SAOA(SAO3期)
またアニメとなろうの話題かといわれてしまうかもしれない。皆が関心を持つからじゃない。私自身がそれがとても関心を持つからになる。以前やや否定的に扱ったが、この作品はもろ設定厨が楽しい作品だなと思う。ただ見てる人はそうでもないどころか逆に変わらないSAO人気が維持されてる。オバロの原作厨の映像批判みたいのは特に無い。
その外から見た意見になる。ただ私は信者って言葉が嫌いだ。地上波で通常枠で高い視聴率でアニメを見ていた時代と違う。今は特定の好みに訴えるものが少数の強い感情を持った人をそれぞれのアニメで集めて楽しむ時代だと思う。そういったばらばらな集合体が深夜アニメの視聴者だと思う。
ただそれじゃ人それぞれで終ってしまう。多くの場合は1つの作品のファンに収まらない。様々な作品を好み、そこには特定の傾向がつかめるような共通性もある。だが、この作品の今回のツボはマニアックだと思う。基本的に異世界ファンタンジーの生活刺激だと書いた。だがそれはどうやってもたらされるか?で映像による刺激、文字による刺激と分かれる。
その点どうやっても文字でしか伝えられない刺激にSAOAはなってる。しかもスタートしてすぐだ。しかもだ、続編は前見て無いと楽しめないというのが多いが、そういうタイプの情報の積み重ねではない。明らかに今回スタートする新たな情報だと見ている。ただし他の作品が意味が無いわけじゃない。同一作者のアクセルワールドがとても世界観が似ている世界になる。
加速がキーになってる。これは中々面白い発想だと思う。SFは科学的緻密さにあると思うが、それでも実現可能なアイデアってのに刺激を受けるのは否定できない。そういった古き良きSFの良さがこの加速にはある。作者のオリジナルではないらしい、だがそんな事はマニアにだけ語らせれば良い。元からあるSAOと言う魅力的な世界観でそれをするなら作者の半オリジナルと言って良い。どれだけ魅力的なアイデアもそれを生かす全体がしっかりしてないと瑣末なものとして人々の記憶には残らない。
加速された現実とは時間の流れの違う世界。この魅力を十分に生かしている。まるで吸血鬼者をみるような面白さだ。数日キリトは仮想世界から遠ざかって現実で生活していただけで、作中では7年の月日が流れている。まるでこれは浦島太郎だ。キリトは前回の記憶が無いため、その事を知らないが、受け手はそれをダイレクトに感じられる。面白い部分だと思う。
だがそれらを楽しむためには詳細な新しい加速による仮想世界の世界観を知らなくてはならない。これは絵では無理だ。以前から私は仮想世界物は発展しないと書いてきた。理由はアニメ向きじゃないからだ。アニメ自体が仮想世界だと言う点が大きい。仮想世界で仮想世界を表現するってのを絵でやるのが不可能に近い。
キリトがそれを異世界と違うと区別した根拠は、ゲームウインドウを表示したためになる。なろうではそれもコミの異世界も多いが、それは置いておいて良い。ようは映像的な仮想世界ってのはこれだけに限られる。地味すぎない?
映像的にではないなら、文字によって表現される可能世界のキーは、キリトの内部に生きている人間に対して向けられる。ログインした現実世界にいる人間じゃない。これらのキリトの考察は興味深く楽しめるが、やはりそれはすべて文字情報になる。キリトが考察してくれるから成り立ってるが、これをもし地の文でやったらどうなっていただろうか?
