閑話:どこまで自由なのでしょう
一日遅れました。次回は来週火曜19:00更新です。
3年生の行き先があらかた決まり、新学年を迎える春期講習が本格化する直前の、冬と春の狭間の時期。準備がうまく進んでいれば、面談の入らない期間が一週間ほどできる。掲示物の貼り替えに合わせて校舎も大掃除をし、磨いた窓の外に晴れた空が広がっていた。生徒の質問対応にも普段よりじっくり時間を割けるところだが、あまりに時間をかけ過ぎると今度はまた面談等で忙しくなる時期に「なんでじっくりやってくれないんだ」と不満を持たれかねない。学習塾としての経営的側面に学習環境を左右させないよう心がけていた東堂ではあったが、生徒と話すことそのものは、彼が最も好むところであった。
その日、法罰に関する文章からの出題の質問対応を経て、東堂と和久井はしばし雑談に移った。
「ところで先生。なんで人を殺してはいけないんですか? って聞かれたらどう答えるんですか?」
「お前もそういえば思春期の高校生だったな。いかにもありそうな質問じゃないか」
「矛先考えないと皆さんを困らせるから、控えて取っておいたらいつの間にか自分でも忘れてたって感じですけど」
「その話私も聞きたいです」
「え、なになに面白そう。明日香さん行くなら僕も僕も」
「面白そうか? この話題。少し時間がかかるだろうからとりあえず面談室に来い」
自習スペースにいた明日香と、帰り支度をしていた白河も加わった。白河は元バスケ部で和久井と同期、今は新聞部で明日香と同期だ。職員席で多少話し込んでも他の生徒へ声は届かないが、東堂は彼らを面談室に促した。傾いた日差しが磨りガラスを照らし、面談室内は明るい。
校舎内はところどころ間仕切りで区切られているが、基本的にワンフロアで構成される。東堂の務める塾は映像授業を主とする塾で、授業を視聴する視聴席、自習机の並ぶ自習スペース、それらを見渡せる職員席、他に参考書や進路に関する書籍のスペース、休憩室、面談室、手洗い、サーバー室兼倉庫、という構成だ。職員席から面談室に移り、椅子は四脚あったが、白河は和久井の座る椅子に自分も座ろうと、尻で和久井を押しのけようとし、和久井はそれを肘で払いのけている。白河がバスケ部を辞めたのは、本人によれば「体育会系の馴れ馴れしい感じが苦手」だったと東堂は記憶している。明日香はじゃれ合う二人からは多少距離を取って座った。
「で、どうなんですか先生。ことの次第によっては記事になります」
結局和久井の膝に座った白河が、和久井の膝から身を乗り出して尋ねた。和久井は明日香に助けを求める仕草をしているが、明日香は愛想笑いを返すだけだ。
「そんな大した話は出て来ないが、そうだな、質問を整理させてくれ。『数ある悪のうちなぜ人殺しが悪なのか』という質問なのか、『なぜそもそも悪を為してはいけないのか』という質問なのか、どっちだ?」
明日香が即答した。
「両方でお願いします」
「ではまず前者から。悪というものが存在することを認め、数ある悪の中で人殺しを取り上げて『なぜ人殺しは悪というグループに属するのか? 万引きは悪でも人殺しは悪ではないのではないか?』という趣旨の質問、として考えた者はいるか」
「じゃあ、僕それで。万引きがアウトで人殺しがセーフってどういうこと、とは思いますが」
「経済学部志望らしいな。社会科学的な整理の仕方と言える。現実的に問われるのはこちらのケースだろう。国ごとの法律の条文から『どういう人殺しなら悪でないのか』を探せば現状の法的線引きは出るな」
「人殺しがセーフの場合って、例えば死刑とか戦争ですか?」
「EUじゃ死刑は悪だ。アメリカは州によって違う。日本は死刑は悪でないが戦争については法が整備されていない」
白河が何かしらメモを取っている。白河はかつて実際に東堂のことを記事にしたことがあった。それを東堂も読んでいる。今回も何かの記事にする気かもしれないが、東堂は記事の内容にまで関与する気はなかった。白河が書く記事なら、塾を悪く書いていようが許容の範囲、と判断し、校内での露出の機会があるならチラシ配りの手間が少しは減るな、という程度にとらえている。
対して和久井と明日香は、腕を組み、頬に手を当て、それぞれ考える姿勢を崩さない。
「俺そっちはあんまり興味ないです。もっと根本的な話が聞きたい」
「オー、和久井、全否定良くない」
法が禁じているということとそれがすなわち悪であるかということについては、根本的とも言える議論の余地が残っている。だが機会があればまた話すことになるだろう、と東堂は話が流れるに任せた。
「それで、なぜ悪を為してはいけないのでしょうか?」
明日香があらためて問いかけた。
