閑話:現実世界を改変する無自覚の能力者という想定の独我論
次回は来週火曜19:00更新です。
梅雨の、夏期講習を告知するチラシ配りの予定が雨のせいで延期に次ぐ延期になる時節。その日も朝から雨が降り続いていた。
学校の方針に逆らい、自分の受験に不要な科目の課外授業を抜け出して、白河は誰よりも早く塾に来ていた。早く来るという意味ではやる気があると言えるのだが、塾に来てしばらくは調子が出ず、受験に関わると言えなくはないが雑談に近い話を、白河はしばしば東堂に持ちかけていた。
「こんにちは先生。今日も断りにくい質問持って来たよ。ウザい?」
「お前はまず英単語と古典単語を覚えろと何度言ったらわかる」
「いや、今日も絶対50ページずつ進めるよ。でさ、この前の独我論の話の続きで聞きたいことがあるんです。この世界は幻かもしれないとか、自分以外の人間に自我はないかもしれないってのがオーソドックスなパターンじゃないですか。それに対する論駁も色々存在する。じゃあ、現実の世界が実在するか否かについては全部実在論者と同じ想定をしながら、しかし世界の全てが自分の思い通りになってしまっている、ってケースを想定したらどうなりますか? 実在論者の論駁を躱せるんじゃないかと思って」
「どういうケースについて言いたいのかいまいちわからない。実在するが世界の全てが自分の思い通りとはどういうことだ?」
「幻だから思い通りというわけじゃなくて、実在するのに思い通りってケースです。例えば、ある極端な超能力者を想定しますよ。論理的に不可能なことは考え付けないでしょうけど、それ以外は全部思い通り、しかしそれを自分では意識できない。例えば先生が『白河ちょっと面倒臭いな、仕事が進まない』と思ったら、先生も気付かない間に僕は席について勉強している。なんなら仕事も終わってる」
東堂は興味深げに眼鏡を上げた。
「……それで?」
「実在論者の論駁は、世界が幻ってことはない、とか、他人に心がないってことはない、ってものじゃないですか。僕の想定では、世界は実在するし他人に心もあるけど、しかし主観を持つ人物の思い通りになってしまっている。実は僕がまさにそんな存在だとして、それを僕は気付けるか? 世界の人々が実はそのような状態だとして、自分で気付けるのか?」
「加害妄想って言葉は聞いたことあるか?」
「初耳ですけど、被害妄想の反対ですか?」
「そうだ。『今日も雨が降るのはこの前私が家を出たせいだ。皆さんごめんなさい』というような類の妄想だ。あまり世間に知られていないが精神科ではメジャーな妄想の一つだそうだ。お前の想定はそれに近い印象を受けるな」
「マジでそう考えちゃったら病院行った方がいいでしょうね。で、どうでしょうか。結構ストロングなアーギュメントじゃありませんか?」
「議論と言う程か、とも思うが、まあ、手強さは感じるよ。評価しよう。否定するのは難しいが肯定する材料もない話ではあるが。経済学部に行っても文学部の授業も受けられるからその手の講義を是非受けてみてくれ。その質問はここまでだ。そんなところまで踏み込んだ現代文の出題はない」
「評価いただきありがとうございます。ホント先生、受験に役立つか役立たないかの観点で判断するよね。一貫してる。ブレたところ見たことない。見てみたい。ちょっと先生モード解いてみてよ」
「別にそう意識しているわけじゃないがな。お前らにとっては結構なことだろう」
「今の評価に免じて、2つ3つお願いしますよ。先生独身でしょ。好きな女性のタイプは?」
雨が降り続いている。生徒はまだ白河だけで、通りを歩く生徒の姿もまだ見えない。白河が身を乗り出して聞いてくるのに、東堂もわずかにそういう気持ちになって、眼鏡を髪の上まで上げて答えた。
「圧倒的な意思でこっちをブンブン振り回して欲しいね。ベリーショート、ややもすると坊主に近いくらいの短髪が好ましい。そうだな、服装は、本人の美意識が一目瞭然な、ガチガチに凝ったものがいい。それこそショーコレクションものを実際に着ているってくらい、リアルじゃないのがいいね。性格は、どうやら一般に言う悪い女の方が馬が合うと最近気付いた。貞操の観念も無いなら無いでかまわない。これで1つ消化だ」
「お、いいね先生。どこにいるんだそんな人。じゃあさ、この仕事にストレスないの? ストレスには強い?」
「お前らが落ちればそりゃストレスさ。だが、いつも通りやる分には、この仕事にストレスはないな。目的が決まっているから自ずとやることも決まる。悩まない。俺がストレスに強いとは思わんがね。2つ消化だ」
「ストレスに強くはないのくだりもう一声お願いします」
「……そうだな、お前は私大狙いの大企業志向で志望が固まってるから言い易くも言い難くもあるんだが、俺はいわゆる大企業に勤めていたことがあるが、職を転じてこの仕事をしている。辞めた理由は、言うならストレスだ。組織が大きくなるほど個々人に振られる仕事は細分化するだろう。俺は目の前に来るルーチンワークが、何のためにやってるものなのかわからなくなっちまってな。この話で、あんまり影響受けるなよ。俺には向かなくてもお前には向くさ、俺はお前を評価しているぞ白河」
「大丈夫よ先生。リベンジは任せろ。先生にも弱いとこあんのな。意外だ」
「誰にでもある。普段見せないようにしてるだけでな。それに弱さを理解できない塾講師は合格はさせられても生徒数を増やせない」
「ホント一貫してるよ。先生、ラストにもう一つ。耐え難いストレスを受けたら、どうしてる?」
「耐え難いという設定なら耐えられんのだろう。その時どうなるかはわからん。今まで生きてきて耐えられなかったことはないからな。何か、ストレスがあるのか?」
「明日香さんに振られたくらいで、別にこれといったストレスはないですよ。ウソです。超ストレスです。泣きそうです」
白河は、そこまで言うと、机上に置いていた鞄を肩にかけ、立ち上がった。白河は口数が多く、相手に二の句を継がせないような話し方をする。悪気があるわけではないが、相手に合わせてスピードを落としたり内容を砕いたりすることは、対等である相手にわざわざハンデを設けるような無礼さを感じてしまい、話す相手を選ぶようになった。また、本質的には自信のないタイプで、常におどけた雰囲気で真意を汲ませない。誰かと仲が悪いというわけではないが、彼が好んで話をするのは、和久井、明日香、そして東堂だけだった。白河は「泣く、泣く」と宣言すると、涙を零した。
「お前にはまだ早いが、ストレスがあったら、俺は好きな音楽を目一杯のボリュームにして、気の済むまでドライブするよ。あとは、好きな食べ物をつまみながら古い映画を観たりする。俺はお前のことを面白い奴だと思ってるよ。きっと報われる。やるだけやってみろ」
白河は涙を拭うと「任せて下さい」と親指を立て、受講スペースに向かった。東堂は、白河のことを確かに評価しており、彼がこの件を引き摺るとも、東堂から白河に話したことが何らか悪い影響を与えるとも思わなかった。
事務仕事に戻りながら、現実世界を改変する無自覚の能力者という想定の独我論にしばし心を遊ばせた。