1章 彼女の望んだ平穏
夜更けの街、人気のない裏路地を霊珠マリンは歩いていく。
背は低くスレンダーな胴にきゅっと引き締まった四肢。細い腰の上辺りまで伸びたさらさらの銀髪。幼さは残るもののしっかりとした顔立ちで、そこに映えるアメジストの瞳。白をベースとした服装に上から黒を重ねているゴスロリちっくな服装の上にフード付きのローブというまさに魔女そのものと言った風貌の彼女は、ある業界ではこう呼ばれていた。
予言者マーリン。
父は占い師、母は行方不明。二つ離れた兄の家庭で育ったマリンには特にこれと言った特徴はなかったが、唯一の取り柄は父に教えてもらった占いだった。
占いとは一種の魔術で、幾億年も昔に魔法少女の親を持つ子が故意的に祖先帰りすることによって可能とするものだった。
占いの他にもいろいろな魔術があるそうだが、マリンの家計はこれしか出来ないらしい。
何の役にも立ちそうにない占いだが、魔術の覚醒遺伝子を持つ人の殆どが魔法少女の親を知らないために魔術の発症がなく、魔術そのものの価値は高いため使えるようにしておくに越したことはない、と父がマリンに魔術を教えてくれた。
マリンの占いはまだまだ未熟で、父のように十中八九当たるようなものではなかったが、並の魔術師よりはまともに魔術を使えていた。
だがしかし、それも数日前のこと。
マリンは数日前に魔法少女になり、魔術の腕は格段に上がっていた。
魔法少女の力なんていうのは魔術師に言わせればドーピング程度、と父は言っていたが実際それは違うらしく、今までの占いなんて取るに足らなかった。
未来過去現在、全ての平行世界、相手の心理思考、この世界の原点。魔法少女となった後のマリン自身のこと以外その全てを見透かすことが出来た。
だがそれらの力はあくまで占い師の力の上昇に過ぎず、魔法少女としての個々が持つ能力もあるのだとあのサンタさんは言っていたが、その後サンタさんは黙ったまま口を聞いてくれなかった。
言うまでもないがそれは莫大な力で、その力を手に入れてしばらくは制御なんてもってのほか、自分の意思に関係なく人の心の闇を汲み取ってしまった。
それ故にマリンはこのような所にいる。
恐怖からか震える足を引き摺りながら、少しでも離れた場所へと、少しでも遠くへと歩いていく。
マリンが魔術を教わることになったある日、父はマリン達兄妹に魔術は子の内の1人、より優れた方にしか教えることができないと言った。魔術の適正はマリンにあり、マリンは憧れだった兄に勝つことが出来たと胸の中は嬉しさでいっぱいだった。その反面、兄はそうではないらしく、その日から心の中には闇が満ちていった。
その対象は、初めは魔術を兄に教えようとしない父であったが、次第にマリンへと向いていた。
暴力的かつ性的な暴行意欲が高まり、なんとか抑えてはいるようだがそれも時間の問題だった。
そんな兄の心中を見てしまったマリンは、次は魔法少女にならなかった場合のマリンの未来を見た。
兄によって凌辱される未来、酷い暴行を受け、反抗すれば殴られる奴隷のような日々を送る未来、どれも死んだ方がマシだと思う未来しかなかった。本当に死んでしまう、あるいは殺されてしまう未来だってあった。
だからマリンは逃げた。
唯一見えなかった未来の可能性に沿って、希望を託して家を出た。
「今日はハロウィンなのね…」
裏路地から大通りへと繋がる小さな通路の隙間からは、オレンジや黒、無駄に明るく光る装飾が垣間見得る。
だが、そんなものはマリンには関係の無いことで、それよりも今は遠くに行かなくてはならなかった。
遠く?遠くってどこ?
