝国ではダナン皇帝をそう呼ぶ)侮辱の罪を問われ間違いなく処刑されてしまうだろう。
”ジェネラルシープ”が秘宝と呼ばれる所以は人語を理解し、英知を授けるという伝承があるからである。
ダールは小声で何かと頼りになる男アルフォンスに尋ねた。
「ところでアル、君はあの秘宝が本物だと思っているのか?ここだけの話、現存する秘宝の数は太公家でしっかりと管理されているはずだが…」
この時ダールは普段とは別の種類の暗黒に満ちた表情になっていた。
彼の生家ルギオン家が帝国と皇帝を見限って千年以上の時間が経過しているが、それでも始祖たる皇帝ダナンへの畏敬の念をダール自身忘れたことはない。
特にダナンが貧しい百姓に羊を与え、彼らに多くの幸を分け与えたというエピソードは人気があり帝国の人間以外にも知られていた。
アルフォンスも内心”果たして食して良いものか”と自問自答していたが極上の肉料理を前にすれば気が変わってしまう。
彼はダールのような政治家ではない、ただの肉屋の主人にすぎないのだから。
アルフォンスは芳しい香りの源に目を向けながら、次から次へと湧き上がる口内の唾液を飲み込んだ。
「速人の話じゃまず間違いないらしいぜ。アイツと俺だけならただの勇み足で済む話だろうが、シャーリーのヤツも”ジェネラルシープ”って言ってたしなあ」
食欲を限界まで抑えながらアルフォンスは語る。
実はダールたちの世代にとっては”ジェネラルシープ”とは第十六都市に厄介事を持ち込んだ原因だった。
その昔当時子供だったシャーリーとラッキーたちが労働奴隷として第十六都市に連れて来られた時、奴隷商たちが密輸品として持ち込んだのが”ジェネラルシープ”の剥製だった。
当時の第十六都市では一部で人身売買を認められていたが奴隷への虐待は認めていられなかった。
融合種族の権利が他の自治都市よりも良い扱いだった為に奴隷商たちは奴隷に対する虐待が発覚したことで防衛軍から立ち入り調査を受けることになった。
彼らはそこで密輸品を押収されて全員が逮捕され、レッド王国同盟に引き渡されることになった。
この事件、表向きはそれだけに留まったのだが国家間の紛争に発展しそうな問題が生じてしまった。
密輸品の中にあった盗品の”ジェネラルシープ”の剥製の存在である。
帝国内において大貴族が自らが所有する”ジェネラルシープ”の死後、剥製にして家宝にすることは珍しく無かったが家門付きの盗品ともなれば別だった。
奴隷商たちは既に同盟に引き渡され、残った奴隷に責任を取らせるわけにも行かず結果として帝国と縁が深いルギオン家の当時の当主であるダールの祖父エヴァンスが家宝の”ジェネラルシープ”の毛皮を何枚か帝国に寄贈することで事無きを得た。
エヴァンスはこの事件が原因で当主の座を退き、ダールの父スウェンスがその座を引き継いだことは二人にとっても記憶に新しい出来事だった。
帝国も目の上にタンコブのような存在だったエヴァンスが表舞台から姿を消したことで留飲を下げ、同じく第十六都市の市議会を牛耳るギガント巨人族の有力議員たちも特に文句を言っては来なかったという結末だ。
逆に次のギガント巨人族の議長と市長が勝手に同盟と帝国と密約を結ぼうとして失脚した後、消去法的にスウェンスが議長になってしまったことは当然の帰結かもしれない。
「そうか。シャーリーも君たちと同じ意見か。ぐぬぬぬ…。あの小僧、一体どこで”ジェネラルシープ”を手に入れてきたのやら…」
「その話なんだけどよ、俺がヤツから直接聞いた話じゃあ帝国の古の女傑メルメダの子孫を称する老騎士から譲り受けたって話らしいぜ。その爺さん、絶対にボケてるって言ってやったんだけどよ。大体メルメダって実在したかどうかさえわからない人物なんだろ?」
アルフォンスは皮肉めいた笑顔を見せる。
しかし合理主義の権化のような速人が意味も無くハッタリを言うわけもなく半分以上は単なる強がりだった。
ダールはアルフォンスの心境を察して特に気にする様子も無いと振る舞う。
「メルメダの実在に関しては所説存在するので割愛させてもらうが、その話が本物という可能性は皆無だろう。仮に真実だったとしても速人は一体どこで例の老騎士と出会ったというのかね。生憎私の知る限りではそのような重要人物が客として来訪したという事実は届いていない。なあ、レナード?」
「ご安心ください、若君…ではなくてダール殿。この数か月、同盟と帝国からは商人と巡礼者、物好きな観光客以外は訪れておりませぬ!」
レナードは上機嫌な様子で胸を張り、拳で叩いて頑健さをアピールする。
一方後輩のレナードがダールに話題を振られた事に嫉妬したセイルとベンツェルは周囲に聞こえるほどの大きな舌打ちをした。
レナードは聞こえないふりをしていた。
「だけどなレナードさんよう。ドルマとか来てるし…」
「アル、そんな些細な事を気にしてはいかんぞ。速人はさっき私に”ジェネラルシープ”のくだりは演出の一部だと思ってくれと言ってくれたんだ。あんな良い子が嘘を言うわけはない。はっはっは‼」
