悪役令嬢は鞭を振るう その後
パシン、と軽い音が響く。
「はぁぁっ!!」
シュン、と風を切る音と、ピシッという打撃音。
「ああーっ!!」
耐え切れずに漏れる、人の鳴き声。
そこには、老年に差し掛かった男が床に四つん這いで踠き呻いていて、その背後で彼に鞭を振り下ろすわたくしの姿があった。
無表情に老人を鞭打つ残虐非道なわたくしの名はヴァレニエ。元ブレッド侯爵令嬢。
現在は平民の身分になったので、姓はなくなり、ジャンの実家であるバラヤ男爵家に居候中の身だ。
そんなわたくしの元へ元ブレッド侯爵領の領民が訪れたのだ。
「ああ〜、ありがとうごぜえましただ、お嬢様。お陰で腰が軽くなりましたです。」
鞭打たれていた老人が深々と頭を下げて礼を言ってくる。
「礼なんて良いのよ。いつもお野菜や果物を持って来て下さるのだもの。」
元ブレッド侯爵領は王都から程近く、馬車で半日程の距離にある。時折領地で作った野菜や果物を持って王都の市場へと下ろしにやって来るのだ。そのついでにバラヤ男爵家へ寄り新鮮な野菜や果物を置いて行ってくれる。
正規の金額を払おうとするのだが、中々受け取ってくれないのが困り物だった。
何か礼をと言うと、鞭で打ってくれとの言葉である。わたくしにチベットスナギツネが憑依するのも仕方ない事だと思う。
「やっぱり、お嬢様に鞭で打ってもらうとシャッキリするだな〜。」
先程の絵面と違ってホノボノとした表情である。違和感が半端無い。
元々は、時々領民を虐げに行く両親に代わって、わたくしが領民を打ち始めたのが切っ掛けだ。
搾取の方はどうしようも無いが、せめて怪我せずに働けば生きては行けるだろうと、わたくしが細心の注意を払い領民を虐げてきたのだ。何故かよく分からないが、わたくしが鞭を振るってきた領民たちはわたくしを慕い、気安く声を掛けてくれる様になった。今でも時折バラヤ邸を訪れて挨拶しに来てくれる。
「薬師や医者に見せても全然治らないのに、お嬢様に鞭で打ってもらうと痛みが取れるだよ〜。」
わたくしの鞭はマッサージ効果でもあるのだろうか。
元領民の農夫はまた来ると言ってにこやかに帰って行った。
それを見送り、邸内へと戻ると、こちらを恨めしそうに見ているジャンの姿が目に入って来た。
「農夫には鞭打ってやるのに、私には打ってくれないのですか……?」
涙目で訴えて来る男は、この館の主人、ジャン・バラヤ男爵だ。
彼とわたくしは主従の中だったが、ブレッド家が断罪され、ジャンがわたくしを庇護した為、立場が逆転してしまった。にも関わらず、以前と然程変わらずに過ごしている。
それというのも、ジャンが今だにわたくしをお嬢様呼びするからだ。他の使用人達も同様にお嬢様呼びをしてくるので、中々感覚が抜けないのだ。
以前、わたくしの立場は、バラヤ男爵家の平民の使用人の一人なのだから、もう少し立場に寄り添うべきだろうと、ジャンをご主人様呼びしたら、土下座されて頼まれた。
元侯爵令嬢時代と変わらず、黒薔薇の女王様でいて欲しい、と。
黒薔薇の女王……。
この王族に対して大層不敬なそれは、乙女ゲームの中のヴァレニエ・ブレッドの呼び名だ。
夜会でも控え目にしていたし、女王様らしい事は鞭打ちくらいしかしていない筈なのだが、これがゲームの強制力というものか、と遠い目で虚空を見つめる。ストーリー改変には仕事をしなかった強制力だと言うのに変な所で仕事をしないで欲しい。
ゲームとは違い「様」が付いているので、少し違う気もするが。
「お嬢様、お嬢様、久し振りに乗馬鞭でも致しませんか?気分転換にでも。」
ジャンが気を取り直したのか、にこやかに話しかけて来る。
乗馬を進めている様な口調だが、これは乗馬服を着て、乗馬鞭で打てという意味だ。この場合、馬はジャンである。当然、断る。
「わたくし、部屋で刺繍の続きをする予定がありますの。」
「そ、そうですか……。」
ガッカリして肩を落とすジャンが少し可哀想な気もするが、わたくしは脱女王様を目指している身。平民の使用人としてジャンに支える立場だ。主人を鞭打つなど、とんでもない話である。
その場を辞して、わたくしに与えられた自室へと向かう。
わたくしの以前の身分を考慮してくれたのか、その部屋は二階の主人の部屋近くにある、使用人には大き目の部屋だと思う。その部屋でのんびりとバラヤ男爵家の紋を刺繍したり、ジャンにお茶を入れたり軽い食事を作ったり(基本的には料理人が作るので、わたくしが作るのはサラダやお菓子類のみ)と、使用人としてはかなり良い扱いをしてもらっている。お嬢様育ちのわたくしが出来る事が少ないという理由からだろうが、大変有難い話である。
たまに、朝起きるとジャンがベッド横のマットになっていたりする事があるが。
平民になったとはいえ、男性が淑女の寝室に侵入して来るのは如何なものだろうか。どうせ私はまともな結婚など出来ようも無いだろうから、お嫁に行けないなどと嘆く必要はないのだが。
とにかく、以前の殺伐とした元実家とは違い、のんびりと穏やかに過ごせている。この先、ジャンが奥方を娶る際には、出て行かないといけないだろう事を思うと、少し寂しい思いもする。
わたくしは、自分の立場が、ジャンの内縁の妻となっているとはまったく思いも寄らなかった。
そして……。
「最近、お嬢様に放置されているのです。」
ジャンは、美しい女性と城の中庭で会話をしていた。
「ヴァレニエ様が?婚姻の贈り物を(無理矢理)受け取って貰って、正式では無いにしても夫婦になったのでしょう?」
「ええ。ですが、バラヤ男爵家に帰って以来、鞭打ってくれなくなったのです。どうしたら良いのでしょうか、グラノーラ嬢」
「そう……。ん、きっとそれは、放置プレイね。」
「どういう意味ですか?」
「とても高度な技術を駆使したプレイよ。ジャン、貴方はヴァレニエ様に鞭で打って欲しいのでしょう?でも、ヴァレニエ様には打ってもらえない。」
「はい……。」
「それはね、ヴァレニエ様は貴方の心を鞭打っているのよ。」
「心を!?」
「えぇ。放置されて、他の人を鞭打っている所を見せ付けられて、貴方の心は傷んだ事でしょう。その痛みこそが、ヴァレニエ様が貴方に打った心の鞭の痛み!」
「成る程……。確かに、胸の奥がジンジンと痛む気がします。そうか……。この痛みを耐える喜びこそが、お嬢様の愛の鞭なのか……。」
わたくしの預かり知らぬ所で、ジャンは新しい進化への扉を開きそうになっていた。
攻略対象の欲しい言葉をくれてこそ、ヒロイン。