そんな疑問は前々からあったのだが、眩しい光を見てしまったせいか自分が歩む黒く汚れきった道を見てその不安は増してくる。
「どこへ…どこへ行ったら……」
マリンは不安を声にして吐き出す。吐き出したところで胸の中でまだ湧き出てくるのだが。
「およ、悩み事かい?」
頭上から明気な声が聞こえる。
宙を見上げると、一人の少女がいた。
月の光で顔や服装はいまいち見えないが、彼女もまた魔法少女だ。
名前は教えてもらっていないが、数日前、マリンが魔法少女になったその直後に声をかけてくれた人だ。
「別に、悩みっていう訳じゃないけど」
マリンがそう答えると、少女はんー、と喉を鳴らす。
何かを思案しているように顎に手を添えて首を傾けること数秒、ぽんと手を打ってから続ける。
「とりあえず暗いとこで暗くなってないで、向こう行って明るくハロウィンしようよ!」
マリンは非常に頭が痛かった。
マリンの予言の力は魔法少女には効果が薄いのか、はたまたこの少女が阿呆なだけなのか、全く心が読めない。まあどちらにせよ間の抜けた人に変わりないだろう。
小学生かよと言いたくなるような阿呆な言葉に内心イラつきながらも落ち着いて言葉を返す。
「今は、それどころじゃないから……」
そう言って暗い道の闇の先へと歩みを進めようとすると、少女はマリンの前に立って歩みを止める。
「まあまあ、そんな事言わずにさ。何か心配なこととか、不安なこととか、言ってよ。力になれるかもしれないからさ」
ところどころ阿呆だと思うが、それでもしっかりしている、出会って間もないそんな少女にマリンはどこか心を許していて、兄のこと、行き場がないことを全て話した。
「そっか、それじゃあさ、教会へ行こう。教会の神父さんって元は魔法少女の夫で魔術師だから魔法少女の監視を任されてるの。だから相談したら何かしらしてもらえるかも」
その彼女の提案に頷き、隣町の教会を目指すことにした。
大通りのテディベアショップに装飾されたハロウィンの装飾であろうツギハギだらけのぬいぐるみは、じっと二人の少女を見つめていた。
***
隣町まで徒歩で行くとなると、丸2日はかかるらしい。
隣町、といってもマリンの住んでいる栄えた街とは違い、ほかの町は全て田舎なのでかなりの距離があるようで、たどり着くまでには森を一つ抜けなければならないとのこと。
でも、不安なことは何一つなかった。
占い師の父、行方不明の母、占いができる娘。
周りの者は近寄り難いのだろう、そんな兄を除いた現実離れした家族構成のマリンは学校に行っても友達なんか出来ず、むしろいじめられていた。
その度に相手の不幸を願いながら占って相手の幸せな未来が映ると言うことが度々あり、その度にまたも心を沈めていたものだ。
しかし、今は違う。
友達なんて呼ぶのはむず痒いけど、親しくしてくれる彼女がいる。ただそれだけで安心できた。
「さ、もうすぐ街を出るよ」
彼女の声に応じ、考え事に浸っていた脳を覚醒させて目の前を見る。
夜ということもあって酷く不気味で歪に見える枯れ木の森だが、それでもマリンの瞳には新鮮で美しく映った。
「と、その前に。夜に森に入るのは危険だからさ、今日はこの辺で寝よ?」
お金持ってたらホテル泊まれたんだけど、ごめんねと舌を出しながら謝る少女に大丈夫と返してから、通路上に散らばった新聞紙やダンボールで軽い敷布団を作り横になった。
負のオーラの充満する裏路地で夜を明かすのに一抹の不安を感じつつも、これが最初で最後、教会に付いたらもっと綺麗なところで寝られるのだと思えばそれも苦ではなかった。
翌朝。
…リン……きて……
マリ……
「マリー!」
「ん……?」
マリンは少女の声で起きた。
上半身を気だるさという重みごと起こすと、欠伸を噛み殺しながら伸びをする。
「…それで、マリーって誰?」
「マリンの愛称。可愛いでしょ?」
自分の名前、教えたっけ。と思いつつもそーだねそーだねと生返事を返す。
「むぅ…なにその反応」
