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閑話:伯父から宗教系の大学への進学を勧められて困っています

次回は来週火曜19:00更新です。

 夏休み、高校の課外学習も一段落する頃。開館、閉館時間を普段より前倒しにするため早朝からの勤務となる。昨晩のうちに洗浄し干しておいた空調機のフィルターをセットし、開館時間には室内が適温になっているよう、早めに始動する。とはいえ、まだ暑い盛りではあるが、早朝の空気には冷たさが混じり始めている。


 夏は学習塾にとって特別な季節だが、特に二年生には一年、三年とは全く別の指導の体制をとる。二年生は、冬には進路を決定し、受験大学・受験科目を決めた上で本格的なスタートを切る。その準備の時期となるのが二年の夏だ。国立大学に向けて英数国社理トータルの学習を進め、途中で進路を変更して公立大学、私立大学を英国社で受験する、結果ワンランク下の大学に進学することになる、というケースは一般に多く見受けられるが、当然非合理的だ。やむを得ないケースは多くある、しかしそれをも見越した計画で最初からスタートすべきだ。そのスタートをどのように切るかの最終決定が二年の冬。九月からは高校での通常授業が再開されるため、夏休み中に必要な準備を終えておかなければならない。大学の構内、研究室内を見学でき、模擬講義を受講できるオープンキャンパスというイベントへの参加を促し、両親との密な話し合いの機会を持たせ、それらの結果をアンケートで確認し、しっかりしたスタートを描けるまで何度でも二者面談を行う。


 アンケートを持った明日香が東堂の待つ面談室に入る。


「伯父から宗教系の大学への進学を勧められて困っています。塾の学費も一部負担してくれていて、無下にもできません」


「具体的にどこを勧められているかは言いづらいか?」


「新興宗教系です。それ以上は控えておきます」


「それだけで粗方想像はつくが……」


 明日香からの相談に東道はかぶりを振った。経験はあるが、方針の共有に時間がかかりスタートが遅くなりがちなケースに当たる。


「明日香、自分自身が行きたいところはどこだ?」


「行きたいのは東大です。迷ったことはないです」


「そこさえ明確ならいい。しかしスタートが遅れるのは避けたいところだ。オジさんが面談の場に直接来る、ということは可能か?」


「いえ、それには及びません。自分でなんとかできます。でも、簡単ではないと思います。自分とは違うものを信じている人をどのように論破したらいいかを教えてください」


「それは『論破』の対象でなく『説得』にあたるものではないか、とウィトゲンシュタインが言っている。ウィトゲンシュタインは、自分がこの世に生まれたのと同時にこの世界も生まれたのだ、と主張する王様を例に挙げている。その王様に、とある地層には何万年も前に生きていた恐竜の化石が存在するのだから、あなたが生まれるより先に世界は存在していた、と反証を提示しても論破はできない。王様は何と言い返すと思う? ウィトゲンシュタインという哲学者の業績と著作も合わせて答えよ」


「言語論的転回と呼ばれる、言葉の使用方を明らかにすることによって哲学的諸問題の解決を図る、という言語哲学というジャンルの創始者。代表的著作は『論理哲学論考』。私が王様なら、自分がこの世に生まれたのと同時に、何万年も前に生きていた恐竜が化石になったかのように見えるものも一緒に生まれたのだ、と答えます」


「創始者と言うなら実は彼の師匠たるゴットロープ・フレーゲと言えるが、大学受験の範囲での理解であればウィトゲンシュタインが創始者で問題ない。さて、王様にそう言い返されたらこれ以上何と言える? 彼は盲目ではない。彼の見ているものは我々の見ているものと同じだ。彼にとってこの世のあらゆるものは彼の信念を翻す証拠にはならない。だから、こちらの方が正しいと『論破』することはできない」


 明日香の顔が曇る。


「じゃあ、どんな『説得』ができるんですか?」


「議論でなく、実質的には交渉だ。オジさんにも、この大学の方が良い、と勧める理由があるはずだ。その理由に乗るとしても、東大の方がもっと良いじゃないですか、と持っていくんだ。幸い東大なら、もっと良いと言い易い。国内の他のどの大学よりもな。できそうか?」


「……できると思います。でも、何か、悔しくないですか? 私は伯父の信じているものを信じているから、東大に行った方がそういう意味でももっと良いから東大に行きたいわけじゃないです。信じていないから東大の方が良いと思っているんです。ウィトゲンシュタインの言う『説得』もそういうことじゃないでしょう?」


「腹をくくれ、明日香。確かにウィトゲンシュタインは我々にとっての真実を彼にも認めさせるような『説得』について言及しているが、しかし明確な答えは出していない。オジさん自身と話したことはないが、経験から言って、信仰心を相手取るのは困難だ」


「……逃げているみたいですごく嫌です」


「お前が将来どのような職に就くかまではまだもう少し先の話だが、腹をくくらねばならない機会は理系よりよっぽど多いぞ。優先順位をつけろ。まずは受かることだ」


 明日香はまだ納得できない様子で、机上のアンケート用紙を摘まんでは放すという動作を繰り返している。東堂は、明日香と彼女の母について、納得した上でなければ次に進みたくないタイプ、とみなしている。そして、母の兄か弟か、オジさんも同様のタイプであるならば、本格的な決着には相応の時間を要するだろう、と想像した。衝突は避けさせたい。しかし一方、明日香本人もまた、わだかまりを抱えたままでは歩みを進めることができず、それもまた避けたいところであった。東堂は「仮に」と前置きし、話し始めた。