レナードは速人を微塵にも疑わない様子で得意気に語る。
なぜなら速人はレナードの孫アダンの泣きじゃくる癖を治してくれた張本人であり、赤ん坊を抱く度(※自分の子供たちも含む)に必ず泣かせてしまうレナードにアダンを無事に抱かせてくれた恩義があった。
(しっかり洗脳されやがって。どうなっても知らねえぞ)
アルフォンスはレナードに背中を叩かれながら内心毒づいていた。
ばさッ‼
速人は布の端を両手でつかむとそのまま捲し上げた。
ついに羊の肉が観客たちの目の前に晒される。昨日のうちに軽く燻されて表面が薄い茶色になった羊の肉の上には赤と緑と白の様々な香草や香辛料が乗せられていた。
速人は肉のいくつかの場所にナイフを突き刺して、そこから肉汁を出した。
じゅわわわ…。
肉汁から肉とスパイスの芳香が一気に流れ出す。
ある程度まで余計な水分を追い出すことに成功すると速人はナイフを使って肉の部位ごとに切り分ける。
アルフォンスは速人の華麗なナイフさばきを鑑賞していた。
あたかも肉の表面に描かれた見えない線に沿うように、速人は羊の肉を部位ごとに切り分けていった。
そして出来上がったブロックごとに皿の上に乗せる。
速人は羊の肉、一頭分を切り分けて八つの大皿に乗せていった。
今度は皿の上に布をかぶせてから別の用事の為にキッチンに戻る。
その間エイリークとマルグリットが肉のところまで行こうとしたが仲間たちの必死の抵抗にあって目的を達成することは出来なかった。
やがて速人が雪近とディーを連れて大きな刃物を持って肉の乗っているテーブルまで戻るとエイリークとマルグリットが縄でぐるぐる巻きにされて地面に転がされていた。
今度はダールとエリーまで埃まみれになっていたのでかなり抵抗されたことは間違いないだろう。
速人は二人に向かって深々と頭を下げる。
次に速人は羊肉用のソースと取り皿を用意するとエイリークとマルグリットの捕縛を解いた。
それからダールに向かって手招きをする。
ダールは首を傾げながらもエリーとレナード、そしてセイルたちを率いて速人の元にやって来る。
そして速人はダールとエイリークに肉を切り分ける為のナイフを渡した。
「…おい、速人。俺は食べる人であって、食べ物を用意する人じゃねえんだがな」
ダールはナイフをじっと見つめると手に持っていた。
少なくともダールにとっては見覚えのある光景だった。
「待ちなさい、エイリーク。どうやら私には速人の考えている事がわかってしまったようだ。エリー、すまないがジャケットを預かってもらえないか?」
ダールは黒いジャケットを脱いでエリーが受け取る…予定だったがセイルとベンツェルに渡すことになった。
その後、ダールはシャツの袖をまくってから皿の上に乗っている羊の肉を切り始めた。
エイリークは呆然とした表情でダールの姿を見守っている。
エイリークにとっても見覚えのある情景だった。
但し、その頃はエイリークの父親マールティネスがダールの手伝いをしていたことを記憶している。
(ああ、そうだ。あの時も牛じゃなくて羊だったな…)
エイリークもまたジャケットを脱いでダールの隣に行った。
エイリークはダールが切った肉を皿の上に乗せてまずマルグリットに渡した。
「マギー。食ってくれよ」
エイリークはマルグリットに皿を渡すとすぐにテーブル前に戻る。
ダールに何か言われたようだったが、エイリークは笑って誤魔化して肉の乗った皿を仲間たちに配って歩いた。
「レミー、アイン。これはアンタ達が食べなよ。アタシはちょっといいからさ」
マルグリットは涙を拭きながらレミーとアインに皿を渡した。
レミーとアインはわけもわからずに羊肉のスモークローストを食べる。
速人の作った料理はいつも通りの非の打ち所の無いものだったが、今日に限っては胸の奥に響く郷愁のようなものが感じられた。
マルグリットはレミーとアインが食べ終わるところを見ると小走りでエイリークの元に向かう。
そして張り切って二人の手伝いをしていた。
(普段は喜んで食事の支度なんてしないくせに。変なの…)
レミーとアインは手を繋いで両親とダールを手伝いに向かった。
「速人」
「ダグザさんか。どうしたんだ?」
ダグザが食器を乗せたカートを押している速人に声をかける。
隣にはアダンを抱っこしたダグザの妻アレクサンドリアの姿があった。
「エイリークの両親と私の両親が協力して、みんなの為にパーティーを開いていたことを知っていたのか?」
「まあな。でも俺がやった事は少しばかり準備を手伝っただけで、本当に頑張ったのはダグザさんたちだぜ?」
速人は二ヒッと不気味に笑うとカートを押しながらキッチンに移動する。
「ありがとう、速人。今日の事は生涯、忘れない」
ダグザは速人の背中に向かってお礼を告げる。
しかし、結局二人はデザートの時に再会することになったので気まずい思いをすることになった。




