言い方が厳しく聞こえたら申し訳ないが、病院へ相談したことはあるか?
次回は来週火曜19:00更新です。
明日香が大麦のカフェ・ラテを飲んだのに釣られて、和久井も焦げ茶のカップに手を伸ばした。もはや和久井のカップはほとんどからに近く、東堂は呼び鈴を鳴らした。明日香がカップをソーサーに戻した際、カチャカチャと音が鳴り、緊張を読み取った和久井は目を伏せた。東堂は全く反応を示さず「それで?」と続きを促した。
「始まりは、ちょうど高校に入学した頃だったと思います。不意に脳裏に視覚的イメージが走るということが数日に一度、起こるようになりました。意味のあるものとも思えませんでしたし、特に困るものでもなかったので、一年以上気にも留めませんでした。それは見たことのない構造物や、白と黒の翼の生えた人々の戦いの様子でした。死者が出たケースもあったと思います。それでも現実とは思っていませんでした」
明日香が一息ついたところで東堂が尋ねた。
「言い方が厳しく聞こえたら申し訳ないが、病院で相談したことはあるか?」
「はい。2年生の時に一度、受験本番を迎える前に診察だけ受けておこう、と思って。不眠や不安や集中を欠くといった症状はなく、ただイメージが一瞬浮かぶというだけだったので、特に問題視はされませんでした。経過を知りたいというお医者様の勧めで2ヶ月ほどは話を聞いていただきました。しかし改善も悪化もせず、問題が深刻化したらまた来て欲しいと言われ、それきりです」
和久井が不安な面持ちで尋ねる。
「今でも続いてるの?」
「……はい。ここ一ヶ月の間で、急にイメージがクリアになって、それがどういう状況か、どういう意味を持つものか、わかるようになりました。この能力の名前も知りました。『直知』という能力の、一部です。敵勢力の能力により、神様の能力が分断され、こちらの地上の人々の元に降り注ぎました。始めは神様も抵抗して、能力を手元に残しておられましたが、ここ一ヶ月でほぼ完全に分断が完了したため私の側の能力が完成したようです。完全な『直知』はこの世界に起こっていることを全て知る能力ですが、私にあるのは向こうの地上の神様側の事象を知る、という『直知』の一部です。」
「……たぶん長引くだろうから、呼び名をはっきりさせておいていい? 向こうの地上は、異世界。翼の白いのが天使、黒いのが悪魔、でいいかな? 実態は置いておいて、名前だけはそんな感じで」
「大丈夫。でも私が神様と呼んでいるのは、黒い翼の人々の中で一番強いお方。呼び名は悪魔の方だよ。この世界の自由を守るために天使達と戦ってる」
「それはね、なんとなくそう思ってた。明日香さんのイメージ通り」
「イメージ通りなの?」
メタカフェのマスターがテーブルの横に音もなく現れ、二人を一瞥した。和久井と明日香は少し驚いたようだが、東堂が「彼に同じものをもう一杯」と注文するのを聞き、先程呼び鈴を鳴らしていたことを思い出した。東堂はコーヒーを一口飲み、射抜くような目付きで明日香を見据える。
「それで、どうして進学できないんだ?」
「私と同じように、もたらされた能力が完成した人たちがいます。私自身はまだ誰にもバレていませんが、本来は能力や存在を隠蔽する能力とセットになっていた、仲間や敵に自分の意思を伝える能力がそのまま発現した人がいて、神様の能力の分断が完了したことが天使達に知られてしまいました。元々彼らの目論見も、神様の能力が減じた隙に総攻撃をかける、というものでした。これから総攻撃が始まるでしょう」
「どこへの攻撃が始まるんだ? 悪魔の居城へか?」
「私達の世界へのゲートを悪魔達が守ってくれています。そこに総攻撃が仕掛けられます。私達の世界を滅ぼすことが天使達の目的です」
「今まで一ヶ月待てたのだろう? もう二、三日待たせられないのか?」
「仲間や敵に自分の意思を伝える『告知』という能力の完成は、昨日のことでした。私の能力も昨日で更に精度が増して、この能力を神に返すのにどこに行けばいいかがわかりました。天使達は今まさに準備をしています」
「どこに行けばいいんだ?」
「『告知』の能力者の元です。私が能力の使い方をレクチャーできます。彼から神様に連絡してもらって、迎えに来てもらいます。私はこの世界のことがわかるわけじゃないので、彼の正確な所在はわかりませんが、能力の所有者のプロフィールはわかります。彼はS市の同級生です。彼も明日センター試験を受けます。会場に行けば彼に会えます」
「S市なら、会場はやはり違うか?」
「違います。それに……センター試験を受けられたとして、私はやっぱり進学できないと思います」
東堂の矢継ぎ早の質問にほぼ即答で答えてきた明日香が、ほんの少し言い淀んだのを見て、和久井が口を挟んだ。
「どうして進学できないの?」
「……たぶん、どう転んでも、私は死ぬと思う。能力を返さないと、神様が負けて、私達も死んでしまうけど、能力を返したら、その反動で私は死んでしまう」
聞き終え、和久井は拳を握って身震いした。はずみで焦げ茶のソーサーが割れたが、和久井は気に留めない様子で言葉を返した。
「じゃあ、駄目じゃん? 別の方法を探す」
「……あ、『感知』が宿った」
「……そうなの? この状況の打破に使えそう?」
「いや、それは無理だけど……それは返しても死なないから、良かった」
「すまんが、ちょっと、席を外すぞ」
東堂はコーヒーを乱暴に飲み干すと、またかぶりを振り、呼び鈴を鳴らし、席を立った。厠へ立ち、アンティーク調の洗面台の鏡の前で自分の目を見る。頭の中で、以前調べたことのある、病的妄想への対応のマニュアルを思い出している。否定も肯定もしない、という方法が、セオリー。だが、もはや、公私含めて自身の経験にはない事態に、正解が見えない状態になってしまっている。彼らの携帯からご家族へは連絡させているが、ここまででその返信はない。本来は私用の連絡先を塾生や家族に伝えることは禁じられているが、東堂は今回は緊急と判断し、二人の家族に自らの携帯から連絡した。しかし不通。父母の意向に沿うという王道も通れない。
病院にはかかったことがある。病的状態とは診断されなかった。そのように明日香は話した。実際東堂は、明日香の話が荒唐無稽とは感じながら、明日香本人が病的な状態にあるとは感じていない。自分の信じる通りやるしかない、と考えを整理した。
東堂が席に戻る際、明日香と和久井が「気取られないように」と言葉を交わしたのがかすかに耳に届いた。東堂は、教室を見回る際に足音を立てないよう常日頃配慮しており、結果、たとえ革靴を履いていても足音の立たない歩き方が普段から定着している。また私語を見付ける耳聡さもあった。
東堂は、同じタイミングで席に到着したマスターに店を出る旨を伝え、二人に「とりあえずS市に向かうぞ」と促した。S市まではJRで二駅、車でも20分程度の距離である。
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