頬を膨らませる少女を無視しつつ、立ち上がってから再び全身を伸ばす。
「朝ごはん、どうしよっか」
隣町に行くにあたって、一番大事なのはエネルギーである。
なんせ丸二日かけて森を抜けなければならないのだ。必要な食事を取らなければ道中で倒れバッドエンドだ。
ちなみに二番目に大事なのは神父さんがイケメンかどうか。
「うーん…友達にこういうの聞き辛いんだけど、マリーはお金持ってる?」
「ううん、家に置いてきちゃった…」
父ほど当たる訳では無いが、以前は占い師見習いとして父とは別で営業をしていた。
貧しい生活の足し程度にしかならない儲けだったし、貯金も雀の涙ほどでしかなかったが、少しでも父の支えになればと全て置いてきてしまったのだ。
「となるとなぁ…」
「どうしたんだいお嬢ちゃん達」
二人で考え込んでいると、不意に背後から紳士が持っていそうな低い声が語りかけてきた。
「「ひっ!?」」
振り向くと、高身長な身を全て覆うほどに裾の長い黒のロングコートに革の手袋、首と思われる所にはマフラー。布面積が多く、頭部と足元以外肌の露出がない服装のモノがそこにいた。
もっとも、そいつに肌があるのかは分からない。
だって、頭はかぼちゃで足がないんだもん。
「おやおや、驚かせてしまいましたかな。私め、ジャック・オー・ランタンと申します。どうぞ気軽にジャックとお呼びください」
そう言って、手を前、もう片方の手を後ろに引いてからお辞儀をする。
前にやった手の付け根部分の手袋とコートの隙間から中身が覗いたが、やはり中に何もなし。
本当に怖いからやめて欲しい。
マリンと少女はお互いの身を抱き合いながら震えていると、ジャックと名乗ったかぼちゃは頭部の天辺、ヘタの部分をつまみ上げた。
すると、パカッと軽い音を立てて円状の穴が開き、そこから頭の中に手を入れる。
その際、ジャックの手袋はコートの袖の部分から離れ、完全に宙に浮いた状態となった。
「そんなに怖がらないでください。取って食べたりなんてしませんから。私にはこれくらいしか出せませんがよかったら食べてください。食べるものがなくて困っているのでしょう?」
頭の中にどう収納されていたのか、木の器いっぱいに注がれたかぼちゃスープをそれぞれに一皿ずつ手渡した。
怪しげに思ったが、他に食べるものがない以上これを食べるしかない。
半身がスープに入浴しているスプーンを手に取り一口含む。
熱すぎず、かと言って冷えていない程よい温度の甘いかぼちゃスープはとても美味しく、母が生前作ってくれた料理と並ぶくらいのものだった。
黙々とスプーンを動かしているとあっという間に完食してしまい、おかわりをいただけると言うのでお言葉に甘えることにした。
「かぼちゃは」
「ジャックとお呼びください」
「…ジャックは何をしてるの?」
まだ食べたりないのか、おかわり!と皿を差し出しながら少女が訪ねる。もう4杯目である。
「何をしている、とな。難しい質問ですな。強いて言うなら休暇をバケーションしている最中ですかね」
「頭痛が痛いみたいなことを言わないでください」
眉間を抑えながら呆れるマリン。
この人…かぼちゃ、少女以上に阿呆の子かもしれない。
「私、ジャック・オー・ランタンの仕事は年一回こっきり故、暇でしてね。こうして悩んでいる子供の前へ化けて出て助けているという訳ですよ。もっとも、ただでとは言いませんがね」
「はあ…」
勝手に現れてお代まで要求するとか質悪すぎるでしょう…。
「そのお代ってやつ、もしかしなくても私達も払う感じなの?」
皿いっぱいに注がれたかぼちゃスープを受け取りながら少女が問う。
「ええ、ええ。もちろんですとも」
「でも私達、お金も何も持ってませんよ?」
少しでもお金になりそうなものはマリンのローブくらいで、その他はもう服しかない。
服をよこせと言われたら乙女の純潔を渡せと言っているようなものだからつまるところ通報ものである。変出瓜である。
「いえいえ。ヘーキですよ。私が頂きたいのはあなた達みたいな若い娘のジュンケツです故」