小野学監督はSAOによって、魔法科も任されたが、あれはかなりできの悪いアニメ化だった。それは根本的にアニメ向きじゃないのを露呈したもので、小野監督の力量不足だとは思わない。アニメ監督なら大体あの範疇に納まるだろう。そしてお兄様をコケにしておちょくるような演出をしたために、それによって本来のコア層とは違う。笑って許容するライト層向けに仕上げられた。
それはそれで宣伝って意味では良い事をしたと思う。だが魔法科の魅力を大半が勘違いして受取る事に繋がってしまった。その人がSAOAをやったらどうなるか?んまーキリトの脳内考察によってそれは救われているが、正直この監督也の工夫は見える(魔法科もそうだが説明にアニメ映像を独自に作って説明するというプレゼン的な上手さはあることはある)がそれはあくまで一部に過ぎないと見ている。ただし私は原作未読であるため原作読者の不満から拾い上げた結果に過ぎない。
じゃ何故小野監督は任されたのか?ならSAO1期はそんなに文字向きな面白さじゃないと思う。正直SAOが上手くいったのはただの偶然で、映像が綺麗だった程度しか良い部分は無い。SAOはSAOAでつまらなくなったのじゃない。見ていて、これ面白さの質が違うんだと分かる。
後展開が遅いのは当たり前だ。大半を世界観を感じるためのキリトの考察に費やしてるから。それは根本である異世界「仮想世界」生活のための刺激のための前提になる。
私は設定厨気味だと思うが、映像だろうが、文字だろうが、世界観を感じ取って生活してる心地良い刺激を感じる根本は決してマニア的な刺激ではない。ただそれが西洋風ファンタジーに限定されるなら偏ったものになるだけで。当然映像によってそれを感じるほうが多数だろう。だがそもそも世界観を感じ取ってそこに生活する心地良さはかなり重要な刺激だが、それを言語化して認識できてる人は少ない。
曖昧でただ好きだからそんな漠然とした感想に価値は無いのか?ならある。頭を使わない刺激ほど言語化が困難である。どうやって言語化するか?は数多くの似た作品を見てその共通点を探ることになる。私はストーリーも刺激的だが、ジブリにこれがあると思ってる。そしてこの共通性の確認としてクリエイターの存在が挙げられる。
メイドインアビスというアニメは、漫画は違うのだろうが、アニメの映像は元ジブリのアニメスタッフがつくった部分があると聞く。実際何かメイドインアビスに感じる独特の心地良さはジブリじゃないか?と私見ている。何故ならその情報を知る前からこれジブリに似てないか?とアニメ映像に対して感じていた。こういった刺激は実際に存在する。そしてそれはとても重要で強い刺激だという点も書いておく。
残念だが映像は良いと思うが、SAOAはそれを言語によって感じる部分が強い。SAOはさすがに3期になって信者向けコンテンツになったなとか安直に言う人も要るだろう。本当にネットの低レベル。しかもこれを真に受ける凡庸な人間も多い。真実は、1期の大衆向けな刺激に溢れた部分より、より世界観刺激を重視した作りと、それに対してマニアックな設定厨が感じ取れる言語情報によるものって点で、万人向けの部分が落ちたからになる。
それ信者向けでしょ?で、信者って何?ってなる。特定のマニアは信者?違うでしょ?中身が空っぽな無意味なものに意味も無いただSAOというだけであり難がってる盲者がそれに当たるのでは?きちんと分かる刺激だが特定の人しか刺激にならなくて、SAO終ったみたいにして信者向けだこれってしてるだけでしょ?
私はいい加減で適当な情報が撒き散らされるネットの批判が大嫌いでいつも書いてる。SAOAが1期と較べて変化したのは事実だ。そしてそれは人を選ぶ作品になってしまったのも事実だ。しかし、マニアックな作品を楽しむものを信者と評するのは違うでしょ?楽しみ方に明確な理由が無い。それが信者であって、楽しみ方に明確な言語化が出来ないのは信者コンテンツではない。
楽しんでるが言語化がとても困難なんだ。設定厨までは説明できるが、その奥にある世界観生活刺激ってのはかなり難易度が高い。それをただ頭を使わず楽しめれば良いって人から出てくると思うか?SAOは映像だけからも十分その刺激があるぞ?それを十全に楽しむには3期のSAOAは言語情報が重要だってだけだ。
自分が楽しめない、少数の人間だけが楽しめる。それは信者コンテンツだとするのは間違いで、それはSAOだけじゃなく多くの作品で適用されるネットのゴミ批判の1つだ。