「後者については、人殺しに限らず『なぜそもそも悪を為してはならないのか』という趣旨の質問になるな。万引きも人殺しも悪いのは悪いが、悪いからしてはいけないとはどういうことだ、と。和久井と明日香の問題関心がこちらということになるか。まず『悪というものが存在する』を認めるかどうか、次に『為してよい悪がある』という余地を認めるかどうか。お前らの立場はどの辺だ?」
和久井が答える。
「『為してよい悪がある』の話はさっきの話とほぼ同じですよね? 『悪というものが存在する』は、認めないわけにはいかないけど」
「悪というものの存在を認めるとして、悪から『為してはらない』という要素を抜いたら、何が残る?」
少し考え、和久井が続ける。
「スッカスカですね。為してはならないわけではない、全然やって良いけどそれは悪、ってのは何を言っているのか良くわからない」
「そういうことになるな。つまり悪という概念の中には、それを為してはならない、という意味も一緒に含まれている、と考えて良いだろう」
和久井はまだ反論の余地を探しているようだが、次に声を発したのは明日香だった。
「『悪というものは存在しない』ならどうでしょうか?」
「最もラジカルな立場だな。その中でも更に極端な、概念すら存在しないとする立場の相手には、今言った『悪というものは存在しない』の『悪』とは何を指して言ったんだ? と尋ねねばならない。『悪』という言葉をあなたも使うのか? 使うのなら、その概念が存在しないとはどういう意味で言っているのだ? と。ところで白河。『ラジカル』の意味はわかるか?」
「過激な」
「コレクト。『コレクト』の意味はわかるか?」
「正しい。先生ちょいちょい問題挟むよね」
明日香が先を促すため質問を続ける。
「『悪という概念は存在するが、現実には悪に該当するものは存在しない』なら?」
「かなり苦しい譲歩だが、プラトンのイデア論に似た解釈だな。真の正三角形はイデア界に存在するが現実世界には存在しない、これを悪に置き換えると、何を言いたいかはわかる。だが、真の悪と偽の悪を想定したところで問題は少しも前に進まない。偽の悪だからといって、それを為してよいのかどうかはあらためて問わねばならないからだ。和久井、イデア論について簡単に説明した上でプラトンの著作を一つと師匠の名前を答えよ」
「えーと、我々の世界は不完全なもので、正確に内角が60度づつの正三角形などどこにも存在しない。真の正三角形などの本当の実在は理想的世界であるイデア界に観念として存在している、という二元論の走り。著作は『国家』『饗宴』『ソクラテスの弁明』など。師匠はソクラテス」
「イグザクトリー」
白河はメモのページをめくり、新たに何かを書き始めている。和久井は何かしらの納得に至ったようで、何度か頷いている。明日香はまだ思案顔だ。
「でも、人を殺すことはできますよね?」
「まず先の話をまとめておこう。なぜ人を殺してはいけないか。死刑のように認められている殺人もあるが、一般的に人殺しはやってはいけない。人殺しは悪いことで、悪いことはしてはいけないことだからだ、という答え方になる。煙に巻いているようだが、これで一応終わりだ。では、人を殺してはいけないからといって、人を殺すことはできないか、というと、できることはできる。ここから先は別のテーマになる」
「愚行権ですね」
「そうだ。明日香、愚行権について簡単に説明してみろ」
「人殺しや自殺など、愚かな、悪い行為をする権利。ここから先は、善悪でなく自由についての議論ですね」
「両者の領域はオーバーラップしているので分けて議論するのは難しいがな」
「先生はどうお考えなんですか? 私としては、最初から愚行権について先生がどうお考えかが気になっていました」
ここで初めて、東堂が考え込んだ。しばらくの沈黙の後答える。
「俺が認めようが認めまいが、人はその自由を手にしている。そういう意味では認めている。だが、例えば君らに自殺する、人を殺す自由があるとして、いざそれをしようとするなら俺にもそれを止める自由がある。具体的にどの行いが愚行に当たるかはケースバイケースだろうがな」
「そう、自由ですよね。先生がそう言うのを聞きたかったんです」
明日香がにやっと微笑んだ。愛想笑いと心から笑っている時の笑顔に差があり、本人に自覚はないが、しばらく付き合いがあればすぐにわかる。明日香は可愛らしいというより整った顔立ちであるが、彼女の心からの笑顔は何かしら悪巧みをしているような印象を見る者に与える。和久井も白河もその落差に心を奪われている。白河は両手で胸を押さえ「明日香さん、それ最高」と臆面もなく言い、和久井は膝の上で身悶えしている白河を「キモいわ、そろそろ降りろや」と押しやった。
何が嬉しいのか、とその時の東堂は感じたが、特に気にも留めなかった。かつて彼らはそんなやり取りをしている。