「やっぱりだ!変態!変出瓜!」
そもそも出で立ちからしてそうであるが、やはりジャックなるかぼちゃは変出瓜であった。というか浮いて喋るかぼちゃが変出者でないはずが無い。
「失敬な。変出瓜は認めますが変態ではありませんよ。私が求めるのは純潔ではなく純血ですよ。純粋な血と書いて純血です。アンダスタン?リピートアフタミー?」
「よかった…少しイラっと来たけど一安心ですね」
本当は少しどころじゃないんですけどね。
「おかしいでしょ!全然安心じゃないっ!」
軽めの雑談をしながらスープを飲むこと数分。空になった器をジャックに返し、満たされたお腹を撫でる。
「それじゃあ、私達はこの辺で。早めに向こうに着きたいので」
話していると意外といい瓜で、純血の件も冗談だとの事で特にすることも無い身支度をして立ち上がる。
「おっと、一番大事なことを伝えるのを忘れていたね」
マリンと少女に続いてジャックが立ち上がると、マリンの1歩手前まで歩み寄って跪く。
「かぼちゃが仲間になりたそうにこっちを見ている」
「「は?」」
ちょっと待ってよく分からない。
つまるところ隣町まで着いてくるのだとか。
そんなの答えはとっくに決まっていて、考える余地もない。
マリン達の空腹を満たしてくれて、それにある程度人柄も分かったのだ。
「かぼちゃを仲間にしますか?」
せーの。
「「いいえ!!!」」
「かぼちゃが仲間になった」
「「帰って!」ください!」
どれだけ拒否し続けても聞かないのでジャックも共に行動することになったのだが、もとよりこちらからお願いするつもりだったので、むしろ相手から言ってきてくれるのはありがたい。
仲間とか友達とか、そういうのがどうのとか言うのって苦手だから。
ともかく、貴重な食糧源を仲間にしたので改めて出発とした。
街の外に出る門を通る際、門番に止められたが魔術が使えるらしいジャックが門番に催眠術をかけて難なく突破することができた。
「すごい、綺麗…」
夜の森も魅力的だったが、昼の森もまた美しい。
夜の鬱々とした雰囲気とは違い、木の葉こそ枯れていれど、開けた視界1面に広がる森は地球の奇跡を感じさせた。
そして今からそこへ向かうのだ。
残した父や、気が狂ってしまいそうな兄が心配だが、兄のためにもマリンはこの街を去るのがいいのだろう。
森に入る前に一度振り返り、大切な家族、大好きな母と共に過ごした街を目に焼き付け、目を閉じて礼を言う。
ありがとう。
きっとまた、顔を見せに来ますから、その時まで幸せに暮らしてください。
言葉に出さずに行ったその行動に、何をしたのか察したのか、目を開き二人の元に戻ると、ジャックは黙って頭を撫でてくれた。
そして少女は笑って向かい入れてくれた。
森の中へ入ってからは、特筆するべきことは特に起こらなかった。
街の中では発見できない生物に触れることが出来て新鮮だった、というくらいで、本当にこれでいいのだろうかと不安になってしまうほど何事もなく進んだ。
出発してから三時間程経つのだろうか、太陽はマリン達のちょうど真上に君臨していた。
「そろそろお腹が減ったろう?もう少し進んだところに湖があるから、そこでお昼休憩にしようか」
「はーい」
「はい…」
ジャックの提案に暇そうに返事をする少女とは裏腹に、マリンは静かに、というか今に倒れそうな声 で答える。
前にも言った通り、マリンには友達がおらず、外で遊ぶことは滅多になかったため、肉体的体力が無いのだ。
兄から逃げるために街を出るのはいいが、やはり隣町まで行くのは無理があるだろう。たった数時間歩いただけでこの疲労だ、きっと教会にたどり着いた頃には息絶えている。
「マリン、大丈夫かい?」
ふらふらとした足取りで重い足を交互に前に出しながら頷く。
「隣町までまだまだあるから、無理はしないでおくれよ」
そう言ってジャックはマリンの頭を撫でる。
そこから十分程度歩いたところで湖にたどり着いた。