「たとえ衝突するとして、やはり今の時期はどうしても勧められない。大学入学後だ。そのタイミングでなら、そのオジさんと対決するのも悪くないだろう。その対決は神学論争のたぐいのものになる。相手の土俵に乗るのは、交渉においても議論においても避けたいところではあるのだがな」


「伯父の世界観の上で伯父を『説得』する、ということですか?」


「正確には『説得』を試みる、ということだ。先の王様の例は極論だ。実際には宗教者の方がくみしやすい。宗教には宗教の理論があるからな。だが、それでどうにかなる程度ならお前も困りはせんはずだ。相手の信じていることを自分は信じていないということをしっかり表明する、という程度の話だ。もし相手の信仰心を消滅させることを目標とするのは、原理主義の過激派が捕虜を洗脳するのにも似る。非人道的と言わざるを得んだろう」


「洗脳ってどうやるんですか?」


「長期間の監禁と薬物と暴力に依る。犯罪行為だ。興味を持つなとは言わんが……どうやらそのオジさん、進学先に口出しするだけでなく、お前の人生にもっと大げさに関わるようだな?」


「伯父というのは嘘です。母が再婚を検討している相手です。嘘を吐いてごめんなさい……後で、本当のことを言おうとは思っていたんですけど」


「お母様はその件はご存知でいらっしゃったのか?」


「いえ、知りませんでした。私の進学先について、その人から話が出て、私も母もその時初めて知りました。母は再婚を取り止めようとしています」


「一般に、こういう事柄に外野は立ち入るべきでない。言い方が生々しくて申し訳ないが、男女の事柄としてなら、お前だって立ち入るべきでないと言える。だが家族や親子としてはまた別だ。どういう決着をお前は望んでいるんだ?」


「信仰を絶って、母と同じものを見て、共に歩んで欲しい。宗教者であることを抜きにしても、あの人が母を愛していて、大事にしようとしているのは見ていてわかります」


「信仰を絶つことを望むのは性急だ。異なる信仰を持つカップルも日本以外には少なくない。お母様が再婚の取り止めを検討するのも、他に理由があるかもしれん。例えば、お前がそういう相手との結婚を望んでいないだろうことを汲んで、であるとか」


 心当たるところがあったようで、明日香は口元に手をやり、沈黙した。東堂はアンケートを手元に寄せ、どこのオープンキャンパスに行ったのか、この夏の学習は目標通り進んだか、それぞれの項目をチェックし、おおむね問題のない中で一点、志望大学について家族と意見の相違がある、という選択肢にチェックが入っており、その理由を記載する欄は空白であることを確認した。見る限り、この一点を除いて、他に問題はない。


「母と、その人と、もう一度話してみます。でも、今のところは、微妙な問題に立ち入るのは止めておきます。でも、その微妙な問題は、死ぬまでずっと放っておくのは難しいと思います。先生の仰る通り気にしているのは母でなく自分だけかもしれませんが、父と呼ぶことになるかもしれない人なので、きっと無視はできません。いずれにせよ受験が終わってからですが、いつ、どのように、話したものでしょう? その人以外にそういう人と話す機会があったら、その場合はどうしたら?」


「一言では難しいが、特別なのは今回だけで、あとはケースバイケースだ。俺とお前だって信じているものを比べてみるということがもし可能なら、相当違っているはずだ。もしかしたら、宗教を持つ持たぬという差よりももっと深刻な隔たりがあるのに気付いていないだけかもしれない。宗教を持つ持たぬも絶対的な差だと考えず程度の問題だと考えた方が実際的だ。その人と微妙な問題について話すのも、自然と機会は訪れるだろうよ。その人以外の場合を想定するとして、相手は選べ。宗教者であろうがなかろうが、意見を戦わせる相手はきちんと選ばなければ、身の危険があったり将来を狭めたりもしかねない。それ以外には特段気にすることもなかろう」


 明日香が悪い顔で笑った。


「ちょっとだけすっきりしました」


「そいつは良かった」


 東堂も内心ではかなりホッとしている。明日香が話をこじらせようとしない限り、問題なくスタートを切ることができるだろう。


「大学に行ったら、そんな話をする機会は増えるでしょうか?」


「学友次第だろう。ああ、そういえば、恋愛絡みで志望大学が左右されることはあるか?」


「……なんですかいきなり」


 明日香は虚を突かれた様子で、一拍遅れて赤面した。


「いや、連想ゲームみたいなものだ。世界観の違いとまでは言わんが、交際すれば、交際するとはどのようなことかについて互いの認識の違いを擦り合わせる機会はあるだろうよ。そこに思い至って思い出した。俺は普段教え子が誰とどのような関係にあろうが、学習がはかどっている限り口出しせんが、志望大学決定に際しては、口出しせざるを得んのだ。関係なく選ぶ奴もいるが、想い人がどこを目指すかによって志望大学を変える奴も多い。お前はどうだ?」


「……私は左右されませんが、左右されるとしても、志望大学は東大のままです」


「わかった。面談は終わりだ。家族での話し合いが終わったら結果を教えてくれ。それ以外は問題ないからこの調子で頑張れ」


 面談室から出ていった明日香を見送り、東堂はアンケート用紙とスケジューラーにメモを取った。2週間程度先に話し合いの結果を尋ねるリマインドを入れ、アンケート用紙には面談の概要の他、小さな文字で「本命和久井、次点白河」と書き添えた。

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