湖の大きさは一般的な高校のグラウンド程度の大きさで、水は透き通って小魚が泳いでいるのが伺える。マリン達のいる方とは丁度正反対の岸に水を飲んでいる鹿の親子がいたが、マリン達に気づくとどこかへ去っていった。
「それじゃあ、ここらでランチとしようか。疲れたろう、そこの湖で疲れを癒してきたらどうだい?」
マリンと少女が湖を覗いていると、ジャックが後ろで昼食の準備をしているのか、がっちゃがっちゃと音を立てながら声をかける。
「と、言いますと?」
「せっかく綺麗な湖があるんだ。全裸の娘がいないと勿体ないだろ?」
ゴンッという鈍い音と同時にかぼちゃが地面に落ちた。
取り外し可能らしい。
「まあまあ、冗談だからそんなに怒らないでくださいまし。可愛いお顔が台無しですぞ?」
「ジャックの人格の方が台無しですよ!」
頭を持ち上げ元の位置に固定しているジャックに突っ込む。
だが、確かに湖で水を浴びるのは悪くは無いと思う。ここまで来るのに汗をかいたし、自然の中で身を清めるのはマイナスイオンがどうとかで疲れが取れそうだ。美容効果とかもありそう。よく分からないけど。
「怒ってないでマリーも入ろー?冷たいけどーきもちーよー」
服を脱ぎ捨て先に水に浸っている少女が、温泉に入っているかのように気持ちよさそうに半目でマリンの方を見ながら言う。
「うん、今から行く。でも、その前に」
その前に。
ガコッ。
少女の裸体を凝視している変態瓜を殴った。
マリンも湖に入り、ぷかぷかと浮いている少女の隣に進んでいく。
服は岸辺に畳んで置いてあり、その隣には少女の服が散らばっている。その数メートル先にはジャックの背中が見え、何やら作業をしている。恐らく昼食を作ってくれているのだろう。
湖は冷たかったが、寒くはない温度で、中心の方へ行くと深くなるのだろうが岸の近くは胸辺りまでと丁度良い深さだった。
「ん、マリー。ぷかぷかするの気持ちいいよー」
水をかき分けて少女の隣へ歩いていったマリンに少女が声をかける。
が、視線はマリンに向いておらず、幸せそうに青い空を見ている。
「こんな感じ…?」
マリンも少女の体制を真似て仰向けに浮かぶ。
「そー。そんなかんじー」
少女がマリンの方に顔を向ける。
マリンの手と少女の手が触れ、指と指を絡ませてお互いにぎゅっと握る。
少女もマリンも、顔を見合わせて笑いあった。
こんな日々がずっと続けばいいのに。ずっと一緒にいれればいいのに。
昨日あったばかりの少女に、いつしか特別な感情を抱いていた。
お互いの体が水に引かれ合い、肩と肩が触れる。
運動不足でボタついているマリンとは違い、きゅっと引き締まり、しかし少女特有の柔らかな肉質がある腹、筋肉が少なく顔をうずめたくなる太股、スベスベ肌の腕、慎ましやかな胸。
全てが愛おしかった。
「ねぇ…」
「どうしたの?マリー」
「……ううん…」
今はまだ言わない。
この感情が一体何なのか理解ができないマリンにはどう伝えたらいいのかわからないのだ。
「ランチの準備、出来ましたよー」
ジャックの声がマリン達に届く。
少し声が篭っているように聞こえるのはこっち向いていない証拠だろう。
二人ではーいと声を重ねて返事をする。
岸に上がると、気を利かせてかジャックがタオルを置いておいてくれた。
タオルで身体に付着した水滴を取り、畳んである服を着てジャックの元へ行く。
ジャックは大きな丸太に座りながらグツグツと音を立てる鍋をかき混ぜていた。
鍋は浮いていて、その下には小さな木の枝が複数置かれていて、それらから紫色の火が出ている。
木の枝間からちらと覗く地面に魔法陣のようなものが発見できたため、鍋が浮いているのも紫の火も魔術なのだろう。
未だ水を含んでいる髪をタオルで拭きながら、鍋を挟んでジャックの対面に転がった丸太に座る。
時期に少女もやって来てマリンの隣に腰を下ろす。
髪はしっかりと拭かれておらず先端からは水滴が垂れていて、急いで着たのか服も着崩れている。
「ジャック、今日のお昼ご飯は?」
「今日のランチはパンプキンシチューだよ」
二人がそんな会話をしているうちに少女の髪を拭き、着崩れた服を整える。
三人で鍋を囲み腹を満たすと、これは夕飯の分とまだシチューが半分ほど残っている鍋をその場から消滅させる。
夕飯に食べるのに何故消したのかと聞いたところ、これは幻術の一種らしく、言っていた訳の分からないことを簡単にまとめると、世界と深い関わりあいを持った幻術使いは一定の領域を超えるらしく、幻と現実を直結することが出来るらしい。つまり鍋を消したのも幻術で、この世から消えた現実と結びつけ持ち運びを楽にし、必要な時に現実で同じものを複製して現実に結びつける、といったことらしい。
「空腹も満たされましたし、そろそろ行きましょう」
満腹になり居眠りしている少女の肩を揺さぶりながら提案する。
「そうするとしよう。ですがマリン、体は大丈夫なのかい?」
「はい、大丈夫です。暫く休めたので夜までもつと思います」
「ならいいのだが。この旅は君が辿り着かきゃいけないんだ、君が倒れては本末転倒だよ。何でも遠慮なく言ってくれたまえ」
そう言ってまたもマリンの頭をぐりぐりと撫でるジャック。
「はい、ありがとうございます」
そうマリンが答えて、三人はまた歩き出した。
ここからはまた特筆するべきことはないが、湖を越してからはほんのりとだが鬱々とした雰囲気に包まれていったような気がした。
それはきっと日が傾き始めたからだろうと思っていた。
森に入ってしばらくの頃は人が作った道と呼べなくはない道があったのだが、今はもうその道もなく、あるとしても獣道くらいのものだ。それも手伝ってなのか、鬱々とした空気を感じられた。
マリンと少女だけでは方角を掴めず道に迷ってしまっただろうが、道についてはジャックが詳しいらしく、先頭に立って進んでくれた。
聞いてみると何度もこの森を進んでいるらしい。聞いたときに悲しげな雰囲気を感じ取れたが、これについては触れない方がいいだろう。
またしばらく進んで、日の傾きからしておよそ午後六時くらいになったであろう頃、三人は再び足を止めていた。
途中にいくらか軽い休憩を挟みながら進んできたが、時間も体力もそろそろ限界だろうとここらで休むことにした。
湖など、目印になるものは周囲にはなく、水などを補給できる場所はなかったが、幸いジャックが先の湖で水を確保していたらしいので大丈夫らしい。
夕飯のために残していたシチューを温め直しているジャックを他所に、マリンと少女はテントを張っていた。このテントもジャックが用意しておいたものらしく、マリンと少女二人で入って丁度いい大きさだった。
ジャックは入らないのかと聞いたところ、夜の森は物騒だから外で見張り番をするとのこと。
テントを張るのに苦戦しつつもようやっと張り終えたところでジャックに声をかけられる。
どうやら夕飯の準備が完了したようで、昼とは違い夜はパンもあるらしい。
バターロールなんていう庶民的なものだったが、それがまたシチューに合うのだ。
例によって紫色の火で周囲を照らし、それを囲みながらパンにシチューを付けて食べる。
三人が食べ終えた後はたわいもない話をして、一通り話し終えた後は寝ることにした。
マリンと少女はテントに入り、ジャックは外で火の番をしている。
テントの中に敷いてある布団に横になると二人は目を瞑る。
「まだ起きてる?」
中々寝付けないマリンは少女に声をかけたが、どうやら少女は寝ているようで返ってきたのは「もう食べられないぃ…」という寝言だった。
目を開けて少女の方へ顔を向けると、すぐ前に少女の顔があった。
「よだれ垂れてる…」
大きく開いた口から垂れたよだれをポケットティッシュで拭ってやると、何やらもごもごと寝言を言っている。
あまりにも気持ちよさそうに眠っているものだから、それを見つめていたマリンもだんだんと睡魔に襲われ始める。
少女のはだけた布団を直してやり、マリンの方へ向かって布団から飛び出ている手を握ってから、少女も眠りについた。